◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆

Chapter 9.二ノ宮 修吾



 週が明けて月曜日。提出期限まであと2日。
 鉛筆で薄く進路希望を書いただけの用紙を見つめて、修吾はため息を吐いた。
 昨日の父と兄のやり取りを見て、思うところはあったけれど、そのまま続けて自分が挑もうと思えるほど、自分の中には覚悟がなかった。
 どちらも取りたい、なんて、きっと調子の良い話なのだ。
 しかも、片方は父が人生賭けて勝ち取った職業だ。片手間でやろうとしているなんて思われたら、絶対に逆鱗に触れる。
 勿論、クソ真面目な修吾のこと。片手間で、などという気持ちは毛頭ない。
 朝のホームルームの時間になり、志倉先生が教室に入ってきた。
 クラス委員長の声に合わせて、起立、礼をすると、志倉先生が優しい笑顔で話し始めた。
「進路希望用紙の提出がまだの人が結構います。水曜日放課後までには絶対に出してくださいね。結論が出ないのであれば、それでも構いませんから。その場合は、先生も一緒に悩みます」
「でもさぁ、志倉ちゃん、なりたいものーなんて、小学生じゃないんだからさぁ」
「んー。でも、亘理くんだって、小学生の頃はあったんじゃないかな?」
「……そりゃぁ……でも、叶わないの、目に見えてるし」
「そうだね。出来ることと出来ないことは、絶対にあるから、無謀な挑戦をしろとは勿論言う気はないです。でも、だからこそ、自分の力量や適性・自分の気持ちと向き合って、自分に最も合うものがなんなのかを考えなくちゃいけない時期でもあるんじゃないかな。見つからないなら、大学でまた考えてもいいのだし。でも、それだって、当てずっぽうでどこの大学でも良い訳ではないのはわかりますよね?」
「……まぁ、ねぇ……」
「進学にせよ、就職にせよ、先生はただ卒業させて、次に進ませればそれで良し、とはしたくありません。もし、あまり深く踏み込まれたくない、というのであれば、適当に僕の話は流してお茶を濁してください。でも、未提出や白紙だけはやめてほしいです。自分の生きる道ですから」
 志倉先生はそこまで言うと、一旦間を置いて、天井を見上げた。ゆっくりと視線が元に戻る。
「人生、なるようになるし、やってみたら適職だった、なんてことも、あるんですけどね」
 静かにそう言い、ニッコリと笑う。
「教師として、こんなことを言うのもなんですけど、僕、教師になる気、一切なかったんですよ」
 その言葉に、教室中がざわめいた。
 それはそうだ。
 志倉先生は、若くて物分かりが良く、それなりに整った顔立ちをしているのもあり、生徒ウケがかなり良い。
 その振る舞いを見ていると、なりたくてなったのであろうと、誰もが思うような、それくらいの熱心さと柔軟さがあった。
「親の勧めで、一応、教職課程も終えておいただけなんですけど、大学院に進もうと思ったら、行きたい先の枠がいっぱいでねぇ。本当は数学者になるのが夢なんですが……今は順番待ちの状態で、鋭意勉強中なんです」
「でも、教師だって今はなるの大変なんだろ?」
「そうですね。うん。だからこそ、なれたからには、ちゃんとやらないと、なれなかった人に対して失礼でしょう? それに、10代の3年間はとても貴重ですから、僕はそれを適当にあしらうことはしたくありません」
 言葉の強さに、修吾は持っていた進路希望用紙を持つ指に力を込めざるを得なかった。
 昨日の賢吾と一緒だ。
 強い、大人の姿だ。そう感じた。
 態度や姿勢に表せず、フラフラしている自分とは、全く違う……。
「迷うことは大事なことです」
 修吾の気持ちを見透かした訳では決してなかったと思うが、志倉先生の言葉は綺麗に修吾の焦りを拭い取った。
「迷って、それでも、自分で選び取ったものなのであれば、それは自信を持って誇っていい。誰かに選んでもらったり、誰かに遠慮して自分の欲しいものを手放してしまったりすると、悔いが残ります。しかも、他人のせいにしてしまう癖もつきます」
 志倉先生は眼鏡を直す仕草をしてから、更に続ける。
「若輩者の僕が言っても、説得力はないかもしれない。だけど、自分のことも自分で決められないようには、ならないでください。人生は迷いの連続です。常に、目の前には選択肢が転がっています。その選択を、間違ったって、全然構わないんです。間違うことを怖がらないで。選び取ることから逃げないで。考え抜いたその先には、確かな答えがきっとあります」
 修吾はぐっと息を飲んだ。
「昔、僕の恩師が、卒業式の日に、こんなことを送る言葉にしてくれました。人生は電車の乗り継ぎと一緒だ、と。高校までは、大人数で電車に乗るけど、そこから先は1人で選んで、好きな電車に乗らなくちゃいけない。色んな路線があって、迷子になったり、時には間違えて反対方向行きの電車に乗ってしまったりすることもあるかもしれない。それでも、きっとどこかには向かっている。自分は、前に進んでいるのだ。その気持ちだけは、強く持って生きて行って欲しい。そんなことを、言われました。今では、僕もそう思います」
 志倉先生は出席簿を開き、ボールペンのキャップを外した。
「朝からちょっと重い空気にしてしまいましたけど、僕からは以上です。それでは、出席を取ります」
 志倉先生の点呼に、クラスメイトたちは思い思いの返事をする。
 修吾は目を細めて、進路希望用紙を見つめた。
『志望する(なりたい)職業 @弁護士 A小説家 B出版社編集』
『志望する進路:進学 就職
『志望する大学(学部):@Y大学法学部 AK大学法学部 BT大学法学部』
 お茶を濁しているつもりはないのに、どうして、こんなにもすっきりしないのだろう。
 昨日の兄の行動を目の当たりにしなければ、まだもう少し、この胸のもやもやは小さくて済んだはずなのに。
 自分がしっかりしていないことを、兄のせいにしそうになった自分に気がついて、修吾ははっとした。
 すぐに頭を振るった。違う。そうじゃないだろ。
 修吾は小さくため息を吐いた。
「二ノ宮くん、どうしました?」
 呼ばれていたのに気が付かず、頬杖をついたところに、志倉先生がわざわざ席の近くまで来て、顔を覗き込んできた。
「あ、すみません。ぼぉっとしてました」
「ん、そうですか」
 修吾の返事に満足したように、志倉先生は教檀へ戻っていく。
 クラス中の視線がこちらに集まっているのを感じ取って、修吾は熱くなった顔を誤魔化すように前髪をいじった。
 チラリと見ると、柚子や舞が、怪訝な表情でこちらを見つめていた。



