◆◆ 第13篇 天泣・見つめる先にいる人は ◆◆
Chapter 6.遠野 清香
『なぁんか、満更でもない感じじゃない?』 バレンタインの日のお昼休み。 ユンが面白くなさそうにそう言った。 リーとタマが頬張っていたご飯をゴクンと飲み込んで、気まずそうな顔をした。 清香は意図が理解できないことを示すように笑って、サンドウィッチをかじる。 4人グループ用に席を離しているし、教室内もうるさいので、それほど目立たないだろうと踏んでのこととは思うが、何も今その話をしなくてもいいのではないだろうか。 3人とも黙ってしまったので、仕方なく、次を促す。 『何のこと?』 『何のこと……って。ま、舞のこと』 『くーちゃんがどうかした?』 『……今年、結構チョコ貰ってるみたいだけど』 『ああ……。球技大会でも、文化祭でも、体育祭でも大活躍だったから仕方ないんじゃないかな?』 清香はしれっとそう言って、イチゴミルクを飲む。 彼女が満更でもなく受け取るような人でないことは、自分がいちばんよく分かっている。 羨ましいほどに無自覚だけれど、彼女は、誰かの期待を一心に叶えようとしてしまうところがある。あれはまさに天性のもので、スター性というものなのだろう。 王子を望まれれば王子になれてしまった、あの劇の時と一緒だ。 高校に入ってから、運動部にも入らず、クラス委員も引き受けず、飄々と過ごしてきたのは、彼女が彼女なりに、自分自身にストップをかけた結果なのだと、清香は考えていた。 自意識過剰な程に、みんなの良いイメージから出来るだけはみださないようにして、逆に悪目立ちしてしまっていた自分とは全然違う。 無自覚だからこそ、出来ていたことだと思う。 けれど、自分で言うのもなんだけれど、彼女はそんな自分の望みを叶えてくれようとして、結局光の当たる場所に出てしまった。 何もせずとも目立つ人が本気を出せば、輝くのは当然だ。 でも、彼女に輝いていて欲しいと、そう思ったのは本心で、それに嫉妬するのは非常におこがましいと思う。 むしろ、別れ話さえ上らなければ、自分は鼻高々でその様子を見守っていただろう。 いや、今でも、十分鼻高々で見守っているか。 『サーちゃんはそれでいいの?』 ユンが不機嫌な調子で尋ねてくる。 それでいいも何も、自分には何も言う資格はないし、何より、いちばん渡したかったものは、直接ではないけれど、彼女の手に収まったのを知っている。 それだけで今は十分だ。 『待つことにしたから』 『え?』 『あの人の答えが出るまで』 清香は涼しい顔でそう言って、ミニトマトを口に放り込んだ。 酸っぱいエキスが、プシュッと弾けて溢れてくる。 決めたことだから、それはもう揺らがない。 道に迷って出した答えだから、あの人が目的地に辿り着くまで待つ。 そうしないと、同じことの繰り返しだ。 それで、自分を選んでもらえないのだとしても、それはそれで仕方ない。 ミニトマトをゴクリと飲み込み、清香は微笑む。 『シュウちゃんのお兄さんに言われたの』 『なんて?』 『”慕ってもらって付き合い始めたんなら、今度はお前が好きなまま待っててやれよ”って』 『…………』 『気障だなぁって思ったけど、でも、その通りとも思ったの』 その時、有名な音楽家だって叶わない恋愛事情を作曲に持ち込んでうんたらかんたら、と長い話をされたのだけれど、そこは自分の胸の中にしまっておくことにする。 要するに彼が言いたかったことは、恋で悩まない馬鹿はよっぽどでない限りいないし、自分だけ特別だなんてものは、世の中には存在しないのだということだった。 自信過剰で、自分は天才なのだと言って憚らなかった人の言葉とは思えなくて、一瞬ポカンとなってしまったのは内緒だ。 『……応援してる』 状況を静観していたタマがボソッとそう言った。 