◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆

Chapter 4.二ノ宮 賢吾



 子供の頃、母と買い物中に迷子になったことがある。
 弟が歩けるようになった盛りで、彼から目が離せなかった母といつの間にかはぐれてしまっていた。
 自分の意思を伝えるのは得意でなかったが、こういう時どうすればいいかというのにだけは頭が回って、迷うことなく、店員に声を掛けた。
『おかあさんとはぐれちゃった。ほうそうしてもらえるの、どこ?』
 泣くでもなく、平然と言う6歳児に、店員は一瞬きょとんとしたが、すぐに構内アナウンスできる場所へと案内してくれた。
 放送を聞いて駆けつけた母のほうが泣きそうな顔をしていて、申し訳ない気持ちになったことをよく覚えている。



「休憩にしたら? 今日はちょっと弾きすぎよ?」
 1曲弾き切るタイミングを見計らったように、母が部屋に入ってきてそう言った。
 湯気の立ち昇るコーヒーカップをこちらへと差し出してくる。
 賢吾はそれを素直に受け取って、ひと口飲んだ。
「本気でピアノやってた時みたいね。急に難しい曲に手を出して」
「……本気でやろうと思って」
「え?」
「なぁ、母さん。来年、音大受けたいって言ったら、どうする?」
 賢吾は真っ直ぐに母を見上げた。
 母はその言葉に目を丸くしたが、賢吾が真剣なことが分かったのか、すぐににっこりと笑った。
「応援する」
 即答に驚いて、言葉を返せなかったのはこちらのほうだった。
 母は静かに目を細め、茶目っ気たっぷりに言う。
「でも、今度は推薦でもなんでもないんだから、ちゃんと勉強もしないと駄目ねぇ……賢くん、お馬鹿さんだったから心配だわ……」
「お……あれは、ピアノしかやってなかったからだろ。オレだって、やる気になりゃ……」
「そうね。きっと、賢くんならできるわね」
「…………」
「全く……」
「あ?」
「この時を何年待ったかしらね」
「母さん……」
「でも、お母さんは良くても、お父さんがなんて言うかしら」
「…………」
「今度こそ、きちんと勝ってね?」
「母さん、結構スパルタだよなぁ……甘い顔しといてさ」
「だって、続けるのもやめるのも、本人の意志次第だもの。乗り越えていくのは、本人でなくちゃいけないわ」
 母は少しだけ寂しげに瞳を揺らしながらも、そう言い切った。
 それが、この4年で彼女が至った答えか。
「学費のことは心配しなくていいわ」
「え?」
「2人で話し合って、きちんと積み立てはしていたの。……馬鹿な人よ。意地悪。意地っ張り。子どもの応援の仕方もわからないんだもの」
 そう言って唇を尖らせる母は、まるで少女のようだった。
 普段見せないその表情に、賢吾はなんとなく口を開く。
「前から気になってたんだけどさ、なんで、母さんみたいな箱入り娘が、あんなのと結婚することになったの? ほら、本家の頑固ジジイだって、親父のこと嫌ってんじゃん。普通に考えたら、美女と野獣的な組み合わせな気がするんだけど」
「……言ったら驚くかしらね」
「へ?」
「好きになったのは、私のほうなのよ?」
「…………。嘘だろ」
「ホントよ。むしろ、あの人が、私に一方的に片想いしてる図のほうが想像できないでしょ?」
「あー、そう言われると……なんとも……」
「ふふ……。短大を卒業したら、お父様が決めた人と結婚するかもしれない、って話まで、本当はあったんだけどね?」
「さすが、田舎の元地主……」
「ね。本当にそうよね。でも、上京して、大学に通い始めて……世界は広がるし、興味の視野だって、嫌でも大きくなったわ。それで、本当は禁止されてたんだけど、アルバイトを始めたの」
「……大学生でアルバイト禁止ってのもすげーな」
「お父様、本当に、私のこと、猫っ可愛がりしてくだすったから」
「そりゃ、大事なひとり娘だもんな」
「……そうよねぇ」
「で?」
「制服がシックで可愛い喫茶店があってね、そこで働き始めたんだけど、……今で言う、ストーカー……みたいな男の人に引っ掛かっちゃったのよ」
「母さん、ぼけぇっとしてるもんなぁ」
「もぅ! 失礼ねぇ……。でも、昔のことだから、ストーカー規制法なんてないし、警察に言っても取り合ってもらえなくてね。地元じゃないから、相談できる相手もいなくて、本当に困ってたの。そんな時、そこの喫茶店の常連だった法律事務所の所長さんがね、まだ見習い修行中だったあの人を紹介してくれて」
「……なんという接点」
「ねぇ、本当よねぇ」
「けど、親父なんかが頼りになるのかよ……」
「あらあら……なめられてるわねぇ」
「だってよぉ……」
「あの人、お父様が警部さんだったのよ? 10年も前に亡くなられたから、全然そんな話もしなかったわね、そういえば」
「……そうだったのか。じゃ、父さん伝いで、祖父さんに口利いてもらったの?」
「ううん。あの人、お義父様から勘当されてたから、全然そんなことはないわ」
「へ? じゃ、なんで?」
「同じように、警官になることを望まれていたのもあって、柔道と剣道がそれなりにできるのよ。要するに、用心棒ねー。ほら、ずっとむすっとしてるから、凄味もあるし! あはは」
「あはは、じゃねぇし……」