「……まぁ、しょうがないんじゃないですか?」
 久々に部室に訪れた鳴が、修吾を囲む会に参加したのは、つい先程のことだった。
 朝のホームルームの様子を見て、どうもおかしいと感じ取った舞に見事に捕まり、柚子とまとめて、部室に放り込まれたのが、1時間前の話。
 誰かに相談などする気もなかったのに、部室のドアを舞に塞がれ、隣では恋人が心配そうにこちらを見上げているのだ。
 さすがに振り切れないし、これ以上はお茶も濁せなかった。
 仕方なく、ポツリポツリと修吾は身の上話を2人にした。
 昔、父に大反対されて、兄が行きたい進路に進めなかったこと。
 それから、自分が話を書くことが出来なくなったこと。柚子に出会って、ようやくスランプから脱せたこと。
 やりたいことは心の中にしまって、自立してから手をつけようと考えていたこと。
 本当は父には小説家になりたいという話は一切しないつもりでいたこと。
 その他色々話したが、それはここまでの経緯で分かる部分も多いので割愛する。
 話し終えたところに、鳴が久々に顔を見せ、舞が同じことを彼女に説明したのだった。
 そして、その後のひと言目が冒頭の言葉だ。
 その言葉に、修吾はなんだか気持ちが晴れる心地がした。
 他人に言われて消化されるもやもやもあるのだ。
「鳴先輩、相変わらずクール〜……」
「クール、というか……、文芸小説担当の編集者になるのが目標だから、修吾くんの迷っていることも、一応、なんとなく透けて見えるだけです」
「迷ってること?」
「文芸小説って、私が言うのもなんですけど、ほんっっっとうに売れないんですよ」
 鳴らしくもなく、強調した言い回しに、舞がきょとんとした。
 柚子もその話に反応する。
 修吾だけは分かっていた現実に、天井を仰ぐだけだった。
「まぁ……今は、出版業界全体が冷え込んでる、とも言われていますし、文芸小説に限らず、小説は売れるジャンルとは言いがたいと思います。あんなに幅を利かせているにも関わらず、実際に作家さんに入る印税もたかが知れているんじゃないかなぁ。専業で食べていくとなったら、相当たくさん書かないといけないだろうけど、二ノ宮くんは、常に面白いものが書ける人でもない、というのが私の見解です。私自身は、二ノ宮くんの作品が好きですけど、好き嫌いが分かれるのは確かでしょうね」
 いつになく饒舌な鳴。
 舞はさすがにそこまでは考えていなかったなぁ……と言いたげな顔をした。
 柚子はなんとか話についてこようとしているのか、頑張って鳴のことを見つめている。
「小説家、と言えば聞こえはいいですけど、書けなくなったら、ただのフリーターかニートになってしまう訳ですし、それ1本で行くという選択を、賢い二ノ宮くんがする必要はないのではないかなと、私は思います。まぁ、それしか出来ない社会不適合者であれば、私は小説家になりなさい、と強く勧めますけど」
 鳴の言葉に、柚子がビクリと体を震わせた。が、それには気付かずに、舞が口を開いた。
「……確かに。保険は大事ですよね。それに、なりたいものがひとつじゃないといけないなんて、ルールもないですもんね。あたしだったら、手を付けられるものには、どれでも手を付けちゃうかなぁ。ニノはちょっと誠実に向き合いすぎなんじゃない?」
「誠実、なのかな? 自分のことだし、先を見通してから進みたいって気持ちがあるのはおかしい?」
「うん……だから、見通してからってことなら、今、ご両親に相談するつもりでいる順序でも、全然構わないんじゃないの? って、あたしは思うのだけど」
 この話を、絶対に聞かれたくなかった張本人がすぐ傍にいる。
 修吾は言葉に困って、舞の目から視線を逸らした。
 柚子にだけは、この順序で両親に話をするつもりだったことを、知られたくなかったのに。
「……わたしのせい?」
 柚子は静かに、察したように言った。
 修吾はその言葉に、指先が震えた。
 舞と鳴がよくわからないように、柚子を見つめる。
 修吾も誤魔化すように笑った。
