◆◆ 第14篇 水風船・キミと見た夏の月 ◆◆

Chapter 6.渡井 柚子



『もうすぐ帰国するとこだったんだ。いいタイミングで訪ねてきたなぁ、ちびっこ』
 パリッとした格好をした賢吾がそう言って、煙草をくゆらせる。
 ガーデンカフェの一角で、柚子はにこにこ笑顔で、その様子を見つめる。
『舞ちゃんに、賢吾さんの滞在先を教えてもらっていたので、こっちに来たら寄ろうって決めてたんです』
『そうかそうか。売れっ子なんだろうなぁ。放浪しながら絵描いてて、しかも、きちっと現地の案内人をつけてもらえてるんだから』
『いえ、そんなことは』
 賢吾の言葉に照れて、柚子はブンブンと首を横に振った。
 三つ編みがブルブルンと揺れる様を見て、賢吾が優しい眼差しになる。
 柚子はそれが不思議で首を傾げてみせた。
『お前は変わらねぇなぁと思ってな』
『成長がないだけです』
『そんなこたぁねぇよ。おれが言ってるのは、芯のことさ』
『芯……?』
 賢吾はふぃ〜と煙草の煙を吐き出し、苦々しそうに目を細めた。
『そろそろ、帰ってやれねぇかい?』
『…………。帰りたいのは山々なんですけど、まだ、契約中の案件があって。それが終わらないと帰れないんです』
『契約?』
『悲しいことに、スポンサーがないとなかなか描けないものですから』
 灰皿に煙草を置き、眉根を寄せる賢吾。
『まぁ、それはおれみたいなのも一緒だけどな。そうか。まだしばらくは、帰れないんだな』
『はい……。なので、修吾くんに、わたしは元気だったって伝えてくださいね』
『おう。分かったよ。ったく、難儀なカップルだねぇ』
『2人で、決めたことですから』
『……夢が、叶うまでは。だっけ? お前さんはともかく、愚弟のほうは大丈夫なんだか……』
 きっちり固めた髪をカシカシと掻き、心配そうに空を見上げる。
 けれど、柚子はその言葉にまっすぐ答えた。
『大丈夫ですよ、修吾くんなら。あ、そうだ。すぐ、帰国されるわけではないんですよね? 絵を、1枚描いて持ってくるので、それを、是非お土産にしてください。修吾くんに、渡して欲しいんです』



 初めて彼と丘に登ったあの時、自分はなんと声を掛けただろう?
 今では、それを思い出すことはできない。
 それでも、彼と歩いたあの丘へ続く道の風景と、丘からの景色。そしてあの日の夜空だけは、とてもよく覚えている。
 あの時間はとてもこそばゆくて、どうすればいいか分からない居心地の悪さと一緒に、ずっとこの時間が続けばいいのに、という独占欲のようなものが、ひっそりと頭をもたげる。そんな時間だった。
 彼は素っ気なくて、早足で。自分はそれについていくのがやっとだった。だけど、自分に合わせて歩いてほしいなんて、1ミリも思わなかった。
 たぶん、そんなことを考える余裕もなかっただけなのだけど。そして、それと同じくらい、彼にも余裕なんてなかった。今、振り返ってみると、それが分かる。
 同じ教室で、つい視線の端にその姿を探してしまう人。
 それはまだ恋慕の情でもなく、好意の情でもなく、ただ、自分と同じように、目立ちたくない、ただ静かに、穏やかに過ごしたいと、そう考えているのではないかと思われる彼への、興味だった。
 舞が勝手に取り除いて、連れ出してくれた外の世界。
 彼は戸惑いながらも、当たり前のように、柚子を生活の一部として、認識してくれた。
 そういえば、男の子を自分から誘ったのなんて、初めてかもしれない。
 そんなことに思い至って、こみ上げる照れくささを感じながらも、柚子は必死に平静を装う。
 彼にこんな気持ちは届いていなければいいな。
 そればかり考えて。必死ににこにこを保つ自分。
 絵を描き始めれば、そんな感情はすぐに吹き飛んだ。
 自分だけの空間が出来ていく。
 それでも、彼がそこにいる。
 それが不思議だった。
 彼の問いかけに、自分は笑顔で答える。
 絵を描いているときは独り。孤独なのが当たり前だった。
 なのに、彼は当然のようにそこにいて、自分も当然のように、彼を自分の世界の一部にしていた。
 そうか。
 こんな空気を持った人が、この世界にいるのか。
 薄く薄く引き伸ばされたペールブルーから、だんだん色を濃くしていって、最後には深い藍色になる。
 光のように溶けて、消えてしまいそうな、静かな空気を持った人。
 それでも、生真面目で、自分をしっかり持った……優しい人。
 渡井柚子のお絵かきの世界に、何の違和感もなく入り込んだ人。
 それが、彼だ。



