◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆
Chapter 10.二ノ宮 修吾
「お仕事中、すみません。修吾です」 帰宅してすぐ、壁に貼ってあるメモを見ながら、父の事務所に電話を掛けた。 父は忙しそうに、少しだけ荒んだ声だったが、修吾だと分かると、いつもどおりの、威厳のある声に戻った。 一応、客商売なのだから、荒んだ声で電話に出るというのは、どうなのだろうと思いもしたが、今はそんなことはどうでもいいことだ。 「……進路のことで、相談があって……、今晩か、明日の晩、お時間をいただけないでしょうか?」 「……昨年どおりなら、私は何も言わない。お前の好きなようにしたらいい。そのために、私は働いているのだから」 父は、たぶん、自分に甘い。 兄に対する態度と、雲泥の差がある気がする。 それは、修吾の普段の行いの良さのおかげもあるのかもしれない。 言い方は厳しくとも、全幅の信頼を寄せてくれていることが分かる時がある。 「大学も、学部も……変わってないんですけど、今回の進路相談は、志望する職業も聞かれていて……」 「……職業にまで、私は口出しする気はない。お前が進みたい道があるなら進めば良いし、たとえ、大学で心変わりしても、私は何も言わん」 「けど……」 「春花では駄目なのか?」 「父さんは……以前、母さんが太鼓判を押した兄の進路を反故にされましたよね?」 「…………。わかった。明日の晩は早く帰る。今晩は無理だ。春花にもそう伝えなさい」 「ありがとうございます」 修吾は礼だけ述べて、受話器を置いた。 父に敬語を使う家も今時珍しいだろう。 母には気さくに話しかけられるのだが、どうしても父に対しては無理だ。 それは、苦手意識からだと思っていたが、自分がそれなりに父のことを尊敬していたのだという答えに辿りついて、なんとなく納得した。 母と兄が見守る中、修吾は父と向き合って座り、にらみ合うような形になっていた。 兄が笑いを堪えられないように噴出し、すぐに春花に叱られた。 父が怪訝そうにそちらに視線をやる。 「なんだ?」 「いや、体格は違うけど、雰囲気そっくりだなって思って……。わりぃわりぃ。黙る」 一昨日の夜とは打って変わってのリラックスモードに、修吾は若干羨ましい気持ちが湧き上がった。 が、まずは目の前の壁を乗り越えてからの話だ。 修吾は手元に置いておいた進路希望用紙をそっと差し出した。 心臓がバクバク言っている。落ち着かず、何度も息を吐き出した。 父がその用紙に目をやり、眉をひそめた。 「小説家……?」 それだけ言い、すぐに母に用紙を手渡した。 母と兄がそれを一緒に見遣る。 志望する職業の順は、小説家・弁護士の順に書き換えた。 自分の貫きたい答えで、修吾は戦うことを決めた。 「これだけは誤解しないでください。僕は、どちらもやってみたいと思って書きました」 「……そうだろうな。私の背中を見て、たやすくなれるものだなどと思われては心外だ。そして、それで茶を濁せるなどと思うほど、お前も浅はかじゃないだろう」 「……はい」 「昨日も電話で言ったが、お前が選んだのなら、私は何も言わん。お前の目を見れば、生半可な気持ちで言っていないことくらい分かる」 こんなに簡単で良いのかと思えるくらい、父はあっさりと言い切った。 修吾は唇を噛んで、父を見つめる。 父は穏やかに笑った。 「春花があんなに褒めて育てたんだ。小説家という選択肢が浮かばないほうがどうかしている。……簡単な道ではないことも承知の上で書いたのだろう? ならば、何も言うことはない。お前はお前の信じるとおりに進めばいい。駄目だったなら、ここに帰ってくればいいだけだ」 「……おれの時と、全然違くね?」 兄が静かに茶々を入れる。 父が不快そうに兄を睨みつけた。 「仕方ないだろう。