◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆
Chapter 8.二ノ宮 修吾
幼少の頃、隣で寝ている、風邪気味の母を起こすのが忍びなくて、夜中1人でトイレに行ったことがあった。 今でも不思議に思うが、子どもの頃の、夜の世界というのは、どうしてあんなにも新鮮で、畏怖に満ちた空間に見えたのだろう。 電気も点けず、慎重に足元を確認しながら歩いていると、それだけで恐怖感と同時に冒険心が湧きあがってくる心地がした。 家のみんなが眠ってしまった家の中で、その時、修吾はちいさな勇者だった。 用を足して廊下に出ると、ジャストなタイミングで玄関が開いて、腰を抜かしそうになったことを覚えている。 ちいさな勇者の勇気の炎など、その程度のものだ。 電気を点けずにトイレまで行ったので、明かりひとつない。 玄関に黒くて大きな人影があるのだけが、ぼんやりと見えた。 『ふわぁっ!』 『……ただいま。修吾か?』 思わず発してしまった声に反応したのか、父がぼそりとそう言った。 音の無い、夜の世界。容易に、修吾の耳に、その低い声は届いた。 けれど、知っている声というだけで安心して、修吾はすぐに玄関に駆けていった。 『おとーしゃん、おかえりなしゃい!』 恥ずかしながら、サ行の発音が苦手な子どもだった。 『ああ、ただいま。……こんな時間にどうした?』 父は玄関の鍵を閉めて靴を脱いでから、修吾を抱え上げて、背中をさすってくれた。 いつまで経っても、その手からぎこちなさは消えなかったけれど、懸命に我が子と接しようとする父の姿勢が、子どもながらに感じられる気がしていた。 『おしっこ』 『ん? 行くところなのか?』 『んーん。いってきた』 『ほぉ。1人でか。すごいなぁ』 『おかーしゃん、おかぜでねてるから』 『ああ……。母さんが好きな桃とプリンを買ってきたんだ。明日の朝、一緒に食べよう』 『もも? うん! たべる』 『早く帰って来るつもりだったんだが……』 『おかーしゃん、おくすりのんだからだいじょうぶってゆってた』 『そうか……』 『おとーしゃんはしぇいぎのおしごとをしてるんだから、おかーしゃんはおうちのことをきちんとやるのって』 『ん?』 『おかーしゃんは、おうちとぼくたちをまもるのがおしごとなんだって』 『……そうか……』 『おとーしゃんは、しぇ、……せいぎのみかたなんでしょう? すごいね!』 『そんな大それたものじゃないが……』 『だい……?』 『いや、なんでもない。父さんは風呂に入るから。修吾は早く寝なさい。夜更かしすると、背が伸びなくなるぞ』 『?! お、おやすみなしゃい!』 『ああ、おやすみ』 父は修吾をゆっくり下ろすと、くしゃくしゃと髪の毛を掻き混ぜてから、小さく手を振ってくれた。 不器用で無愛想な父が、あんな言葉をかけてくれたのは、たぶん、あれっきりだったと思う。 もしかしたら、あれだって、夜の世界の力だったのかもしれない、と、思い返してみると思う。 「それでね、ニノ、来月の活動なんだけど……」 「…………」 「ニノ?」 「…………」 「ニーノ!」 その声で我に返ると、目の前に舞の綺麗な顔があった。 特に自分が何かするなどという発想は一切湧かないが、この子は本当に無防備すぎると思う。 「な、なに?」 「人の話聞いてた?」 「……ごめん。聞いてなかった」 「はぁ……副部長がこの様子なので、1年生諸君に聞きまぁす」 舞の言葉に、楽を除いた、1年生女子・狛江さんと澤口さんが笑いをこぼした。 ああ、そうだった。今は文芸部の活動予定を決めるためのミーティングの真っ最中だった。 しかも、どういう経緯でこうなったのか思い出せないが、日曜にわざわざ集まって、である。 将観堂でケーキを食べながら会合、というのは、なんとも舞らしいとはいえ、学内活動なんだから、平日にやればいいのに、とも思う。