『勇気が出ないなら、僕も一緒に行くよ』
 穏やかに笑って、彼はわざわざついてきてくれた。
 こんな時間を、自分は想像しただろうか。
 彼の手が柚子の手を握り締め、そこで初めて彼が震えていることに気が付いた。
 自分のことでもないのに、巻き込んでしまった。
 彼は、1人で乗り越えたというのに。
 申し訳なさから俯くと、心配そうに修吾が声を掛けてきた。
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ。自分のことだから」
 柚子は修吾に真っ直ぐ視線を返し、玄関のドアを開ける。
「ただいま〜!」
「おかえり〜。早かったのねぇ、柚子。今ちょうど、お菓子を作って……。あらぁ、二ノ宮くんじゃない! 久しぶりねぇ。受験生なのに、柚子の相手してくれてありがと」
 柚子の声に反応して、キッチンから母が出てきた。
「こ、こんにちは」
「はい、こんにちは〜。ヒロくん〜! 柚子がカレシくん連れてきたわよ〜!」
「ちょっ! ママ!!」
 間髪入れずに、奥に声を掛ける母の腕を、柚子は大慌てで引っ張った。が、もう遅い。
 修吾がそのあっという間の展開に、面食らったようにぽかんとした表情で立ち尽くしている。
「いいじゃない。そのつもりだったんじゃないの? 仲良く手だって繋いでるしさぁ」
 ケラケラ笑う母。奥からバタバタと足音を立てて出てくる父。大慌てで部屋着から着替えたのか、シャツがズボンからはみ出ていた。
「い、いらっしゃい。和海ちゃん、頭ボサボサじゃないかな?」
「ん〜。ボサボサでもヒロくんはイケメンさんだから大丈夫よぉ」
「それは、大丈夫って言わないって。威厳が……」
 髪型よりも、はみ出たシャツのほうが威厳を損なっているような気がする。と考えていると、母がなんでもないように父の服を整え、そっと裾をズボンの中に入れてあげた。
「じ、自分で出来るよ」
「まぁまぁ。ど〜ぞ、上がって。今、ちょうどね、蒸しパンを作ったところなのよ」
 父の言葉を軽く流して、リビングに行くように背中を押すと、流れるようにスリッパを出して笑ってみせた。
「どんな話をするのかは知らないけど、玄関先ではなんですから」
 その瞬間だけは、少しだけ母親の顔を覗かせて。