お前はあの頃、何も考えていなかったのだから。ピアノが弾ければそれで良いなどと、刹那的な考えの男に、金など出せん。お前が好むのはクラシックであるのに、なぜ、ああもロックな考え方しか出来なかったのだ」 「へいへい……。なんだよ、結局贔屓じゃねぇか」 「そんなことはない。修吾、ひとつ条件がある」 「え?」 「賢吾に勉強を教え、きっちり大学進学レベルの知識を、1年間で詰め込ませること。その上で、お前は自分の勉強をしなさい」 「…………」 父に条件を課せられたのなんて、初めてではないだろうか。 兄のようにはなるな、とは言われたが、それ以外で、自分に何かを言ってくれたことはそうそうなかった。 なにかと衝突を繰り返していた兄を羨ましく感じるほどにだ。 「出来ないのか?」 「あ、いえ。やります。やってみせます」 進路ひとつ決めるのに、こんなに条件がシビアな家庭が、今の時代そんなにたくさんは無い気がする。 少なくとも、舞にこの話をしたら、「あたしだったら、絶対断るわ〜。適当にお茶濁せばいいのにぃ」と言われることだろう。 だが、一昨日の兄とのやり取りでなんとなく分かった気がするのだ。 不器用だけれど、これはこれで、父の愛情なのだろう。 「修吾」 「はい」 「覚えておきなさい。春花譲りのその誠実さは、大切な長所だ。私には、こんな風に父と向き合ってでも、この道を選び取ることは出来なかった」 父は悲しげにそう言うと、姿勢を崩し、ローテーブルに置いておいたお茶を啜り始めた。 母がそんな父の背中を優しい目で見つめた。 「冷めたでしょう? 新しいの淹れるわ」 「……いい。このままで」 「私が飲みたいの。2人も、飲むでしょう?」 「おれはビールが良いなぁ……」 「駄目よ。賢くん、体調崩せないんですからね。大学に受かるまでは、甘やかさないからね」 「ちぇー……」 水曜放課後。 進路希望用紙を手に職員室に入ると、柚子が志倉先生と向き合って、真剣に何かを話していた。 修吾に気付いて、柚子は進路希望用紙を志倉先生に押し付けるように渡し、小さく礼をして、修吾の脇を通り、職員室を出て行く。 真っ先に出しているものとばかり思っていたのに、自分と同じくギリギリの提出であることを疑問に感じながらも、用紙を渡しに、志倉先生の席まで進む。 「ようやく、来ましたねぇ」 「はい、遅くなってすみません」 「いいえ。結局、期限過ぎちゃいそうな子もいますから大丈夫ですよ」 志倉先生は修吾から用紙を受け取り、軽く目を通すと、納得したように頷いた。 「ご両親の了承も得られたんでしょうね、その様子だと」 「え?」 「昨日までと違う、迷いのない目をしています」 「…………」 「意地でもなってやるんだって、ご両親の了承無しで進むのもいいんですけど、やっぱり理解があるのとないのとでは、足場が全然違いますから」 志倉先生は穏やかな表情でそう言い、クリアファイルに入れた。 「あの……渡井は、何の用で……?」 修吾は気がかりだったことをすぐに尋ねた。 修吾の言葉に、一瞬迷うように目を細めたが、周囲を気にしつつも、こちらに顔を近づけて小声で言った。 「お父様の了承は得られなかったけど、自分の意志は変わらないから出しますって持ってきてくれたんだ……。聞いてなかった?」 「……はい。全然」 「まぁ、君もそれどころじゃなかったろうし、相談しづらかったのかもしれないね……。そうか……。僕も神妙に話し過ぎたかもなぁ……ここで決まらなくたって、3年でも考えるタイミングはあるし、卒業した後だって選ぶタイミングはあるからなぁ……」 志倉先生は独り言でも言うようにそんなことを言って、悩ましげに顎を撫でた。 修吾はと言うと、意外な展開に頭がついていっていなかった。 希望用紙が渡されてすぐに欄を埋めていたのは彼女だった。 修吾のイメージでは、彼女は迷うことなく、絵描きへの道を歩いていく人でしかない。 