◆◆ 第14篇 水風船・キミと見た夏の月 ◆◆
Chapter 5.二ノ宮 修吾
『だいぶ久しぶりだけど、盤石そうでなにより』 小さいながら、個展を開くことになったそうで、秋行が下見がてら上京してきた。 帰省する度に顔を合わせていたものの、大学を卒業してからは、忙しさに任せて、帰っていなかったので、かなり久しぶりの再会だった。 大人びはしたものの、可愛らしい顔立ちは相変わらずで、東京の気温に体が馴染まないのか、藍地の扇子でパタパタと顔を扇いでいる。 それほどお金のある身でもないので、雑魚寝でもいいから、部屋に泊めてくれないかと連絡を受けたのが、つい1週間前のことだった。 『そっちこそ。しかも、東京で個展なんてすごいじゃない。先越されちゃったね』 『んー。別に大きなスポンサーがついでる訳でもねぇし、そごまで自慢でぎるほどのもんでもねぇよ。後援は、じいちゃんを支援してくれてた地元の小さい団体さんだし』 『それでも凄いよ。秋行くんのために出資したいって人がいるだけで』 修吾が感心した声でそう言って笑ってみせると、秋行は少し考え込むように空を仰いだ。 『秋行くん?』 『……なぁんか、修吾クン、雰囲気変わったなぁ』 『え……?』 修吾は秋行の言ってることがよく分からず、首を傾げる。 けれど、秋行はそれ以上何も言わず、少し早足で歩いていく。 ペースを上げて秋行に追いつく修吾。 『司法試験、今年は受がるどいいね』 『…………。うん』 『人生、ながなが上手いごどいがねけど、頑張った分はお天道様が見ででくれる』 秋行は優しい声で言い、ポンポンと修吾の背中を励ますように叩いた。 『最近、こういう考え方、失われできてる気がするけど、ボクは、この言葉好きなんだ。誰でもない誰が。他でもない自分。顔向け出来ねぇようなごどはしねぇべって、心がら思えるがら』 柚子が楽しそうに車窓からの風景を楽しんでいる。それを優しい眼差しで眺め、修吾は久々の笑顔に胸を撫で下ろした。 受験勉強と文化祭準備の息抜きに、と柚子を誘い出したのは9月も中旬のことだった。 舞には何度も尻を叩かれたが、自分のほうもそれほど余裕があるという訳ではなかったので、半月も放置する形になってしまった。 申し訳なさが先に立っていたが、彼女のこの表情を見て、少しばかり考えが変わった。 「わたしが言うのもなんだけど、デートなんてしてて大丈夫? 言うなら、誘いを受けるなって話だけど」 柚子はこちらに視線を寄越し、真面目な顔でそう言った。 修吾はにっこりと笑って頷く。 「息抜きは必要だよ。それに、僕、コツコツ型だから、今更焦るようなことも特にないし。受験勉強って、正直必殺技なんてないと思ってるから」 「……そっか。むしろ、心配するべきはわたしのほうだね」 修吾の言葉に、柚子が本当に苦々しい感じで笑った。 この流れなら不自然でもないだろうと、修吾はすぐに切り出す。 行きで話すことでもないかもしれないが、今日は特別遠出をする訳でもなく、隣の市に遊びに行くだけなので、気まずくもならないだろうと判断したのだ。 「ユズさん、さぁ……」 「なに?」 「その」 久々に少し緩んだ表情を見せてくれている柚子を見ていると、切り出そうと取り出したものをすぐ引っ込めそうになる。 なんだかんだ、ここ2週間以上、この繰り返しだったのだ。今日みたいな緩んだ表情ではなかったが、彼女が壊れてしまいそうで、自分の口からぶつけるということが、躊躇われてしまった。 舞は、修吾の役目だと言ったけれど、きっと彼女自身も、今の柚子に手厳しい言葉を告げることは躊躇われたのだろうと思う。 「……な、夏祭りの夜さぁ、誰か、ユズさんの家に訪ねてきてたじゃない? あれ、誰だったのかなぁ……なんて」 久々にヘタレスイッチが発動した。 自分の中で、はっきりとそんな言葉を口にし、頭を抱える。 自分がヘタレを卒業できたなんて、これっぽっちも思ってはいなかったけれど、この場で怯む程、成長していなかったとは、思いもしなかった。 舞が隣にいようものなら、きっと思い切り足を踏んづけられていたことだろう。 柚子は一瞬悲しそうに目を細めたが、意を決したように 唇をきゅっと引き結んだ。 よそ行き用に下ろされた髪がさらりと肩から落ちる。 「……前から言ってた、わたしの留学を、支援してくださるつもりでいらっしゃる方」 避けたつもりが地雷だった。 