「だってぇ……所長さんに呼び出されて来た時のあの人ったら、体は大きいし、むすっとしてるしで、取っつきづらくてしょうがなかったのよ? でも、助けてもらう身で、そんなことも言えないから、いつもの調子で挨拶してねぇ……その時のあの人の表情ったら」
「そりゃ、こんなぽやぁんとした人、そうそういないもんな」
「賢くん、本当にいちいち失礼だわ」
「……用心棒してもらう内に惚れちまったの? あれに?」
「だってぇ……用心棒として連れて歩く訳にもいかないだろうから、恋人のふりしてくれって所長さんが言うんだもの。恋人のふりなんてしてれば、その内、その気にもなるじゃない……」
「全身全霊で恋人のふりしたんだね」
「そりゃぁ……お世話になってるからお弁当とかお菓子とか、差し入れしたりね……」
「で?」
「え?」
「解決したの? ストーカーは」
「あ、ええ。……私が、本気になったあたりから、見かけなくなって……」
「……へたれでよかったなぁ……」
「ふふ。だって、昔は本当にがっしりしてて強そうだったのよ、あの人」
「今も充分強そうだよ」
「……でも、だいぶ線が細くなったわよ」
「ふぅん……」
 両親には両親のドラマがあったのだな、と思いながら、コーヒーをすする。
 母は少しの間静かにしていたが、突然俯き、搾り出すように言った。
「……ごめんね」
「あ?」
「あの時、私がもっと強く言えてたら、こんな遠回りなんてしなかったのにね」
「……それは違うだろ。オレが甘えてたんだ」
「…………」
「10年以上も、ピアノのことだけ考えてればいい環境をくれた人に、文句なんて1個もないよ」
「賢くん……」
「母さん、親父に引け目あるだろ?」
「え?」
「祖母ちゃんから聞いたことあんだ。元々、東京で事務所やる気だった親父を、母さんが結婚したいって連れてきて、祖父さんがそれに猛反対。”許してくれないなら、もう帰ってきません!”って啖呵切ったんだって? その時に祖父さんが出した条件が”こっちで暮らすなら結婚してもいい”だったって。修も知ってるよ? ガキの頃、2人でよく遊びに行ってたからさ」
「……そっかぁ……お母様ってば、余計なこと……」
「はは! 懐かしいなぁ。今、ぽっと思い出しちまった」
「…………。あの人の夢だったのにねぇ」
「ん?」
「東京で事務所やるのが」
 遠い目で母が言う。
 この人にはこの人なりの、心の闇があるのかもしれない。
 母の寂しげな表情を見ていられなくて、賢吾はすぐに優しく言った。
「場所なんて関係ねぇだろ」
「…………」
「あの人は、やりたいことやってるよ」
「……私、よく分からないのよね」
「え?」
「意地でも徹すほどにやりたいことなんて、出来たことないから」
「…………」
「だから、眩しかったんだと思うわ。あの人のことが。ううん。賢くんも、修くんも、私にとったら、みんな眩しいのよね……。だから、好きにさせてあげたかった。でも、全部、中途半端で……」
「母さん……」
 すぐに気を取り直して、母は続けた。
「好きなことを見つけるのも、好きなことがそのまま得意なことになるのも、とっても凄いことなのよ」
「……そう、なのかもなぁ」
「そうなのよ」
「けど」
「 ? 」
「オレ、母さんが誉めてくれなかったら、ピアノなんてすぐ飽きてやめてたと思うよ」
 賢吾の言葉に、母は驚いたように目を丸くした。
 賢吾は気恥ずかしくなって目を逸らし、ポーンと鍵盤を叩いた。
「誰かの反応がなきゃ、好きなことになんて、ならねぇんじゃねぇかな。少なくとも、オレはそうだもん。誰も聴かないピアノには、何の価値もないよ」
「……賢くんって」
「ん?」
「こんなに良い子なのに、どうして、モテないのかしらねぇ……。子どもの頃から、お母さん、不思議でならなかったのよ。迷子になった時だって、堂々としてたし。……まぁ、口も性格も悪いけど」
「口も性格も悪かったからじゃないの?」
 母が付け足した言葉と、自分の声がユニゾンした。
 それで、母と目が合って、2人はなんとなく一緒に笑う。
「設楽さんがきっかけなの?」
「ん?」
「ピアノ」
「……ああ、そうかもな」
「……素敵だったわねぇ、あの子の歌」
「そう、だな」
 母は思い出すようにそう言う。その話題に落ち着かず、賢吾は俯いた。
「……この家も」
「ん?」
「来年の春からは、静かになるのねぇ」
「…………」
「上手く行ったら、2人とも、出て行くんだものね。お母さん、覚悟決めなくちゃ」
 それは、自分が1番懸念していたことだった。
 母は寂しげに目を細めたが、すぐに誤魔化すように笑う。
「あ。柚子ちゃん、ご飯食べてくか聞かなくっちゃ! 賢くん、もし、遅くなったら、あの子のこと送っていってくれるかしら?」
「ん? 柚子って……あの三つ編みのちっこいのか?」
「ちっこいのって……」
「修はああいうのが趣味なんだなぁ……」
「賢くん。まだ、修くん、何にも言ってくれてないんだから、変なこと言ってからかっちゃ駄目よ? あの子が拗ねると、お父さんより怖いんですからね!」
「……何考えてるか分かんないからなぁ」
「もぉう……修くんは優しすぎて、自分の意思を伝えるのが下手なだけよ」
 そうやって、母が甘やかすから、弟の意思表示の下手さはいつまで経っても治らないのだ。
 自分のことなど棚に上げて、賢吾は心の中で呟いた。



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