リーがそれを引き継いで、ニッコリ笑う。 『サーちゃんが決めたんならそれがいちばん良いと思う』 修学旅行の時も、その後も、彼女たちがいなかったら、自分は上手く立てていなかったと思う。 必死にはりぼてを保って作った人間関係だと思っていたけれど、そんなものとは関係ないところで、彼女たちがきちんと自分の芯を見てくれていることを知ったのだ。 悪いことばかりではなかった。 得たものは大きい。あとは……自分にとって、いちばん大切なものが戻ってきてくれたら、最良なのに。 2人に笑い返す清香を見て、ユンが複雑そうに笑った。 『なんか、アタシだけやな感じじゃん』 『そんなことないよ。ユンちゃん、ありがとう』 清香の言葉に、ようやくユンがいつもの朗らかな表情で頷いてくれた。 放課後。柚子と清香以外、教室には誰もいない。 テスト前なのもあり、早く帰れるのだから、わざわざ遅くまで残っている生徒もいないだろう。 図書室で勉強する組がいるくらいだろうか。 柚子は清香のノートを真剣に見つめて、必要な部分を書き加えていく。 修吾に頼めばいいのに、とも思ったが、彼女は彼女で、全部おんぶにだっこなのも気に食わないらしい。 とはいえ、それなら、ノートくらい自力で取ればいいのに、とも思うのだが、彼女のノートを見てみると、それなりに板書は取れていた。 「これだけ取れてれば十分だと思うけど、何が必要なの?」 「清香ちゃん、先生のコメントとかも結構こまめに書いてるって舞ちゃんが教えてくれたの。”ここは出る”とか”重要”とか。わたし、板書は写してても、授業の話は全然聞いてないから」 「あ、あー……なるほど」 板書写しが一応彼女のノルマということか。 授業中に絵を描かないで話を聞いていれば、この時間に絵が描けるだろうに。 と心の中で思ったものの、それも言えずに心にしまう。 柚子の場合、四六時中描いてないと落ち着かないのだという話を以前した気がしたからだった。 依存症に近いものなのかな、とも思うのだが、昔からだと言われると、それが彼女の一部なのだろうと理解するしかない。 「日本の大学受けるなら、ちゃんとしとかないといけないし……」 柚子が静かにそう言って、ため息を吐く。 「柚子ちゃん……?」 柚子の呟きに首を傾げて視線を上げると、教室後ろの戸が開いた。 ガラッと少し引っ掛かりのあるいつもの音。 ひょっこりと顔を見せたのは舞だった。 視線が合う。 照れくさそうに視線を逸らしたのはあちらのほうだった。 いつもいつも、あの照れくさそうな表情。 何も知らない人が見たら、さりげなくつれない仕草だけれど、それさえも可愛いと思えるようになってしまった。 廊下を確認してから、舞が戸を閉める。 「…………。さやか、話があるんだけど」 視線がしばらく泳いでいたが、ゆっくりと歩いてきて、最終的にまっすぐこちらを見つめてそう言った。 「舞ちゃん」 柚子が舞のほうを見上げ、意外そうにぽかんと口を開けている。 それはそうだ。 清香と柚子、柚子と舞でのやり取りはあったが、清香と舞のやり取りはここ数ヶ月、ほとんどなかったのだから。 「柚子、さやか借りていい? ……あ、やっぱり、いいや。そのままで」 「 ? 」 舞の言葉に、柚子も清香も首を傾げる。 言葉を探すように、舞は首に手を当て、目を細める。 ひとつひとつの仕草が、本当に絵になる人だな……なんて思いながら、つい見惚れた。 「……あの時も、柚子がいたものね」 思い返すように呟き、舞は清香の隣の席の椅子を引いた。 サラリと衣擦れの音。彼女が椅子に腰掛けたことで、視線の高さがほとんど同じになった。 「座ってると、見下ろされなくて済むから、こっちのほうがいいかな」 満足げにそう言って、彼女が穏やかに微笑んだ。 