◆◆ 第14篇 水風船・キミと見た夏の月 ◆◆
Chapter 8.二ノ宮 修吾
「文化祭、終わっちゃったねぇ」 若干散らかった状態の美術室で、彼女はそれを気にも留めないようにいつも通り絵を描きながらそう言った。 修吾は窓の外を見つめていたが、その声で振り返る。 まるで示し合わせたかのように、彼女がこちらを向いた。 「校庭も見えないから、後夜祭の様子も見えないんだね」 「うん。ここだけは、いつも通り。静かで、絵の具臭くて、わたしの大好きな空間」 「美術部って、文化祭の後に打ち上げか何かやるんじゃなかったっけ?」 「うん、19時から。もう少ししたら出るよ。3年は主賓扱いだったから、今年は断れなかったの」 「……そっか」 「なんだか、こうして振り返ってみると、わたしたちって、行事ごとでカップルらしいこと、あんまりやってこなかったよねぇ」 柚子は振り返るように目を細めて笑うと、パレットを閉じた。 修吾はその言葉を受けて、若干気まずくなったが、平静を装ったまま、その場に立ち尽くす。 「そんなことないでしょ」 「そう?」 「文化祭だって、修学旅行だって2人で回ったし。僕はそれなりに満喫したかなって、思ってたけど」 「あー、うん。それは、そうなんだけど……ね」 ゆっくり立ち上がり、修吾の隣に歩いてきて、窓枠に寄りかかった。 「行事の後とか、みんなと遊ぶことが多かったから」 「ああ。でも、それは……」 「わたしが喜ぶから、そうしててくれたんだよね。最近、気が付いたよ」 「……僕も、楽しかったからそうしてただけだよ」 柚子が優しく微笑んでこちらを見上げてくるので、照れ隠しに視線を逸らして、首の後ろを掻いた。 「あの夏の日」 「え?」 「2人で、丘に登った日」 柚子は懐かしむように目を細める。 修吾は彼女の表情を見つめ、ただ心臓の音だけを聞いていた。 「どうして、わたしは声が掛けられたんだろう、って、最近思い返すの。結局、答えは分からないんだけどねぇ」 「今、こうしている僕から言わせてもらうと」 「 ? 」 「声を掛けてもらえて、よかったと思ってる」 「……うん。わたしも」 修吾の言葉に、柚子は嬉しそうに微笑み、修吾の腕にコテンと頭を預けてきた。 修吾は内心動揺しつつも、邪険にも出来ないので、そのままの姿勢で思い出すように口を開いた。 「……そういえば」 「なぁに?」 「ユズさんが留学することになったけど、大丈夫か? ってシャドーに心配されたんだよね。余計なお世話だって、突っぱねちゃったけど」 「……それで、最近、2人の間の空気がビミョーだったのかぁ……」 「分かっちゃった?」 「そりゃあ、まぁ……。自慢じゃないけど、わたし、2人のこと、誰よりも見てるつもりだし」 この人に、自分の天然ぶりを自覚する日は来るのだろうか。 修吾はむずがゆくて、少しだけ体を動かした。 支えを失って柚子がふらっとしたが、すぐに窓枠に手をついた。 「舞ちゃんに監視役をお願いしたのは、わたしだからさぁ、その、変なことで喧嘩はしないで欲しいなぁ。高校生活だって、あと少ししかないんだし」 「お願い?」 「うん。舞ちゃんに、修吾くんが浮気しないように見張っててーってお願いしたの」 柚子は若干照れくさいのか、唇を尖らせてそう言い、床に視線を落とした。 「……この前、言ったじゃないか。待てるって」 「そうなんだけど……、やっぱり、女心としては、心配なんだよ」 修吾の口調が少し強めだったからか、柚子が様子を窺うように視線を動かしながら答えてくる。 舞の言い方では、そんな風には全然感じ取れなかった。 頼りない自分を心配して言っているようにしか、聞こえなかった。 だから、つい「保護者面するな」というニュアンスで言い放ってしまったのだ。 「誰かと一緒にいないと、駄目になるんじゃないかって心配されたのかと思ったんだよ」 「え?」 「だって、シャドー、ユズさんに頼まれたなんてひと言も言わないから」 修吾の言葉に、柚子は考えごとをしているのか、ぼんやりとした表情になり、数秒してしっかりとした眼差しに戻った。 