◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆
Chapter 5.渡井 柚子
『親愛なる渡井柚子様 その後、いかがお過ごしでしょうか? 入院している身でこう言うのもなんだけれど、今のところ、ボクは元気です。 やりたいことに邁進するみんなの姿を見ていて、ボクも、自分の我を徹すために出来ることをやりたいと考えています。 運がよければ、春にはそちらに戻れるかもしれません。 戻れなかったら、その時はその時ということで。 たかだか、1年や2年遅れる程度で、今更焦っても仕方ありませんから。 ひとまず、ボクは、今、誰に対してでも胸を張れるようになりたい。 その気持ちだけで、日々を過ごしています。 志倉先生からはたまに手紙で連絡を貰っています。 今、そちらでは進路相談の時期だとか。 貴女はもう行く道をひとつと決めているから、何も心配要らないのでしょうね。 強く前を向いて、ひたすらに歩く。 その道は絶対に間違いじゃありません。 何度も言いますが、ボクはいつでも応援しています。 手紙を書くのは苦手だと言っていたので、返事は要りません。 入院生活は結構退屈なんですよね。 あ、進路相談といえば、ですが、ボクとしては一番心配なのは、修吾クンです。 ……ま、貴女がいるから大丈夫でしょうかね。 それでは、また気が向きましたらお便りします。』 手紙を便箋にしまい、柚子は静かに夕方のことを思い返す。 手を繋ぐのは慣れてきたけれど、それでも、彼が自分に触れようとする手は今でもぎこちない。 頭を撫でる仕草さえ、まだまだおぼつかない。 そんな彼に、まさかあんなに強く抱き締められるなんて思ってもみなかった。 彼の温もりを思い出して、自分の手を見つめた。 「……震えてたなぁ……」 柚子は小さく呟き、目を細める。 あと1日早く、秋行の手紙が届いていたら、もう少しちゃんと彼の話を聞いてあげられたかもしれない。 どうして、あんなに彼は不安そうだったのだろう。 自分と一緒に本を出せたらいいね。以前、そう話をした時、彼は「頑張る」と張り切っていたのに。 柚子の留学の話にしたってそうだ。 なんだか、数年先の話はしたくないかのように、彼は軽くその話を流した。 大丈夫。理解してる。だから要らない。今はその話はしたくない。 頭も察しも良くない自分であるけれど、彼の言葉はそう聞こえた。 けれど……、それはあまりにも刹那的な言葉だな、と感じている自分がいる。 今だけじゃ駄目なのだ。 もっと先が欲しいから、柚子は留学をしたいと、更に望むようになった。 狭い世界では描けないものがある。見られないものがある。知ることの出来ないものがある。 自分の前の世界を広げてくれたのは、他でもない、彼なのに。 どうして、そんな状態になってしまっているのだろう。 「もっときちんとお話を聞くべきだったかな……。でも、修吾くん、わたしに話したくなさそうだったしなぁ……。……舞ちゃんにだったら、話したりするのかな?」 柚子は唇を尖らせて、普段、口にはしないけれど感じていることをそのまま呟く。 2人とも好きだから、それがバランスの良い関係ならば、特に何も言う気はないのだけれど、そうやって、力になりたい時に、自分を選び取ってもらえないのは、やっぱり悲しい。 「柚子ー。夕飯できたわよー」 春花には食べていかないかと誘われたけれど、丁重にお断りして帰ってきたのだ。 なのに、母といったら、昼寝をしていて何も準備していなかった、とお茶目に笑い、柚子が帰ってきてからようやく準備を始めた。 こんなことなら、ご馳走になってくればよかったなぁ、と思ったのは言うまでもない。 柚子が階段を下りていくと、ちょうど玄関のドアが開いた。 「ただいまー」 少々疲労をにじませた声で、父が帰ってきた。 柚子はにっこり笑って「おかえり」と告げ、すぐにキッチンに入る。 「ちょうど、ヒロくんも帰ってきた〜。おかえりなさい」 「ちょうど、って……、もしかして、今から夕飯?」 父はネクタイを緩めながらキッチンに入ってきて、苦笑してみせた。 「いいじゃない、別に〜。ちょっと寝すぎちゃっただけなんだから、あんまり責めないで〜」 「責めちゃないけどさ」 「早く着替えてらっしゃいよ」 「……はいはい。全く、和海ちゃんには敵わないね」 母の様子に、父は失笑しながら、キッチンを出て行く。 渡井家の両親は、他の家と比べるとだいぶフラットらしい。 