◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆

Chapter 6.二ノ宮 修吾



『法学部?』
 1年の進路相談の時、行きたい学部まで決まっていることを聞いて、父が驚いたように声を発した。
 父の感情が透けて見えるような反応が珍しく、こちらも驚いたことを覚えている。
 横で見守っていた母は、そんな父の様子を見て、おかしそうに笑ったのだった。
『……お前が行きたいなら構わんが……、文系理系選択はどうするつもりだ?』
『理系が苦手ってこともないですけど、文系のほうが得意だし、行きたい大学も文系が強いところなので、文系にしようと思ってます』
『もう、そこまで調べてあるのか』
『はい』
『そうか。お前がそうしたいならそうしなさい』
 父はいつもどおり独特の威圧感を発しながらも、穏やかな口調でそう言った。
 もう少し口を挟まれるかと思っていたのに、すんなりと承諾を貰えて、逆に不安になった。
『…………』
 父は静かな眼差しで、書斎に飾ってある賞状を眺める。
 母もそれに合わせるように、周囲を見回した。
『……本当に、そうしたいのか?』
『え?』
 父が何を言ったのか聞こえず、修吾は確認するように首を傾げたが、父は『いや、なんでもない』とだけ言い、そのまま黙り込んでしまった。
 兄の時は、進路の相談も何もしないまま、進んであの結果になってしまったのもあり、早めに手を打ったつもりでいた。
 けれど、あの頃の迫力はどこに行ったのだろうと思うほど、父は素直に『そうしたいならそうしなさい』と言っただけ。
 拍子抜けしたのはこちらのほうだった。



 夜、布団にもぐりこんで、真っ暗な中、天井を見上げていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
 この静かな空間に、いつまでももたれかかっていたいような心地がする。
 天井をぼんやりと見つめていると、夕方のことが思い起こされて、顔が熱くなった。
「……まずったなぁ……」
 自分らしくもない。
 そう思いながらも、全身で感じた彼女の感触がふっとよみがえってきて、どうしようもない切なさにお腹のあたりがきゅっと締め付けられた。
 女の子特有の柔らかさに、シャンプーのいい香り。
 そんな気は全然なかったけれど、それを思い出すだけで、彼女に申し訳ないような気がしてくる。
 不安だったのは確かで、彼女の強さに縋りたかった。
 ただそれだけだ。
 何か掛けて欲しい言葉があった訳でもないし、彼女自身に相談したいと思うこともない。
 これは、自分で乗り越えなくてはいけないことだから。
 彼女が、卒業後は留学することを決定事項としていたように、自分も、いつかは父に話さなくてはいけない時期が来る。
 それがただ早まっただけのことなのだ。
 別に、お茶を濁して、このまま進んだって構わないことだ。
 きっと、舞だったらそう言うかもしれない。
 自分もそう思っていた。柚子に会うまでは、それでいいと考えていた。
 けれど、真っ直ぐに夢を語る彼女を見ていて、このまま進んで、自分は堂々と胸を張って、彼女の隣に立っていられるだろうかと、そんな言葉が、ざわざわと心の中を掻き立てるようになった。
 彼女の絵に対する姿勢は、同じ創作畑の人間として、恐怖を感じるものだ。
 はつみは、修吾が絵を描く人でないことを知って、ほっとしたようだったけれど、残念ながら修吾は、絵ではなくとも、物語を紡ぐ人だった。
 憧れを持って彼女を見つめ、その眩さと儚さに恋焦がれる。
 そして、心のどこかで、自分にはこんな生き方は出来ない、と思う自分がいる。
 それは、1年の夏に、彼女に恋をした丘の上で感じたことから、一切揺らいでいなかった。
 怖い。けれど、目が離せない。手が離せない。傍にいて欲しい。手を繋いでいたい。抱き締めたい。
 恋心と、ほんの少しのやましさと、創作魂。
 修吾が柚子に対して抱くものは、大きく分けるとその3つだ。
 追いつかなければという焦りに急き立てられても、なかなか気持ちはついていかない。
 誰かに、自分の道を拒絶されることを極度に恐れている。
 彼女のように強く在れない。何か言われたとしても、信念は折らない曲げない。絶対に押し徹すのだ、という気構えが自分にはない。
 迷いなく、カンバスに色を乗せていく彼女。
 迷いながら、一文一文、慎重に言葉を選んでいく自分。
 修吾にしたって、それなりの結果を残しているにも関わらず、柚子と比較した時、どうしても勝てないという気持ちが先に立つ。
 勝ち負けなどどこにもないのだと分かっていても、男としてのプライドみたいなものだけは、立派に育ってしまっている。
 好きな人の前では、やっぱり、カッコよくありたいのだ。
 だというのに。
 不安に駆られた自分自身を恥じる。
 弱さとやましさが綯い交ぜになる。
 そうでなければ、あんなこと、いつもの自分には絶対出来ない。
 舞に言わせれば、ハグ程度で何言ってんだか、と横槍を入れられそうな気もするけれど、自制の塊と言っても過言ではない修吾にとっては、なかなかの大事だ。
『……うん。作・二ノ宮 修吾。絵・渡井 柚子。って書いてある本が、本屋さんに並ぶの』
 頑張ると言ったじゃないか。
 叶えると約束したじゃないか。
 彼女がそう言ったなら、それは、決定事項だ。
 だから、勇気が欲しかった。
 本当になれるのか、と疑問の小石ばかりを投げる自分を叱咤するために、彼女の力を分けて欲しかった。
 必要なのは、なれるのか、じゃない。なりたい、なるんだ、という気持ちだ。
 そう思える自分になりたい。
 自分自身の限界の天井が見えたなんて、言うのは早すぎる。
 以前、勇兵も言っていた。
 天井は突き破るためにあるのだと。
 未来を考えるのは不安で怖い。先のことは見えない。だから、今の話をしていたい。
 みんなが未来を語って、自分だけが置いてけぼりになっていく。
 隣にいるのが当たり前な彼女が、ほんの1年と3ヵ月後には、もう日本にいないかもしれないのだ。
 その時のことを想像しろと言われたってそれはあまりにも酷だ。
 今、目の前のことを乗り越えるので必死な自分には、その先のことは想像できない。想像しても不安になるだけだ。
 けれど彼女が嬉しそうに話すことを、聞きたくないやめてくれ、と耳を塞ぐことなんて出来ない。
 だから、理解あるふりをして頷くしか出来なかった。
 思考回路がぐちゃぐちゃになり始めたのを感じて、修吾は頭を押さえる。
 その時、コンコンと部屋の戸を誰かがノックした。
 その音で我に返る修吾。
「誰?」
「オレ」
 賢吾の声に、修吾はむくりと起き上がって、ベッドから降りる。
 静かに戸を開け、部屋着姿の兄を見上げる。
 廊下は電気が点いていて、暗闇に目が慣れていた修吾には、少し眩しかった。
「何?」
「……清香、元気か?」
 兄は少し照れくさそうにしながらそう言った。
 修吾はその問いに、静かにため息をつく。
「元気だよ」
「そうか。じゃ、日曜日、来られないか誘ってみてくんねぇか?」
「日曜?」
「ようやく、それなりに聴かせられるレベルに仕上がったからよ」
「……訊いてはみるけど」
「ああ。頼む」
 修吾の言葉に、兄は屈託なく笑った。
「さっちゃんのこと、本当に気に入ってるんだね。……忘れてたくせに」
「そりゃ、オレのピアノ聴きたいって言ってくれるやつだからな。当たり前だろ」
「…………。まぁ、さっちゃんも、気分転換になるかもしれないし、いいか」
「あ? 清香、何か、あったのか?」
「兄貴に話すようなことじゃないよ」
「なっ。んじゃ、言うんじゃねぇよ。気になんだろうがっ!」
「話はそれだけ?」
「ん? おお。それだけだ。んじゃ、おやすみ」
 ポンポンと修吾の頭を軽く撫で、素早く踵を返す。
 修吾は気になっていたことをそこでようやく口にした。
「兄貴」
「ん?」
「もしかして、ピアノ、また本気でやるつもりなの?」
「……お前には、オレのピアノがどう聴こえる?」
「…………」
「たぶん、それが答えだ」
 それだけ言い、兄は隣の部屋に入っていった。
 兄は折れたはずだった。
 4年前のあの時に、彼の翼は無くなったはずだった。
 それなのに、最近、家の中を飛び跳ねる音符たちは、幼少の頃から見続けてきた、兄の輝きそのもので。
 折れたはずの、あの奔放な翼が、舞い戻ってきたような心地がしていた。
「……やっぱり、兄貴は強いな……」
 修吾は静かに呟いた。