「舞ちゃんが、どういう意味で、どういう風に言ったのかは分からないけど」 寄りかかっていた体を起こし、修吾と向き合うように立つ柚子。 修吾の左手を取って、両手で包み込んだ。 「わたしは、修吾くんの可能性を信じてるよ。これは気休めでもなんでもなく、心からの言葉だよ」 「ユズさん……」 「修吾くんは、まだまだ頼りなくて、不安定に見えるかもしれない。でも、わたしは、そんなあなたを信じてる。誰が何と言おうと、信じてる。そのことは、どうか忘れないで欲しい」 「…………」 「夢を叶えて、2人で生きていく。修吾くんが示してくれた、私の将来の地図だもの」 「……そう、だね」 「うん♪ もし、舞ちゃんが失礼な意味で言ったんだとしたら、そこはわたしが叱っておくから、変なことでぎくしゃくするのは、やめてね?」 小首を傾げてそう言う柚子が可愛く感じられて、修吾はそっと彼女の体を抱き寄せた。 「わわっ……」 「絵のことはよく分からないけど、僕も、ユズのこと、信じてるから」 「……ありがとう。誰に言われるよりも、嬉しいよ」 照れながらも、彼女は修吾の腕の中でそう言って笑ってくれた。 信じている。 そんな君の言葉だけを支えに、僕はあと、どれだけの時間を、諦めずに歩けるのだろうか。 久々に勇兵が修吾の部屋を訪ねてきた。 手土産にビールやつまみがあって、学生の頃との違いをなんとなく感じてしまった。そう感じるのは、最近、あの頃を振り返ることが増えたためかもしれない。 短い髪はそのままに、服装と表情だけが大人び、背も高校時代に比べて一段と伸びた。 昨年、実業団入りを果たし、修吾から見ても順風満帆な印象がある。 上手く行っていないのは、自分だけ。 なんとなく、そんな風に卑屈になりかける自分を、必死になだめすかす。 『日和子がさぁ、うるさい訳よ。”スポーツ選手なんだから、食生活には気を使ってください!”、”そんなの食べたら、体重増えるじゃないですか。パフォーマンス落ちるからダメです!”って』 『え? じゃ、こんなの食べて大丈夫なの?』 『食べた分は動けばいいんだし、久々にダチに会うのに、酒もなし、とか虚しいじゃん。ちょっと食が乱れたくらいで、体調崩すタイプでもないし』 勇兵は窮屈そうにそう言って、バリンとスナック菓子の袋を開けた。 『それに、修ちゃん家に来るなら、こういうのは外せないっつーか。過去にすがるとか、そういうのではないけどさ、俺たちだけに在った時間、みたいなものを、しっかり共有したい訳』 『……ありがとう』 修吾の返事に、勇兵は照れくさそうに目を細め、すぐにスナック菓子を口に放り込んだ。 『舞のこと、追い出したんだって?』 『……それ、半年も前の話だよ』 『しょうがねーじゃん。2年ぶりに会うんだし。修ちゃんには昔の話でも、俺にとってはホットな話題なの』 『なんか、いい加減歯がゆくなっちゃって』 『舞と遠野?』 『うん』 勇兵はつまみに買ってきたチータラの包装も破り、テーブルの上に置いた。 『……まぁねぇ。遠野からはたっくさん愚痴を聞かされてたから、収まって良かったとは思うんだけど』 『勇兵って、ホント懐深いよね』 昔好きだった相手の恋人から愚痴を聞かされるって、一体どういうポジションなんだろう。 『しょうがねーじゃん。聞いてくれる人間が、遠野の場合いないんだもん。こっち出てきてから出来た友達にするには、ちょっと難しいラインの話な気がするし』 『……まぁね』 『俺はむしろ、修ちゃんのほうが凄いなって思うけどね』 『僕?』 『うん。異性と同居しといて、手も出さないって、それはそれでウルトラ難度だと思うんだけど。贔屓目に見なくても、アイツ美人だし、スタイル良いし。口は悪いけど、家事も一通り出来るだろ?』 『まぁね。さっちゃんのこと考えてか、来る日を選んで、家事を放置しておくってこともよくやってたけど』 『ハハッ、アイツもアイツで苦労してんだな』 『さっちゃんは、面倒見たがるタイプだからね。