本人には言わないけれど。 顧問自体がコンクールや文化祭以外の活動にノータッチだからできる所業だな、と思わずにいられない。 「代も替わり、年も明けてだいぶ経ちましたが、ここふた月ほどは、テストだ冬休みだで、まともな活動が出来ていませんでした。学校側にはざっくりした活動指針と予定みたいなのは出してあるんだけど、あくまでざっくりなので、2月から10月まで、しっかりと決めておきたいと思います。特に、10月の文化祭準備なんて、1年生にとっては罰ゲーム以外の何者でもないので、個人的には廃止したいなぁと思ってます」 話を聞いていなかった修吾へのあてつけなのか、聞き覚えのある言葉をそっくりそのまま口にする舞。 「……ま、昨年も1年の提案で、部員全員に仕事が回ったので、もうあってないような罰ゲームではあるんだけど。毎年、朗読って訳にもいかないだろうから」 「え〜……舞先輩、私、今年も朗読がいいです〜。先輩たちの朗読、聞き惚れちゃいましたしぃ、遠野先輩のオルガンも素敵でしたから。ね?」 「う、うん」 いつもの軽い調子で澤口さんが促すと、大人しい狛江さんも相槌を打った。 最初、この2人が別々に入部してきた時はどうなることかと思ったが、好きな作家が同じということで、今ではとても仲が良い。 「…………。朗読ねぇ……あたしは、別にいいんだけど……。男子2人は乗り気じゃないと思うよ?」 「え〜……」 「どっちかというと、新入生向けの部紹介で朗読をやったら、アピールポイント高いかもなぁとは思ってるんだけどさ。コンクールでニノが賞取るまで、1年も楽しか入部してきてくれなかったし……」 「あー……確かに、部の紹介と、図書室と教室にひっそり置いてある部誌だけじゃ、基本興味持つ人いないですよね。よっぽど好きじゃないと。他の部は、色々目立つことやりますし……」 「ただ、朗読となると、演劇部と何が違うんだって感じもするんだけど……」 「……それは、全然違うんじゃない? 物語を楽しんでもらうのと、朗読した作品の世界を知ってもらおうとするのは、切り口が違うよ」 普段発言の少ない楽が、静かにそう言って、コーヒーをゴクリと飲んだ。 「読んだ詩について、また、ま……部長が何か書けばいいんじゃないですか? それをペーパーで配る。別に学生が書いた代物なんだから、正しかろうと正しくなかろうと構わないと思うし」 楽はやりにくそうに、敬語が入ったり入らなかったりする言葉で、舞に対して発言した。 舞がそれを聞いて、驚いたように目をぱちくりさせる。 「……確かに、シャドーは、作家や作品の紹介が上手だよね。傾倒している作家がいる訳でもないから、すごく公平で偏りがない」 修吾もそれに便乗するように言葉を乗せた。 すると、舞は照れくさそうに髪に触れ、頬杖をついた。 視線が明後日の方向を向く。どういう顔をしていいかわからないのかもしれない。 「……じゃ、新入生向け部紹介は、その方向で行きましょう。これは、3月の活動とします」 舞が言うと、狛江さんがノートにメモを取った。 「……で、2月の活動なんだけど、鳴先輩用の卒業おめでとう文集を作りたいと思っています」 「ああ、そっか……」 「元々、3年を送別するための催しが、文芸部はないみたいだけど、それじゃなんだか寂しいでしょ? みんなはどうか知らないけど、あたしは、鳴先輩好きなので」 「舞先輩がやりたいなら、あたしとコマちゃんは異議なしでぇっす」 「……いいんじゃない? ただ、テーマは早めに決めてく、れ……ださい」 楽のぎこちない言い方に、いい加減澤口さんが噴出した。 「もういいよぉ、いつもどおりでさぁ」 「私服だと、どうも調子が狂う……」 澤口さんに肩を叩かれて、楽ははぁ……とため息を吐いた。 その様子を笑って眺めながら、舞がこちらに視線を寄越した。 「ニノは?」 「……異議なし」 「よかった。