それに気がついて、修吾はなんとも言えず、口元をひくつかせる。息苦しくなって、首元を押さえ、少し考え込む。 いや、これでいいじゃないか。そう言い聞かせる。 話したいことはそれだったのだ。聞きたいことはそれだったのだ。避けたところでしょうがない。 ずるずる後に引けば引くほど、彼女の首が締まってしまうだろうし、柚子の様子を気に掛けているメンバーの調子も狂ったままになってしまうのだから。 「そっか……。遂に、話が決まりそうなんだね」 それで様子がおかしかったというのなら、何のことはない。 なんだ。よかっ……。 「迷ってるの」 心からの安堵を、彼女の絞り出すようなか細い声が掻き消した。 固まる修吾の表情を射抜くように見据え、柚子は小さく吐き出す。 「迷ってる。パパを説得できないこともそうだけど、有働さんの期待に応えられるのかも、よくわからないし、何より、わたし、修吾くんと、一緒に、いたい」 柚子の声は小さく弱々しかった。 「傍で、どんどん成長してく修吾くんを、見ていたい。……そう、気が付いちゃった。だから、迷ってる」 柚子がそこまで言ったところで、車内アナウンスが、目的の駅に着いたことを告げた。 柚子は落ち着かないのか、修吾から目を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。 「降りよ」 「……うん」 話を一時中断して、頷くことしかできない自分。 彼女の言葉は、とても喜ばしいことだ。 ずっと、ずっと、彼女は修吾のことなど省みずに、絵描きになる、留学する、という話を嬉しそうにしていた。修吾の気持ちなどには、気が付きもしないで、彼女は本当に希望に満ちた未来の話をしていた。 春先だって、ようやくデートできそうな機会を、柚子がグループで仙台に行きたいと言った関係で潰された。 それを考えたら、彼女のこの言葉は素直に喜んでいい言葉だと思ってしまう。 それでも……、本当に、それでいいのか? 電車を降り、涼しい風に修吾は目を細めた。 柚子が髪の毛を押さえ、少し肌寒そうに体を震わせる。 「……秋の風」 「そうだね」 「ちょっと、薄着だったかも」 「あ、じゃ、これ、着る?」 修吾は持ってきていたパーカーを差し出した。 出掛けに母に押しつけられたのだった。 隣の市の松原に行く、と話したからだろうか。 9月も中旬になれば、このあたりは当たり前のように、冷えた風が吹く。 「ありがと。でも、修吾くんだって、半袖……」 「僕は大丈夫だよ」 こちらを心配そうに見ている柚子に、修吾ははっきりと答える。 あまりにはっきり言ったので、断る理由も見つけられなかったのか、柚子は差し出されたパーカーを受け取り、そっと袖を通した。 サイズがぶかぶかだったので、彼女は袖を捲り、落ち着かないように裾に触れた。 「さ、行こうか」 当然のように手を差し出し、彼女の手を握る。 僕はここにいる。 君はここにいる。 それを、確かめるように。 手を繋いだ瞬間、修吾の心は決まった。 言うことはひとつ。 きっと、舞も同じことを言う。 むしろ、それを言ってこいと、尻を叩かれたのだから。 「……綺麗……」 柚子が松原を抜けた先に見えた砂浜を見て、ほぅっと吐き出すように呟いた。 「ユズさん、来たことないって言ってたから、一度くらいは見ておいたほうがいいんじゃないかなって思ったんだ」 「……ありがとう。これは、絵にしたくなる景色だね」 「でしょ?」 柚子が楽しそうに笑い、修吾は少し得意になって言葉を返す。 卒業まで、あと何度。 キミがどこかに行ってしまうまで、あと何度。 僕たちは、こんな風に笑えるのだろう。 2人はしばらくの間、砂浜を散策し、歩き疲れたところで、腰を下ろした。 靴に砂が入るのを嫌って、柚子は砂浜に入ってすぐに靴を脱いでいた。 なので、今目の前には彼女の素足がある。 浴衣の時とは、また違った色気があって、修吾はゴクリと息を飲む。 「そういえば、プールとか海水浴とか、行ったことなかったねぇ」 柚子が思い出したように呟く。 修吾は少しばかり考えてから、首をひねった。 「元々、海で泳ぐって概念がないや。海岸沿いの町に住んでるのに。不思議なもんだ」 「確かにそうかも。わたしの場合、運動苦手なのもあるけど。