舞が遊びに来た時に、2人のやり取りを見て、そんなことを言って帰っていった。 若いから余計かなぁ、という言葉のおまけつきだった。 「うちって、フラットなんだって」 「え? どうしたの? 急に」 「前、舞ちゃんに言われたなぁって思い出したの」 「ああ……。名前で呼び合ってるからかな? うちとしては普通なのにね」 「うん。わたしも、こういうのがいいなぁって思う」 「じゃ、将来、そうすればいいじゃない」 柚子の言葉に、母は嬉しそうに笑ってそう言った。 照れくさくなって、「そだね」とだけ返し、柚子は席に着く。 将来……? そこまで先のことは、さすがにイメージ出来なかった。 『久々に、学校に伺ったら、保健室登校をしていると聞きまして……。社会生活を上手く営めずに、駄目になっていった人たちを何人も知っておりますので、心配になりまして……』 部屋に行っていろ、と言われたけれど、落ち着かなくて、廊下でこっそり話を聞いていた。 有働は言葉を濁しながらも、自分のことを”社会不適合者”と言った。それだけは感じ取った。 その表現にはもう慣れたと思っていたけれど、やっぱり、慣れることなんてないのだな、と唇を噛む。 『それで……ご提案なのですが、中学を卒業されたら、そのままお嬢さんをパリ留学させてみる、というのはどうでしょうか? 生活面に関しても、こちらで出来る限りサポートさせていただきますので』 『単刀直入に聞かせていただきますが、それは……うちの娘が、他の人のように社会に馴染んだ生活は出来ない、とおっしゃりたいのでしょうか?』 『ヒロくん……』 『いえ……そういうつもりはありませんが……。ただ、お嬢さんのように、才能に恵まれた子が、人間関係などの瑣末な悩みで、壊れてしまうようなことは……私はあってはならないことと考えております。その才能を守り、育てるための仕事が出来れば、と……』 『あなた方にとっては、あの子は、才能の塊……甘い果実なのかもしれませんね』 『…………』 『けれど、あの子は、1人の人間ですし、これから先の長い人生、きちんと自分の足で歩いていかないといけないんですよ』 『それは勿論です。お嬢さんの意志を尊重することは第一で……』 『僕も妻も、どちらかといえば芸術畑の人間です。あなたのおっしゃりたいことも分からない訳ではありません。けれど、ひとつの小さな石に躓いたからといって、お外は危ないからおうちにいようね、だなんて、親として僕は絶対に言いたくないんですよ』 『…………』 『娘は、絵の勉強が出来ると聞いたら、そちらに飛びつくでしょうけど、僕はこのお話については、お断りさせていただきます。……そうですね。高校卒業が近くなって、それでも、そちらの気持ちにまだ変わりがないようでしたら、……その時、また話に来てください』 あの時、柚子は有働の心無い言葉に傷つきながらも、そう言って、断った父の言い分のほうを恨めしく思ったものだった。 もう、世界と関わるのが嫌になっていたから。 誰かのことで心を揺らめかせることほど、面倒なことはないと思っていたのだ。 その相手のことを、好きだったからこそ、余計に。 家族で食卓を囲み、その後はまったりとリビングで過ごした。 大体、父はテレビを見ながら眠ってしまう。 こたつマジックだといつも言っている。 母も自分も、こたつで寝ると風邪をひいてしまうので、気をつけているのだが、父はこたつで寝ても全然風邪をひかない。むしろ、冬は布団で寝たほうが風邪をひくという変わった体質の人だった。なので、電気代がかかって仕方がない。 父がうとうとし始めているのに気が付いて、柚子はその前に、と姿勢を正した。 「パパ」 「ん? ……あ、ごめんごめん。今日は、さすがに布団で寝るから……お風呂も入らなくちゃね……」 「あ、違うの。お話があって……」 「……話?」 眠そうに目をこすりながらも、柚子の表情が真剣だったので、父はすぐに真面目な顔になった。 母は2人のやり取りを気にしながらも、テレビ画面から目を離さなかった。 柚子は唇をきゅっと噛み、ゆっくりと口を開いた。 「卒業したら、留学、したいの」 「…………。あのおっさん、もうコンタクト取ってきてるのか」 「う、ううん! わたし、入学した時から、留学のことは決めてたの。知ってたから……」 「……そうか。でも、相手がまだ興味を持ってくれてるかはわからないよね?」 「…………。