◆◆ 第13篇 天泣・見つめる先にいる人は ◆◆
Chapter 3.丹羽 日和子
部室で着替えていると、先輩たちは夕方の話で持ちきりになった。 勇兵と舞が口論しているところに、清香が割って入ってきた、とのことで、三角関係のもつれじゃないかとふざけた調子で話している。 どうやら、舞を見送った後、2人で話していて喧嘩になったらしい。 元々仲もいいようだし、大きな声での口論くらいするんじゃないかと思うけれど。つれない調子で、日和子はそんなことを考えた。 日和子はセーラー服のリボンを締め、あまり関わらないようにひっそりと部室を出ようとした。 「お疲れ様です」 「あー、丹羽さん、お疲れ様〜」 「ちゃんと、塚原くん、捕まえとかないと持ってかれちゃうよー」 からかい半分の声。 日和子と勇兵はそういった関係でないのだが、2年の間で、少しだけ面白おかしく噂が回っているらしく、時折、こんな風なことを言われるようになった。 おそらく、去年まではチョコをおねだりしていた勇兵が、今年は全然そんな素振りを見せなくなった、というのも影響しているのだと思う。 無視して出て行くのも印象が悪いだろうと言葉を探すが、上手い言葉が見つからない。 「こーら。この可愛い子をからかって遊んでいいのは、アタシだけなんだかんね」 まだ着替え途中だったミャオ先輩が、そんなことを言って日和子を体ごと引き寄せた。 「まーた、そうやって甘やかす〜」 「甘やかすも何も、君ら、部の後輩なんだから、変な噂が流れちゃってるの、気が付いてるんだったら、少しはフォローしといてよね?」 「……だって」 「だって、じゃないよ。日和子が真面目で言うこと聞いてくれるからって、色々頼みごとしちゃってる、アタシらも悪いんだからさー」 ミャオ先輩は真面目な表情でそう言い、パッと日和子から手を離した。 「あー、ごめんごめん、引き止めて。気をつけて帰るんだよ?」 「……はい。お先に失礼します」 日和子が穏やかな表情でそう言って頭を下げるも、ミャオ先輩は心配そうにその様子を見つめていた。 「日和子、乗ってくか?」 校門まで行くと、勇兵が慣れた調子でそう言った。 頼んでもいないのに待っている。 そりゃ、こんなことを何度も繰り返していれば、周囲に誤解されたって仕方がないな。 心の中で呟いて、邪魔になり始めた横髪を耳に掛けた。 「歩いて帰ります。時間もちょうどいいし」 「…………。まだ怒ってる?」 「何がですか?」 「夕方の件。タッチーはフォローしてたけど、明らかに俺のことで怒ってたろ?」 「そりゃ怒りますよ。人を物か何かだと思ってるって感じたら」 「……そんなつもりは」 口ごもる勇兵の脇をすり抜け、早足で歩く日和子。 勇兵はすぐに自転車の車輪止めを蹴って、日和子の隣に並んだ。 「駅まで送る。暗いし」 「……大丈夫ですよ」 「一応」 何を言ったって聞かないのは分かりきっているし、日和子はそれ以上言うのをやめた。 悲しいことに、この時間が嫌ではない自分がいる。 誰にも邪魔されずに、彼の言葉が聞ける。そんな時間だから。 「……車道先輩と喧嘩したんですか?」 「へ? ……耳が早ぇな」 「先輩たちがばっちり目撃していたので」 「ったく、これだから、女子のネットワークは怖いんだよ」 日和子の言葉に、勇兵は困ったように失笑を漏らし、ため息を吐いた。 日和子が持っている鞄を何も言わずに掴んで、自転車カゴに入れてから続ける。 「喧嘩なんかなぁ」 「知らないですよ」 「俺は、嫌なだけなんだよね……アイツが辛い思いしてること自体が」 「…………」 勇兵の言葉に、相槌も打たずに日和子はただ歩く。 この人にとって、本当に自分は話しやすい相手なのだろう。 けれど、こちらが聞きたくない、と思っていることを、少しは感じ取ってくれないだろうか。 そんなことを思っている自分自身も嫌になって、もやもやが日和子の胸を支配する。 「……でも、アイツ、今日、俺の言葉で、泣きそうな顔してた……」 勇兵の言葉に、日和子はようやく顔を上げる。 勇兵は辛そうに息を吐き出し、ガシガシと頭を掻いた。 「いつの間に……、遠野のほうが、俺より、舞のこと分かるようになったんだろう……」 日和子よりもふた回りも大きな男が、悲しそうな表情でそう言った。 ……何度嫌いになろうとしたって、この人のことを放っておけない。 