鳴先輩、ああ見えて、ニノの大ファンだからさ、とびっきり良い作品書いてよね」 「…………」 「サプライズもいいけど、テーマは鳴先輩に決めてもらったほうがいいかなって思ってるんだ」 「受験勉強の邪魔にならない?」 「大丈夫。あの人、もう推薦で進路決まってるから。あとは悠々自適に、泉鏡花と武者小路実篤を読み直して、『赤毛のアン』シリーズの訳版違うのを読み比べするって言ってた」 1年の文化祭で、あれだけ気が合わない最悪だとのたまっていた人間が、今やこれだ。 人間の相性というのは、蓋を開けてみないと分からない。 狛江さんが静かにメモを取り、ふた月分の活動内容が決まったので、誰からともなく、小休憩モードに移行した。 楽がトイレに姿を消すと、澤口さんが修吾と舞を見比べて、にっこり笑った。 狛江さんはなかなか目を合わせてくれないのだが、澤口さんは真っ直ぐに目を見てくるタイプなので、こちらが照れくさくなる。 「……先輩たち、仲良いですよねぇ」 「え、なに? 急に?」 「舞先輩、男の人に興味ないって本当ですかぁ? ガクくんがすっごいテキトーなこと、回答してたんで、叱っときましたよぉ」 「……ああ、あれ、本当にそう回答したの?」 「はい」 「まぁ、あたしがそう言えって言ったからしょうがないよ」 「え? なんで? 舞先輩、選り取りみどりじゃないですか、勿体無い!」 「勿体無い……? 勿体無いかなぁ……? 本当に好きな人が来てくれるならいいけど、選り取りみどりに出来るほど、あたし、視野広くないし」 「勿体無いですよぉ。ね、コマちゃん?」 「え、あ、うん……そう、かも?」 「視野広くないなら、いっそ、色んな人と付き合ってみたらどうです? そしたら、モテ女ライフ満喫できますよ〜」 「……それ、満喫して何か楽しいの? 単なる、尻軽女ライフじゃない?」 「ん〜……私が舞先輩だったら、絶対そっちを楽しみますよ〜。色んな人を袖にするとか楽しそうだし……」 「……そんな楽しいもんでもないよ?」 「え?」 「文化祭でオルガン弾いてくれた清香なんて、振れば振るほど敵が増えるっていう、因果な星の持ち主だし」 「あー……」 舞の言葉に、ようやく納得したように澤口さんが黙り込んだ。 が、すぐに切り替えて笑う。 「舞先輩、今、お付き合いしてる人いないなら、私なんてどうですかぁ?」 「澤ちゃん……!」 「え、だって……。私、舞先輩なら、普通にいけるけど……。二ノ宮先輩は、もうカノジョさんいるし」 澤口さんのアクティブさには、時々頭が下がる。 文化祭の催しを、朗読にしようと言い出したのも、確かこの子だった。 文化祭準備を面倒に感じたため、というのは確かにあったろうけれど、機転も利いて後腐れもない。 タイプは違えど、舞に少し似たところを持っている子だ。 舞を見ると、目を細めて困ったように笑っていた。 けれど、すぐに先輩らしく余裕を持った表情で澤口さんの額をつつく。 「残念。あたし、付き合ってはないけど、好きな人いるから、駄目なんだ」 つつかれた額を押さえて、澤口さんがきゃろんと笑う。 「そっかぁ……残念」 「何が残念なの?」 楽がようやく戻ってきて、席に着いた。 追加で頼んだのか、ベーグルサンドの乗った皿を持っている。 「遅いと思ったら……」 「長くなりそうだからついでに昼飯食っちゃおうと思って」 楽の飄々とした言いように、舞はため息混じりで「……じゃ、4月の活動予定」と切り出した。 楽の言うとおり、長くなりそうだが、家では清香リサイタルが始まる頃合だし、帰る必要性もないので、別にいいか、と心の中で呟いた。 夕方、帰宅すると、ちょうど清香が帰るところだった。 父も急に入った仕事の処理で出かけていたが、夕飯が食卓に並ぶ頃には帰ってきた。 日曜の夕飯は、比較的家族全員が集まりやすくはあるのだけれど、きちんと揃うのはだいぶ久しぶりのことだった。 父が静かに席に着き、母が呼ぶと、兄も2階から下りてきて席に着いた。 