そ、そう、だね……」 「柚子は、高校に入ってから、友達も出来て、少し明るくなったと思っていたけれど……、絵以上のものは、見つけることが出来なかったのかな」 「……わたしには、絵しかないって、ずっとそう思ってた。今も、そう思ってる」 柚子の言葉に、父が悲しそうに目を細める。 「でも、絵しかないわたしでも、好きだって言ってくれる人がいて……、わたし、初めて、誰かのために絵を描いていきたいって、そう思えるようになったんだ」 父が意外そうに目を丸くし、母に視線をやる。 母はチラリとこちらを見たけれど、特に何も言わなかった。 「自分が呼吸をするために、自分が生きるために、自分のために絵を描いてきた。それは今も当然のようにある感覚だけれど、それ以上に、大切なお友達がいるから、頑張って自分らしく生きていかなくちゃいけないんだって、今はそう思ってるの。そのために、わたしは、もっともっと広い世界を知りたいし、絵の勉強をもっとしたい」 柚子はしっかりとした口調で、一生懸命伝わるように話した。 父はその言葉に気圧されるようにゴクリと唾を飲み込む。 母はその様子を楽しげに見つめていた。 「芽が育たなかったら、どうするつもりなんだ?」 「そうなったら、その時考えるよ」 「……絵しかないと思っているのに、絵が無くなったら……」 「なんで、ヒロくんは、駄目になるほうしか考えられないのかなぁ」 「……当たり前じゃないか。大事なひとり娘なんだぞ!」 「その時は、一緒に考えてあげればいいじゃないの。あなたは、そうやって、私にも好きなことをさせてくれているんだから」 「男は、女みたいに神経図太くないんだよ……」 「大丈夫よー。何かあったら、お嫁に貰ってくれる人もいるんだしぃ。ね? 柚子」 「……え……」 突然の母のカミングアウトに、柚子と父は同時に固まった。 まだしばらくはその話はしないつもりでいたのに、どうしてこんなところで言うのか。 「な、ななななななななななな……! なんだと?! 僕はそんな話聞いてないぞ!」 「あれ……。柚子、言ってなかったの?」 「言ってないよぉ。ママの馬鹿ぁ……!」 「ゆ、柚子! 本当にいるのか!?」 「……つ、付き合ってる人は……いる」 柚子がおずおずと言うと、父は目の前が真っ暗になったのか、今までの真面目な話なんてどうでもいいように、ふらりと立ち上がった。 「ぱ、パパ……?」 「風呂、入ってくる……」 「え、あの、進路の話は……?!」 「そんなん、後だ後……!」 不機嫌そうな足音を立てて、廊下を歩いていく父。 母がおかしそうに笑う。 「拗ねちゃった」 「ママァ……なんで、あのタイミングで言うの?」 「まぁまぁ。ヒロくんだって、頭の中整理する時間が必要でしょ。もう少し待ってあげて」 「け、けど……」 「柚子が、あんなにしっかりと意思表示できるとは思ってなかっただろうしね」 「え?」 「自分のためだけじゃなく、誰かのため、か。それが、この2年間の答えなのね」 「…………」 「ママは、柚子がやりたいならなんだって応援するよ。絵しかないって言うけど、この世の中には、自分には何にもないって思っている人だっているの。何にもないことなんて、絶対にないのにね」 母はにっこりと微笑み、お茶をすすった。 「ヒロくんもねー」 「え?」 「自分には何にもないって思ってる人だったの」 「…………」 「だからなのかなぁ。役者になって、全く別の人を演じて……それで充足感を得たかったんだって、昔言ってた。……まぁ、今は見てのとおり、しっかりお勤めする人になっちゃった訳だけど、何にもない人が、仕事出来る訳ないじゃないねぇ? しかも、一時は東京本社勤めだよ?」 その本社勤めを駄目にしたのは、他でもない自分だったので、何も言えずに母を見つめる。 「変な話よねぇ」 「え?」 「定職についてなかったら奇異の目で見られて、夢を追いかけていれば甘ったれてるって言われて、定職についててもつまらない生き方って言われるの。結局、難癖がつくんなら、自分の好きに生きた者勝ちじゃない?」 「……そだね」 「ヒロくんも、それはよくわかってると思うから。少し待ちましょ♪」 「……うん」 楽天的な母の笑顔に誤魔化されている気がしないでもなかったが、柚子は小さく頷いて、食後のデザートとして出されたリンゴに手を出した。 自分が好きに生きる分だけ、生きられない人もいる。 両親を見ていると、世の中というのは、なんて綺麗で皮肉なバランスを保っているのだろうと、思わずにはいられなかった。 |