見せかけに近い……はりぼてに近い好意だと、思い込めてしまえば楽なのに、この人のそれは、きっとそうではないから、余計辛いのだ。 「ひとつ、教えてください」 「ん? 何? 俺に答えられることだったら……」 「今年、チョコを欲しがらなかったのは、なんでですか? 車道先輩が関係していたりするんですか?」 日和子の問いに、勇兵の表情が固まった。 日和子は構わずに歩き続ける。そのおかげか、勇兵も足までは止めなかった。 「……俺の、チョコのおねだりは……」 「はい」 必死に唾を飲み込んで、自分の思考を正常なものに戻そうと努力する。 ドクンドクンと鼓動がうるさい。 たったこれだけのことを聞くだけで、こんなに緊張してしまう。 ……自分は間違いなく、この人に、恋をしているのだ、と、否が応でも実感する。 ほんの少しの間をもって、勇兵は口を開いた。 「舞との関係を誤解されないためのものだった」 その言葉は意外でもなんでもなく、するりと日和子の脳に響いて融けた。 「変な誤解されたら、アイツが可哀想だったから、だから、俺はただ道化を演じてただけ」 「…………」 「……でも、昨年で、道化を演じる理由もなくなったから……やめただけ」 「理由……?」 「……アイツの恋が、叶ったから。だから、必要なくなった。幸せな理由だったのにな……。あのまま、上手く行ってれば……」 修学旅行の後、彼女が別れたと話した彼の表情は、見送ったはずの想いの先にあったものが、結局、幸せという結末ではなかったことへの、失望感からだったのかもしれない。 そして、そのまま、見送るはずだった想いに手も振れず、宙ぶらりんのまま、自分の隣を歩いている。 日和子は唇をきゅっと噛んだ。 「……もひとつ、教えてください」 「なに?」 睫を伏せ、彼の顔は確認せずに続ける。 分かりきっている答えへの問い。それを自分で投げようとしている自分の気持ちのそれは、投げやりな気持ちからなのか、何なのかよくわからない。 「……先輩は、車道先輩のことが、好き、なんですよね……?」 それを聞くだけで顔が熱くなる。 今までずっと我慢してきた。 彼はただ眺めているだけの恋を選択しているのだと思ったから。 自分と同じで、見つめているだけの恋でよいのだと、割り切っていると思っていたから。 だけど、やっぱり、このままじゃ前に進めない。 だって、彼は欲しようとはしていなくても、その気持ちをこじらせかけている。 だから、こんなに優しい人なのに、公衆の面前でもお構いなしに、彼女と口論になったのではないか。 彼が周囲に対する配慮が出来る人であることを、日和子はちゃんと理解しているつもりであるからこそ、そうとしか思えない。 沈黙が続く。 日和子はその間に耐え切れなくなって、顔を上げた。 柄でもないが、笑って誤魔化そうと口元を緩ませようとした、その瞬間……。 「……そうだよ」 勇兵は真面目な顔でそう言った。 緩ませかけた表情のまま、日和子は固まった。 答えなんて分かっていたのに、それでも、当人の口から聞くと、こんなにショックを受けるものなのか。 勇兵は大きな手で顔を隠して、大きくため息を吐く。 「ガキの頃からずっとだ。でも、アイツが俺に求めてる距離と、俺がアイツに求めてる距離は、全然違うんだよ」 言葉が出てこない。 頭の中でごわんごわんと音がする。 どんなに彼を見つめても、彼はあの人しか見えていない。 見つめる先にいる人は、互いではないことが、こんなに悲しい。 知った上でこの位置を受け入れた。だけど、もしかしたらを求めている自分がいた。 ……この人と自分に、何の違いがあるだろう。 今、この人が口にした言葉は、そのまま自分に当てはまるのだ。 そう思った瞬間、ポロリと自然に涙がこぼれた。 慌てて頬に触れる。そのことに、彼は気が付いていなかった。 「俺は、ただ……アイツに泣いて欲しくなかった。笑ってて欲しいだけだった。だから、笑っててくれるなら、他の誰かでもよかったんだ」 「……そういう人ですよね」 日和子はそれだけ言って、黙り込む。 お願いだから、涙よ出ないで。自分が惨めになる。きっと彼は、自分の涙の意味を理解してくれない。 勇兵は日和子の言葉で、真っ直ぐな視線を向けてきた。 だから、決死の思いで、日和子は勇兵を見上げた。 夜でよかった。これならきっと気付かれない。 「そういう人?」 