 清香にピアノの件を話すと、即答でOKを貰えた。
 何事もなかったように過ごしてはいたようだったけれど、久々に彼女の活き活きとした笑顔を見た気がして、修吾はほっと胸を撫で下ろした。
 兄のピアノには、それだけの力がある。
 人気の無い階段の踊り場で、2人は壁にもたれたまま、言葉を交わす。
「わ、私も、何かお礼の曲、練習しておこうかな」
「ああ、いいんじゃないかな。兄貴、喜ぶと思うよ」
「そうかな? どうしよう。ケンゴさんのピアノなんて、何年ぶりだろ」
「さっちゃん、兄貴のピアノ、好きだったよね」
「いつも仏頂面なのに、ピアノを弾いてる時だけ、すごく優しい表情になって……普段の素振りからは想像もつかないくらい、音が跳ねるのよね」
 嬉しそうに話す清香。
「……それで、たぶん、来年、あの人、音大受けるかもしれない」
「え?」
「なんとなく、そんな気がする」
「……そっか」
 清香は優しく笑みを浮かべ、修吾の肩をポンと叩いた。
「それじゃ、負けてられないね」
 見透かすように彼女が言う。
 自分が口を挟むことじゃないと言っていただけに、もしかしたら、修吾が悩んでいることくらいお見通しだったのかもしれない。
「……みんなさぁ、キパキパ、物事決めすぎなんだよねぇ……」
 なんとなくぼやいてみると、清香はおかしそうに笑った。
「キパキパは決めてないよ。これでいいのかなって思ってるけど、それでも、出来ることをやろうとしてるだけ。特に、くーちゃんはそうだと思う」
「……ああいうの、器用貧乏って言うんだっけ?」
「くーちゃんは、自分のことを知らないだけ」
「…………。ああ、その表現が的確かもしれない」
 こんなに理解しているのに、傍にいられないなんて、おかしな話だ。
 そんなことを考えていると、清香が見透かすようにこちらをジッと見た。
「何?」
「今は、他人の心配より、自分の心配でしょ?」
「…………」
「こっちのことは大丈夫だから、あんまり気にしないで」
「本当に?」
「考えたって答えの出ることじゃないからさ。大体、シュウちゃんが言ったんだよ? 少し時間空けて考えてみればって。なのに、話す度、心配そうな顔されたら、嫌でも考えなくちゃいけなくなるじゃない」
「……そんなに、顔に出てた?」
「他の人は分からなくても、なんとなく分かっちゃうの。その程度には、幼馴染ってことだね」
 清香は茶化すようにそう言い、「日曜は午後から伺います」と付け加えて、階段を下りていった。



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