そのくせ、かまってちゃんだから』 『カップルとしてのバランスの取り方ってのは、人それぞれだなぁ』 『……そうだね』 『俺さぁ』 『 ? 』 『ぶっちゃけて言うと、修ちゃんとくっついたら絶対に無理だなって、思ってた時期があったよ、高校時代』 『誰が?』 『舞』 『…………。ありえない』 『うん。修ちゃんが、ありえないって顔してたから、望みを繋いでしまってた部分も、あった気がすんのよね。こうして振り返ってみると』 『…………』 『遠野とよく話すんだよ。修ちゃんと舞の、互いに対する”フェロモンブロック”みたいな天性の能力には、心底感心するって』 『フェロモンブロック?』 『微塵も意識してない感じ? ちょうど良いのが隣にいるのに、2人とも全然違う子見てるじゃん? ああいうのって、成立するもんなんだなぁってさ。遠野が修ちゃんとの同居なら許すって言ったのも、そのへんがあったからだよ』 『……だって、さっちゃん、他の女の子との同居はダメ! って言い放つんだもん。大学通ってる間は、おばさんのところに下宿してるから、シャドーと暮らすのも無理だって言うし。そんな時、ちょうど兄貴が留学になって、荷物の少ない舞がすんなり居座ったんだよ。どうにも出来ないって』 『信用というか、信頼というか。渡井もすんなり受け入れたらしいじゃん』 『シャドーの話では、そうだったらしいね』 『あ、連絡取ってないんだ?』 『互いにしっかりするまで、連絡はしないって、2人で決めたんだよ』 『ふーん』 そこで少しの間、沈黙が流れたので、修吾は勇兵が開けてくれたスナック菓子に手を伸ばした。 勇兵はビール缶のタブを引き開けて、一気に煽る。 感心するほど、豪快な飲みっぷりだった。 『最近どう?』 なんとなく、避けてくれていた本丸に切り込んでくる気配がした。 『司法試験以外は、順調だよ。小説も、最近は筆が進むようになってきたし。バイトも、塾講師と家庭教師持ち回りで、なんとか』 『……そっか。忙しくない? 大丈夫?』 『大丈夫。ただ、来年の正社員登用の誘いがあった時は、ちょっと揺らいじゃったけどね』 『正社員、なっちゃえば良いのに』 『そこでいいか、って、気持ちに負けてしまう自分が、容易に想像できたんだ』 『…………』 『親には甘える形になってしまうけど、なんとか踏ん張りたくてさ。その点、同じ院生でも舞は凄いよね。少ない仕送りとバイト代で凌いでるんだから』 『そりゃ、アイツはアイツで夢があるからなぁ』 『夢?』 『修ちゃんは聞いてないか。老後、縁側でひなたぼっこしながらお茶を飲む。それが、アイツの夢』 『……ひなたぼっこ?』 『実家は楽に譲るから、ぼろくても一軒家を買ってあげられる人間にならなくちゃ。って。アイツの夢は、俺や渡井、修ちゃんとは違うけど、なんつーか、持てて羨ましい夢だなぁって思う』 『……そう、だね』 勇兵はもう1本ビール缶を開けて、修吾の手に持たせた。 コンッと缶にぶつけてくる。 『お互い、頑張ろうぜ』 『うん』 『とりあえず、元気そうで良かったよ。アキちゃんから話聞いて、ちょっと心配してたんだ』 『秋行くん……?』 『あ、これは言わないんだった』 『じゃ、聞かなかったことにしよう』 『へへ、そうしてください』 修吾の言葉に、勇兵がお茶目に笑って、また一口ビールを飲んだ。 修吾も先程の勇兵のように豪快に煽り、軽く音を立てて、テーブルに缶を置いた。 『諦めない限り終わらないものなら、僕次第なんだと思うんだ』 『へ?』 『秋行くんには、心配掛けてしまったかもしれないけど、それだけは、僕も、きちんと理解しているから』 『なんか、よく分からないけど……修ちゃんが納得してんなら、いっかな』 現実と理想の間で、右往左往する。 その幅は、年を経るごとに大きくなってゆく。 それでも、譲ってはいけないものがある。譲ってはいけないから、心が潰れそうになるほど苦しむのだ。 今は、それさえ分かっていれば、大丈夫だ。 壁に掛けられた一枚の油絵を見つめて、自分自身に言い聞かせる。 その絵は、確かに言っているのだ。 あの頃と同じく。 あなたを信じている、と。 |