でも、舞ちゃんや塚原くんに誘われたりとか、あっても不思議じゃなかったような気がするんだけどなぁ」 「……シャドーの場合、それを決行すると、さっちゃんの水着姿を衆人環視の中に晒すことになるから、言わなかったんじゃないかな」 「あ、それ、正解かもね」 修吾の推理に納得したのか、柚子は人差し指を振るって笑った。 修吾はごろりと横になり、空を見上げる。 それを柚子が優しい目で見下ろしてくる。 長い髪が腕に触れてくすぐったかったので、少しだけ体をずらした。 「勇兵とは1年の時に1回行ったよ、プール」 「あ、そうなの?」 「でも、あいつ、ガチで泳ぐから、1人取り残されてつまらなかったんだよね」 「ふふ……なんだか、すごく想像できるかも」 「うちの学校、プールないからねぇ」 「わたしは、ないから選んだと言っても過言ではないけど」 「そうなの?」 「どう見ても、カナヅチでしょう?」 「いや、そんなことは……」 「成績は悪くても気にしないけど、たくさん水飲んで、死にかけるのはさ、やっぱり避けたかったんだよね」 「ユズさん、大袈裟だなぁ。ははは」 柚子の真剣な言葉と表情に、修吾はつい笑ってしまった。 本人には申し訳ないけれど、そこまですごいことになるのなら、一度くらいは見てみたかったかもしれない、とつい思ってしまった。もちろん、すぐ助けるの前提で。 しばしの沈黙。 波の音が近い。 沈黙なんて気にならないくらい、少しハードなBGM。 柚子もゆっくりと横になって、左腕を枕にしてこちらを向いた。 修吾はさすがにそちらを向けずに、空を見上げることしかできない。 喋り出す気配がしたので、横目でそちらを見ると、柚子がとても穏やかな表情でこちらを見つめていた。 「のどかだねぇ」 「うん」 「……ずっと、こうしてたいな」 柚子が、心からの言葉を告げるように、優しい声でそう言った。 修吾はそれには言葉を返さずに、空を見つめる。 「修吾くん?」 不安になったのか、問いかけてくる柚子の声。 修吾は静かに口を開いた。顔を少しだけ柚子の側に向けながら。 目が合う。 「僕も、ずっとこうしていたい。ユズさんの成長を、すぐ傍で見守ってあげたい」 「修吾くん……」 「でも、きっとさ」 「 ? 」 「ユズさんの成長は、僕と一緒にいるだけじゃ、得られないと思う」 「…………」 修吾が何を言おうとしているのか察して、柚子は悲しそうに眉根を寄せた。 言え。言うんだ。 それは、きっと彼女のためになる。2人のためになる。 そう言い聞かせながら、修吾はぐっと唾を飲み込む。 「行ってらっしゃい。お帰りなさい。僕は、ユズさんの、そういう場所になりたい」 「……それ……」 この言葉は、1年の夏、彼女が言ったもの。 柚子が、舞にとって、そういう存在でありたいと、示した言葉。 彼女は、言ったとおり、舞のそういう存在になった。 口にするということは、大事なことなのだ。 柚子は、修吾を無言実行の人と称したけれど、相手がいなければ成立しない場合、言葉にしなければ何も伝わらない。そう、彼女と過ごしてきた日々の中で、修吾はしっかりと学んだのだ。 「ユズさん、チャンスはいつ巡ってくるか分からない。その時に、もし選べる最高のものがあるのなら、選ぶのに躊躇っちゃダメだよ」 「…………」 「僕はいつでもここにいる。ユズさんが望む限り。それは絶対だ。約束する」 修吾はゆっくりと起き上がり、柚子の右手を優しく包み込んで、はっきりと伝える。 柚子も遅れて体を起こした。 「もう手に入っているもののために躍起になって、優先順位を間違わないでほしい。だって、その選ぶべき道は、ずっとユズさんが焦がれてきた、ただひとつの道のはずだよ」 「…………」 「僕は、満足なんだ。ユズさんが、ずっと一緒にいたいって、言ってくれただけで、十分すぎるくらい幸せだよ」 修吾を見つめたまま、ぽろりと柚子は涙をこぼした。 「……好きでいてくれる?」 「ん?」 「ずっと、わたしのことだけ、好きでいてくれる?」 「……当たり前じゃないか。だって、キミは……僕の大切なものを呼び起こしてくれた、たった1人の人なんだから」 修吾の言葉に、柚子が嬉しそうに頬をほころばせた。 そっと瞼が彼女の眸を覆う。 修吾は一瞬状況を理解することを拒否して混乱しかかったが、拳を握りしめて治めた。 それは、ずっと、理性で押し殺してきたもの。 手を出せず、まごついている間に逃してきたもの。 ……初めて、彼女が心から許してくれたもの。 それは拙いキスだったけれど、目の前の彼女は、とても満足そうに微笑んでくれた。 |