 ローテーブルの上にはほかほかと湯気を立てている蒸しパン。
 それを挟んで、真面目な顔で対峙している修吾と父。
 柚子は至って真面目だったが、母は必死に笑いを堪えているようだった。
「冷める前に食べない? 固い話をするにしても、少し緊張を解いてからのほうが」
 母が優しく言い、大きな蒸しパンを切り分ける。
 父の蒸しパンにはマーガリンを乗せて、柚子の蒸しパンにはイチゴジャムを乗せて。
「二ノ宮くんは、何がお好み?」
「あ、え、と……」
「ママ。修吾くん、甘いのあんまり得意じゃないの」
「ああ、そうなの。それじゃ……」
「食べられないと言うのかい」
「ちょっとヒロくん」
「和海ちゃんの蒸しパンが食べられないと言うのかい?」
 父は至って真面目だ。
 柚子が言えたことではないけれど、真面目にバカなのだ、この人は。
「食べます。美味しそうだし」
 しっかりした口調で返すと、小皿を楚々と差し出す。
「うちねぇ、全員甘党なもんだから、とっても甘いのよ? 大丈夫かしら……」
 心配そうに言いながら、母が若干控えめな量を乗せてくれた。
「コーヒー、二ノ宮くんのは、濃いの淹れ直しましょうね」
「あ、いえ、お構いなく!」
 完全に緊張しているのが分かる。
 チラリと横目で様子を伺うと、修吾は冷や汗をうっすら浮かべながら、蒸しパンを口に運んだ。瞬間、眉間に皺が寄る。
 ……ああ……。無理しちゃって。
「修吾くん、本当に無理しないで」
 修吾の背をさすり、小声でそう言うと、小皿をそっと引き取った。
 渡井家の蒸しパンは本当に甘いので、修吾用に春花さんが作ってくれるようなお菓子とは、甘みが全然違うのだ。
 マーガリンがちょうどよく溶けてきたのを見計らって、父が蒸しパンを口に含み、ハムハムと口を動かす。
 食べ方だけなら、父と修吾はよく似てるのに。そんなことを思う。
「相変わらず、和海ちゃんの蒸しパンは美味しいなぁ。うん、美味い」
「そう? ありがと。二ノ宮くんも、食べてくれてありがとうね」
「いえ、むしろ、すみません」
 修吾が一生懸命飲み込んでから、真っ直ぐな声を発する。
 修吾から取り上げた蒸しパンを頬張ると、父が面白くなさそうに表情を曇らせた。
 あ、しまった。藪蛇。
「それで、今日は何の用かな?」
 柚子は硬直したが、修吾はその言葉を待っていたように、ただでさえ綺麗だった姿勢を正した。
「ご挨拶が遅れました。渡井さんと……仲良く、させていただいています。二ノ宮修吾といいます」
「柚子の父です。はじめまして」
 父の言葉に、修吾は真っ直ぐな姿勢で会釈をした。
「今日、急にお邪魔したのは……その、渡井さんの、留学を許可してあげてほしくて」
「…………」
 修吾の言葉に虚を突かれたのか、父は目を見開いて2人を見比べる。
 母が面白いものを見るように、父の横顔を見つめている。
「驚いたな」
「え?」
「てっきり、君は反対なんだと思っていたのに」
「……そうですね。はじめて聞いた時、確かに、良い心地はしませんでした。彼女は、何の未練もなく、どこにでも飛んでいけるのかと、そう思ったから。でも、今は違うんです」
 柚子の隣で、彼は全く知らない男の顔をしていた。
 この人に、こんな表情が出来たのか、と不思議に思えてしまうほど、険しさと愁いを帯びた表情。
「絵描きを目指さない彼女なんて、彼女じゃないんです。僕にたくさんのキラキラしたものをくれたのは、夢を追いかけるのが当たり前の彼女で、そんな彼女の前に、立ちはだかるものがあるんだったら、僕が取り除いてあげたい。今は、本当にそう思うんです」
「修吾くん……」
 修吾がゆっくりと頭を下げる。
「この子のことが心配なのはよく分かります。分かるけど、それでも、彼女の翼を折るようなことはしないでください。別の方法だってあるのかもしれない。でも、僕は一度だって歩みを止める彼女を、見たくないんです!」
 真っ直ぐに響く修吾の声。
 母が感心するように目を細めた。
 柚子は何も言えず、2人の様子を見守るだけ。
「……それはさ。君は、待つ、と言っていると取っていいのかい?」
「え?」
「娘の帰りを。年頃の男だ。見てくれだって悪くない。その気になればいくらでもモテるだろう。それなのに、この子の帰りを待てる、って言うのかい?」
「…………。そうですね。待てます。漠然とした自信ですけど、きっと。うん。いや。待ちます。僕にも、譲れない夢があるから」
 真摯な声に、父が静かに息を吸った。
 母が柚子を見てから、そっと口を挟んだ。
「懐かしいわ」
「和海ちゃん?」
「私が身ごもった時、ヒロくんは迷いもせずに、父に言ったわね。”結婚させてください。劇団をやめて、卒業したら就職します。住む場所だって、彼女が望むならこっちへ”」
「…………」
「私は今でも、あの時のヒロくんの決断に疑問を持っているけど、あの時の真摯な貴方の表情は、世界中の何よりも素敵だったと思っている」
 母が懐かしむように目を細め、修吾のほうを向いた。
「二ノ宮くん、あなたは素敵だわ」
「え?」
「私たち夫婦は、互いの夢を尊重しきれなかった。それは柚子が出来たからではなくて、2人とも弱かったから。私は理想を追っているだなんて言わない。あなたたち2人が、それでいいなら、ただ、やってみなさい、と、背中を押すだけよ」
 ふふ、と微笑プラスでそう言うと、柚子に視線を寄越した。
「柚子、二ノ宮くんに言わせるだけ? あなたの言葉じゃないと、ヒロくんは動きませんよ?」
 その言葉で、ようやく柚子が思い出したように体を跳ねさせた。
 見惚れてた、なんて言える訳もない。
 柚子はぐっと息を飲み込み、父を見据える。
 父は泣きそうな表情でこちらを見つめている。
 もう、逃げきれそうにない。表情はそう物語っていた。
 柚子はすっと頭を下げて、声を絞り出した。
「何度もお願いしてるけど、どうしても、留学したいの。有働さんも、良い環境を用意してくださるって、この前、お話に来てくれた。わたし、どうしても行きたい。彼がこう言ってくれるから、もう、迷わない。たとえパパを傷つけたとしても、わたしは、行きたいの!」
 叫ぶように吐き出して、はぁっと息を吸い込む。
 顔を上げると、父は悲しそうに目を細め、それでも、観念したように頷いてみせた。
「……自分の年の半分も行ってない子に、そこまで覚悟を示されて、それでも、パパは嫌だ、なんて、言えないよ」
 父の言葉に、パッと柚子は頬をほころばせる。
「そんな顔するんだもんなぁ。もういいよ。好きにしたらいい。その代わり、夢は絶対に叶えなさい」
「うん!!」
「そうじゃないと、待ってくれる二ノ宮くんにも、失礼だからね」
「……うん! ありがとう、パパ!!」
 声を弾ませる柚子。修吾がそっと柚子の左手に右手を乗せてきた。
「よかったね、……ユズさん」
「うん! ありがとう、修吾くん!」
 柚子は嬉しさと一緒に修吾を見たけれど、彼は少し俯いていて、表情がよく見えなかった。
「……はぁ。これでようやく進路の話は決着ついたのねぇ。ママ疲れちゃった。ここ最近、ずっと、家の中が暗いんですもの」
 母は場を和ませるように、陽気な声でそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「お茶、淹れるわね。冷めちゃったけど、蒸しパンとコーヒー、片づけちゃって頂戴ね」



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