状況がよく飲み込めず、清香はまだ戸惑った状態で、彼女を見つめるだけ。 柚子が何かを察したように、ぴんと背筋を正した。 「え……と……?」 「……これから調子の良い話をするんですが、よろしいでしょうか? シンデレラ」 真面目な声で、それでも、照れ隠しのように茶化した口調で、彼女が言った。 ようやくそこで清香も察して、彼女を見つめたまま固まる。 急激に鼓動が速くなったのがわかる。 答えが、出るのだ。……そして、きっと、それは、清香の望む答えなのだと、確信が持てる。 それでも、こんなに気持ちは波立つのか。 「ガラスの靴なんかで相手を探すなよって切れてた女がこのザマだもんねー。そりゃ、清香が怒るのも無理ないや」 瞼を伏せてそう言うと、カラッと笑って顔を上げる彼女。 「ごめんね、清香。あたし、2人のことじゃなくて、その他のことにばっかり気を取られちゃってた。見るべきはそこじゃなくて、あなたでなくちゃいけなかったのに。覚悟していたつもりだったのに、いざ、ニアミスしてみたら、急に怖くなっちゃったんだ。……あなたと2人でいることを選ぶことで、起こるかもしれないすべてのことが」 「…………」 「でもね、結局、誕生日にはプレゼントを渡さずにいられなかったし、あなたも、バレンタインにはチョコをくれた。……そう考えたら、馬鹿らしくなったんだ。きっと気持ちのベクトルは同じ方向を向いているのに、なんで、2人はバラバラでいるんだろう……ってさ。仮に、この気持ちに終わりがあるとしても、終わりが来るまでの時間を、こんなことで無駄にしちゃっていいのかって思った」 「……くーちゃん……」 「あたし、欲しい物に手を伸ばすのは躊躇うのに、手放すことだけは躊躇ないの。それは十分に自覚してる。最初から諦めちゃえば傷つかないから……。諦めちゃえば、あなたを傷つけることもないと思った。そんなこと、なかったのにね」 舞は穏やかに微笑み、覚悟を決めるように息を吸い込んだ。 「あなたがいないと、あたしは、すぐ下を向いちゃう。こうであるべきだって、自分をしっかり持てるようになるまで、……ううん、出来れば、それから先も、あなたに傍にいて欲しい。……居て、くれない、かな? もっとしっかりした人になる。もっとちゃんと……」 「ダメ」 清香の短い言葉。 舞の表情が強張る。横で、柚子がゴクリと唾を飲み込む音がした。 言葉の順序を間違えたことに気が付いて、慌てて清香は次の言葉を吐き出す。 「しっかりしなくていい。ちゃんとしなくていい。私と居る時は、ただぼんやりしててくれればいいの」 言われた側は驚いたように目を丸くした。 表現が悪かったかもしれない。清香は即座に反省して、舞の手を取った。 取られた側は落ちつかなさそうに、目を伏せる。 それでも、清香は怯まずに続けた。 「ずっと、頼りになる人だって思ってた。私の手を取って進んでくれる人だって……。私、勝手にそう思ってたの。……でも、本当はそうじゃない。くーちゃんは私と同い年の女の子で、抱えている悩みだって、考えていることだって、きっと同じくらい幼い。私は、くーちゃんと対等でいたい。私の弱い部分をあなたがたくさん受け止めてくれたように、私も、あなたの弱い部分を支えてあげたい。今は、そう思ってるの」 告白なんて、甘やかな響きはもうない。 2人が進んできた道の、ずっと後ろにそれはある。 今ここには、自分たちの気持ちを確かめ合う。たったそれだけのことしか残されていない。 もしかしたら、今後もこういうことの繰り返しになるのかもしれない。 2人が一緒にいたいという気持ちと、現実に直面する度に。 それでも、こうして向き合える瞬間が、とても嬉しい。 ずっと待っていた。たったの数ヶ月が、こんなにも長く感じたことはない。 