「先輩は、優しいから……大事な人に、大事なことが伝えられないんです」 「…………」 「3年の先輩と揉めた時もそうでした。大事なことが伝えられなくて、埋められない溝が出来てしまってて」 「…………」 「……先輩は優しいけど……、ひどい人です」 「日和子……?」 「伝えないと決めたなら、ちゃんと封印してください。出来ないなら、ちゃんと伝えてくればいいじゃないですか」 無理なことは分かっている。自分だって抑えられていない。 昼間のヒステリーにも似た感情は何だ。言える口じゃない。 だけど、止まらない。 見ていてもどかしい。そして、自分が惨めになるのだ。 「結果は見えてるのに……?」 「結果が見えてたって、先輩は試合を放棄するような人じゃない。わたしにとっての先輩は……勇兵さんは、そういう人です。お願いだから、そういう人で在ってください。……車道先輩のことで逃げ腰になっている勇兵さんなんて、嫌いです。……大嫌い」 日和子の言葉に、勇兵は驚きを隠せない様子で俯いた。 「…………。俺、逃げてんのかな。……アイツのこと、思ってのつもりだったけど……」 「勇兵さんが、車道先輩を心配しているように、……わたしは、勇兵さんのことが心配です。もし仮に、伝えることですっきりする何かがあるなら、伝えてしまったほうがいいんじゃないですか」 すらすらと言葉が出てくることに、自分のほうが驚いていた。 だって、これではさっさと玉砕して来いと言っているようなものじゃないか。 1年経たない自分ですらこんなに辛いのに、10年以上の想いにピリオドを打つことになるかもしれない人に、なんてことを言っているのだろう。 「そっか」 「え?」 言ってしまったことを後悔している日和子の隣で、意外なほどあっけらかんとした声を発する勇兵。 日和子は驚いて、彼を見上げた。 薄ぼんやり見える顔は、すっきりした表情になっていた。 「日和子の言うとおりだ。そうするわ」 「え、あの……」 「だって、今の俺って、試合に出てもいないのに、場外からゴミ投げ込んでる迷惑な客みたいなもんだもんな。そんな俺が何言ったって、舞には何も伝わらねぇや」 「…………」 そんなシンプルに答えを出されてしまうと、どうしていいか分からなくなる。 「……それに、日和子に嫌われるの、やだし」 「え……?」 彼の言葉に、ドクンと鼓動が鳴った。 意味が違うことなんて、色が違うことなんて分かっているはずなのに、それでも、心は期待する。 それは、きっと誰だってそうだ。 「俺のこじらせた片想い知ってる奴らなんてごく少数なんだぜ。しかも、こんな風に話したことなんて、そうねぇんだからな」 「……先輩……」 「あ、タンマ。さっきの”勇兵さん”のほうがグッと来た。以降、先輩禁止!」 おどけた調子でそう言う彼に、日和子はつい笑ってしまった。 やっぱり、この人凄いな。 ゴールが決まったら、真っ直ぐ走っていける人だ。 ゴールがなかったから、迷子になってしまっていただけで、この人はやっぱりゴールに向かって走れる人なんだ。 「結果が出たら、慰めてあげてもいいですよ」 「撃沈確定だからって、はっきり言うなー、お前」 日和子の言葉に勇兵が軽く小突いてきた。 普段の日和子だったら、絶対に発せないおどけた声が出た。きっと、彼につられたのだ。 彼の表情も声も、人を引っ張る力がある。 ズキズキと胸は痛んでいるはずなのに、それでも、日和子は彼のようにおどけて言った。 「カラオケでも、ボウリングでも、サイクリングでも……、勇兵さんのやりたいことに付き合ってあげます」 そんな日和子の様子を、勇兵は優しい表情で見下ろしている。 あなたの想いの行く末を見守っている人間がここにいる。 それだけで、背中を押せるのであれば、自分は道化になれる。 踊らされるのは嫌だけれど、自分で進んで踊るのなら、それはそれで愉快だ。 でも、いつかは気付いてほしい。いつかは届いてほしい。 ……あなたの恋が終わった後、その次の恋の相手が自分であったらどんなに幸せだろう。 こんな背反する気持ちを持ったまま、頑張れと言ってしまってごめんなさい。 だけど、頑張って欲しい気持ちも、心配している気持ちも、あなたのことが好きだという気持ちも、すべて本当だから、自分はこんな風にしかできない。 日和子は静かに考えながら、きゅっと唇を噛んだ。 |