「違うよ、そういうんじゃない」
 けれど、柚子は潤んだ目で、修吾を見上げてきた。
「パパも……そうだったの」
「え?」
「パパも……ママと出会って、わたしが出来て……やりたいことを放棄して、今のお仕事に就いた」
 柚子の突然のカミングアウトに、その場にいた3人は言葉も発せず、見守ることしか出来なかった。
「芸術家同士の恋愛や、結婚は難しいんだって……おばあちゃんがやんわりと話してくれたことがあるの。事実を知って、わたしが泣きついた時にね? 『お前のせいではないよ』って、おばあちゃんは言ってくれたけど、どこからどう聞いたって、やっぱり、それはきっとわたしのせいなんだって思った」
 柚子は自分の三つ編みに不安げに触れて、唇を噛む。
 修吾は何か伝えないとと焦る気持ちだけが先走って、上手く言葉が出てこなかった。
「わたし、絵のことしか考えないような人間だから、やりたいことを放棄してまで、今のお仕事を選んだパパの気持ちが、……よく、わからないの。ただ、可能性を奪ってしまったんだって事実だけが、そこにある。ママが、平気な顔をして笑っていられる気持ちが、分からない」
 修吾よりも先に言葉を発したのは舞だった。
 しかも、シリアスな空気を嫌ってか、若干あっけらかんとした口調で、だ。
「そんだけ、和海さんのことが好きだったんだろうねぇ。で、柚子のことも大好きじゃん? あのお父さんは。見てて分かるくらい、愛に生きる人だよねぇ」
「そんなことは……分かってるけど……」
「人間にとっての比重ってさ、人それぞれ違うんだよ、柚子。あんたが絵のことしか考えてないのと同じくらい、自分の大切な人を守ることに必死な人種だっているの。それは、単に、大切なものが違うだけの話で、どれが正しいとかっていうのは、きっとない」
 やんわりと柚子が特殊な訳ではないという言葉を織り交ぜながら、舞は優しく続ける。
 修吾の肩に手を置いて、分かりきったように言った。
「よかったじゃん、柚子。ニノは、あんたのお父さんと同じくらい、あんたのことが好きだって、言ってるのと一緒だよ?」
 急な振りに驚いたのは修吾のほうで、しかも、その言葉に悪意を感じて、修吾は顔に上りそうになった血の気を振り払った。
「おま、何言ってんだ……!」
「え、だって、そうじゃん。先のこと見通して、ってそういう意味でしょ?」
「……た、確かに、それも、あるにはあるけど……! 父さんの仕事、尊敬してるだけだ、僕は……!」
 はっきりと言い切って、そこで、ストンと腑に落ちた気がした。
 ……ああ、そうか。
 畏怖の対象なのは確かだけれど、自分は、父が夢中になる仕事に、興味があったのだ。
 だから、迷わず、この選択肢を……昨年の進路相談の時期に出せたのだ。
 家族を半ば放っておいてまで続ける仕事。
 その意味を知りたかったのかもしれない。
 なんだ。答えは、こんな簡単なところにあったんじゃないか。
 小説家の道が駄目だった時の保険じゃない。
 やってみたいという気持ちが、にわかだったとしても、あるのだ。
 やると決めたら中途半端にはしないとか、そういう意気込みじゃない。
 気持ちが、きちんと自分の中にあったのだ。
「ユズさん……」
「……なに?」
「僕は、やりたいから選ぶんだ」
 真っ直ぐに見つめて言い切った。
「きみとの約束も、守りたいから選ぶんだ」
 柚子がその言葉に息を飲んだ。彼女の顔がぼっと一瞬で赤くなる。
 自分たち以外にもいるんだよ、と目で訴えてくる。
 それでも、ここで言いたいから、修吾はそのまま続けた。
「……きっと、きみのお父さんも、一緒だったと思う」
 修吾の真っ直ぐな眼差しに、柚子は照れくさそうに俯いて、「ありがと」とぽそりと囁いた。
 舞がそれを羨ましそうに見つめていた気がするけれど、その時は、柚子のことしか、視界に入らなかった。



Chapter8 ← ◆ TOP ◆ → Chapter10


inserted by FC2 system