そんな彼女が、父親の了承を得られなかったというのは、意外なことだった。 ……いや、確かに、父親は柚子の進路に反対している、という話だけは聞いていたのだけれど、それほど大きな問題ではないのだろうと。彼女の意志の強さを見守っていた自分としては、思ってしまっていた部分があった。 「……失礼します」 「ん? あ、うん。気をつけて帰るんですよ」 「さよなら」 ペコリと頭を下げ、早足で職員室を出る。 鞄を教室に置きっぱなしなので取りに戻らなくてはいけない。 出来ることなら、彼女も教室に戻っていてくれるといいな。そう思いながら、早足で階段を上った。 運良く、誰もいない教室に、スケッチブックを見つめている彼女がいて、修吾はほっとした。 「ユズさん」 「あ、修吾くん」 「途中まで、一緒に帰ろう」 「……うん」 彼女の傍まで行き、彼女の表情を見下ろしたが、特に落ち込んだ様子もない。 何か力になれることがあればと思ったけれど、彼女はけろっとしているようだった。 「聞いた?」 「え?」 「志倉先生から」 「あ……うん」 修吾が頷くと、柚子はスケッチブックを机に置いて、困ったように笑った。 「予想はしてたけど、思った以上にパパってば、頑固で……困ったもんだ」 「……大丈夫?」 「え?」 修吾の言葉の意味がわからないように、柚子は小首を傾げてみせた。 なので、修吾は合わない問いをしたかと考えなくてはいけなかった。 柚子は数秒考えてから、意味を理解したのか、ニッコリと笑う。 「大丈夫だよ。やりたいことだから、絶対に分かってもらう。……それに、留学なんてしなくたって、絵はどこでも描けるもの」 「…………。ユズさんは強いなぁ……」 「強いんじゃないよ。絵がどこでも描けることは、事実だから」 「……そう、だけど……」 「その日暮らしで全然構わないから、毎日絵を描ける生活がしたい。そうじゃないと……息苦しくなって、自分でなくなっちゃう気がする」 「…………」 「売れる絵が描きたいとか、有名になりたいなんて気持ちは全然ないんだけど……そのくらいにならないと、わたしの望んでる生活は手に入らないのかなぁ」 「ユズさん……」 「パパは、わたしのことを心配して、絵以外の生きる目的を探して欲しいって言ったんだと思う。でも、違う。絵しかなくて、絵以外の道なんて考えてないわたしに、そんなこと言ったって、何の意味もないんだよ」 柚子はそこまで言うと、すっと背筋を伸ばし、修吾のことを見上げてきた。 「わたしは、絵を趣味になんて出来ない」 「……呼吸と、一緒だから?」 「…………。うん」 「……ユズさんって、武者小路実篤の『馬鹿一』って作品の、主人公みたいだ」 「え?」 「食べていくためには、どうしても考えなくちゃいけないことがあるのに、それは全然不要だって思ってる。やるんだって決めたものしか見えてない」 「…………」 「あの丘の上で話した時から、君は何ひとつ変わってない。それがとっても、羨ましい」 柚子は修吾の言葉にどう返していいのかわからないのか、何も言わずに俯いた。 「兄貴と同じようで、全然違う。だから、そんな無茶やめろって、言えないんだろうなぁ」 「修吾くん……」 「突き進める間は突き進もう」 修吾はその言葉と一緒に、柚子の髪に触れる。 おぼつかない手で、ぎこちなく頭を撫でる。 「それで、疲れたら、一緒に休もう」 「…………」 「僕も、あんまり相談しないから言えないけど、もし、困ったことがあったら、なんでも頼ってね」 「うん。ありがとう」 柚子は笑って、修吾の言葉に応えると、ゆっくりと立ち上がった。 「帰ろ」 彼女がそう言うので、修吾はすぐに鞄を取りに、自分の席に向かった。 自分たちは前に進めている。 君と一緒に、前に進んでいる。 そう思えること。そのパワーを、今、実感できている気がした。 |