何故かよく分からないが、言い知れぬ緊張感を感じ取って、修吾は父と兄を見比べる。 修吾も修吾で、今週水曜提出締め切りの、進路相談用紙について、両親に相談しようと考えていたところだったのだが、異様な緊迫感に、切り出すのが躊躇われた。 「それじゃ、いただきましょうか」 母が笑顔でそう言う。 家族が揃っても揃わなくても、母はいつも笑顔だ。 けれど、揃った時の笑顔が、いちばん嬉しそうなことを、きっと、修吾だけが知っている。 「その前に……」 兄が静かに口を開いた。 すぐに席を立って、床に膝をつく。 母が驚いたように兄を見つめた。 父も静かに兄を見下ろし、すぐに尋ねる。 「何の真似だ?」 「父さん、お願いがあ……ります」 「……言ってみろ」 「おれ、やっぱり、音楽の道を諦められねぇ……! 挑戦だけ、させて欲しいんだ!」 「…………。それは、大学に行きたいということか? 仕事はどうする? 指を傷つけられないからと、こんな田舎で、男に事務処理を割り振ってくれた会社だぞ。恩義があるだろう」 「音大受験をさせて欲しい。落ちたら、そこですっぱり諦める! 仕事は、……夏までに引き継ぎして、退職させてもらおうと思ってる……」 「……駄目だな」 「え?」 「そんな覚悟じゃ、私は認めんぞ」 「…………」 「お前、まだそんな生半可なことしか言えないのか?」 父は物静かな声でそう言い、ゆっくりと立ち上がった。 「あなた……!」 母が父を制するように声を出したが、父は穏やかに視線だけ向けて、ゆっくりと床に腰を下ろした。 同じ視線の高さで対して、諭すように口を開いた。 「お前は、私が反対した理由を、まだ理解していないのか」 「おれの覚悟が足らなかったし、考えが浅かったからだろ? それは、分かってるつもりだよ」 「……ならば、お前の覚悟はまだまだ足らんし、考えもまだまだ浅い」 「…………」 「自分の進む道に、自分で逃げ道を用意するな!」 「ッ……」 「落ちたら諦める? それは当然だろう。受験させて欲しい? なぜ、音大に行かせてくれと言えん?」 「…………」 「お前の我儘で進む道だ。仕事を途中で放棄するな。最低でも、年度末までは勤め上げろ」 「……けど」 「半年猶予がなければ、受かることも出来ない程度の覚悟ならば、お前はそこまでだ。そんな奴に、出す金もくれてやる言葉もない」 「…………」 父の言葉に、兄は黙り込んで俯いた。 修吾は4年前のあの瞬間を思い出して、頭痛がしてきた。 「私からの条件は4つだ」 「え?」 「大学には意地でも受かれ。仕事は年度末まできっちり勤めろ。体調不良で休むな。その分、有給休暇は退職する時に休みではなく、金に換えてもらえ。そして、最後……その道を進むと言うのなら、意地でも、その道で金を稼げ。他の仕事をするのでも仕方ないだろうが、最終的にただの趣味にすることだけは許さん」 「……それって……」 「出来ないのなら、お前の願いは聞けん。以上だ。飯にする」 父はすっくと立ち上がり、席に着いた。 厳格な表情で、父は箸に手を置く。 「どうした? 早くしろ。母さんの飯が冷める」 兄は唾を飲み込み、床スレスレまで頭を下げた。 「ありがとう……ございます……」 兄の声は、絞り出すようにか細かったが、きちんと聞こえてきた。 父は手を合わせ、ご飯茶碗を右手に持った。 「ささ、賢くん、こっち来て。今日はね、玉子焼きの焼き方を変えてみたのよ!」 母の声だけが、妙にその雰囲気に合っていなかったけれど、その声のおかげで、普段の食卓の雰囲気に戻っていく心地がした。 兄は……父の壁を、ようやく、その翼で飛び越えようとしている。 自分の目の前で、もがいてでも、足掻いてでも、前に進もうとしている。 ……自分は、どうだろうか? 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