清香はゆっくりと立ち上がって、恐る恐る舞の頭を抱き寄せる。 舞は特に抵抗せずに、清香の胸に体を預けてきた。 「……しっかりしなくちゃって思ったのに、なんだよそれぇ……。ようやく、本気の覚悟が出来たところだったのに」 舞のか細い声。 清香はクスリと笑った。 「また、保護者ぶって自分の気持ちを押し殺したら許さないから」 「……うん」 自分のことを二の次にしてしまいがちな、この人の、心の底からの声。 ”あなたに傍にいて欲しい”。 それだけで満足だ。 気持ちは一緒だから。それ以外にはないから。 「大好きだよ、くーちゃん」 清香が甘く柔らかい声で囁く。 「……よかったぁ……」 勝手に2人の世界に入りかけていたが、その声が清香を現実に引き戻す。 舞が照れくさそうに清香の肩を押して、体を離した。 「あ、ご、ごめ、柚子ちゃん」 「え? 何が?」 清香の言葉に柚子がきょとんと目を丸くして、首を傾げてみせた。 「……柚子が、あたしたち2人の、想いの証人だね」 舞は自分を落ち着かせるように、深呼吸をしてから、笑顔でそう言った。 「最初も見られてたから、最後も見守ってもらおうと思ったんだけど、最後にならなくてよかった……ハハ」 山場を乗り越えて、ほっとしたのだろう。 舞は机に突っ伏して、おかしそうに笑っている。 彼女の髪を撫でて、清香もつられるように笑った。 「……しっかり、心に焼き付けたよ。2人が忘れたら、わたしが何度でも話してあげる。そして、何度でも、仲直りしてね」 柚子の優しい声。 にこにこと可愛らしい笑顔で、こちらを見守っている。 その柚子の言葉に応えるように、舞は体を起こして、照れくさそうに口を開いた。 「あたしさ、夢が出来たんだ」 「夢?」 「うん。なりたいものとかやりたいこととか、そういうのじゃなくて。ただ、年を取っても、こうして集まって、茶飲み話が出来たら良いなぁってさ。そう思うの」 「それだと、やっぱり、日当たりのいい縁側かな?」 「そそ。……当たり前のようで、結構、ハードルの高い夢だと思わない? お互い、近所に住んでないといけないし、家は買わないといけないし、何より長生きしないといけないしさ」 「いちばん大事なのは、縁が切れてないことじゃない?」 「そうそう! って、今の今で、清香、随分不吉なことを……」 「……不吉じゃないでしょ。永遠や絶対なんてないんだから」 「まぁね」 清香の言葉に、舞は取り付く島もない様子でため息を吐いた。 その様子を楽しげに、柚子が見守ってくれている。 「惜しむべきものと知っていれば、きっと大事に過ごせる。それでいいじゃない」 清香の言葉に、コクコクと頷く柚子。 舞も納得したように頷き、清香の制服の袖を引いた。 「なぁに?」 「……これからも、よろしく」 不器用な人。 人をからかう時はあんなに器用に感情を出すのに、どうして、こういう時に出せないのだろう。 清香はおかしくなってまた笑った。 柚子がそんな2人を見て、笑いながらもゆっくり立ち上がり、近づいてきた。 清香の腕を取り、舞のことも立ち上がらせる。 2人の間に入って、腕を引き寄せ、満足げに笑った。 「今日だけは、わたしも混ぜてね。舞ちゃん、さっきの話は、夢じゃなくて、約束にしよう。ね?」 「ええ。ツカとも約束したんだよね。もう、いっそ、いつものメンバーで出来るように目指すか」 「おじいちゃんおばあちゃんになっても、いつものメンバーか……。出来たらいいねぇ」 柚子が楽しそうに呟いた。 清香はその言葉を反芻しながら、柚子の向こう側にいる舞に視線を動かす。 舞は嬉しそうに微笑んで、柚子に体を寄り掛からせている。 みんな一緒に。みんな笑顔で。みんな健康で。 簡単なようで、きっと難しい。でも、それを約束できる、今があることは、どれほど素晴らしいことだろう。 |