◆◆ 第14篇 水風船・キミと見た夏の月 ◆◆

Chapter 9.渡井 柚子



 ひと筆ひと筆、大事に彩を乗せて、段々自分自身の輪郭が出来ていく。
 中学卒業と同時に、真っ白になったはずの彼女に、今はこんなにもたくさんの彩がある。
 彼女は彩を乗せる人。
 だから、はっきりした彩を持たない。
 なんと形容して良いのか分からなかったから、彼女は無色彩と称していた。
 無色透明。
 あってもなくても変わらない彩。
 それでも、なくてはならない彩。
 ここまで彩を乗せてみて、ようやく、彼女は見つけた。
 あってもなくても変わらなくても、なくて良い彩なんて、ひとつもないということを。
 絵を描く彼女自身だからこそ、もっと早くにたどり着いているべき答えだったのに。
 自分自身を不要と感じていた彼女には、その答えさえ、導き出す術がなかったのだ。

 カンバスには、あの頃出会った大切な人たちが並ぶ。
 あの場所は、大切な場所だ。
 あの時間は、もう戻ってこない。
 それでも、思い出すことで、いくらでも、そこに戻ることが出来る。
 前へ進むための原動力。
 あなたは、あなたのままでいい。
 そう、言ってくれる……目には見えない、みんなとの思いの集合体。

 コトリと、彼女が筆を置いた。
 昔と同じ笑顔で、彼女は微笑む。
「出来た。……帰ろう。あの人のところに」
 そう呟くと、着けていたエプロンを外して、アトリエにしている一室からふらふらと出て行った。
 高校卒業から、もう8年が経過していた。



『気持ちがぶれるの、嫌だからさ! 夢が叶うまでは、2人とも会わないってことにしない?』
 あの頃の自分が、思いつきのように、そんな言葉を発した。
 ハードルを高くしておかないと、自分の心のほうが、途中でくじけてしまうのじゃないか。
 そんな風に思ったからだった。
 冬空の下、彼は困ったように俯く。
『それは……さすがにシビアすぎない?』
『会いたかったら、早く叶えればいいだけだよ! ハードルを越えた後のご褒美を用意しておいたほうが、頑張れるよ、絶対!』
『そうかもしれないけど……』
『頑張れない?』
『……全然会えないのは、辛いかなぁ』
『じゃ、わたしから絵葉書を送るよ。生存確認。生きてますって』
『…………』
 彼が情けない表情をして、こちらを見つめている。
 こういう突拍子もないことを、自分が言い出すと、彼は決まって、こういう困った顔をする。母性本能をくすぐられるような、可愛らしい表情。
『帰ってきたら、お嫁さんに貰ってくれるんでしょう? そしたら、たくさん、一緒にいられるじゃない』
 甘えるようにそう言ってみると、ようやく彼が口を開いた。
『それはそうだけど……』
『あ、何年かかるんだろう? って不安になってるでしょう?』
『…………』
 修吾があまりに歯切れが悪いので、柚子は修吾の顔を両手で思い切り挟み込んだ。
『だいじょうぶだよぉ。修吾くんが、わたしのこと待てるって言ってくれたように、わたしも、何年だって待てるんだからさぁ』
『…………』
『途中でギブアップしたら、その時はその時。それでも、わたしは修吾くんのところに戻ってくるよ。だって、そこしかわたしの帰る場所はないんだから』
 柚子が折れる気がないことが分かったのか、修吾はため息を吐いて、覚悟を決めたように真面目な顔になった。
『わかった。会わないし、こっちから連絡は取らない。でも、ギブアップはなし。甘えが出るから』
『自分でハードル上げたねー』
『言い出したら、聞きゃしないんだから……。僕がいつまでも上手く行かなくて、おばあちゃんになっても知らないからね』
 修吾が拗ねたように言うのが可愛くて、柚子はにっこりと笑った。
『そうしたら、わたしはわたしで、舞ちゃんたちと楽しく暮らしてるからいいもん〜』
『……まったく、マンガじゃあるまいし、何の約束だよ』
『好きな人が、自分のために、頑張ってくれてる〜って実感が欲しいんだよぉ』
『あーそうですか……』
 柚子の言葉に、彼は呆れたように笑っていた。
 あの冬、2人の距離は間違いなく、近く深くなっていた。
 そのくらい言わないと、自分は海外での暮らしに耐えられる自信がなかったのだ。
 頑張った先に、彼がいる。
 そう考えれば、きっと乗り越えられる。
 そう、信じていたのだ。



「渡井さん、疲れたと思うけど、出版社に挨拶しとかないといけないので、もう少し踏ん張ってください」
 帰国してすぐ、東京のコンクリートジャングルに連れ出されて、柚子は大きくため息を吐いた。
 ご機嫌を取るように、ここ数年仕事の仲介をしてくれていた30代後半の後藤が笑う。
 柚子はコクコクとうなずきを返して、気合いを入れるように、バッグにつけていた柴犬のマスコットキーホルダーを握る。だいぶへたってしまったけれど、柚子の宝物だ。
 後藤にくっつくようにして歩いていたが、大きな書店が目について、柚子は立ち止まった。
「渡井さん……?」
「すみません、本屋さんで探したい本があるんですけど、少し時間ありますか?」
「え? あ、はい。一応、時間はありますけど……、今じゃないと駄目ですか?」
「帰りになると、疲れちゃって寄れなさそうなので」
「わかりました。タイトルは分かりますか? スタッフに聞きましょう」
「あ、タイトルはわかんないんですけど」
「へ?」
「二ノ宮修吾、って作家さんの本が、ないかなぁって」
「二ノ宮修吾……初めて聞く名だなぁ。ちょっと待っててくださいね」
 後藤は優しく笑って、店内へ入っていく。
 柚子もゆっくり後を追いかけて、入り口の入ってすぐのところで待つことにした。
 後藤が、サービスカウンターにいるスタッフと話をしているのが見えた。
 出版関係のお仕事をされているだけあって、書店での振る舞いは慣れたものだった。
 ネットで調べればすぐ出てくる、と舞には言われたのだけれど、ちゃんと実物で見たかったから、帰国するまで取っておいたのだ。
「場所、分かりましたよ。行きましょうか」
 後藤がプリントされた紙を持って戻ってきた。
「さすが、後藤さん。頼りになるなぁ」
「いいえ。何かあれば、出来る範囲でお手伝いしますって、言っちゃったのはぼくですからねぇ」
 後藤が笑いながらそう言い、導くように前を歩いてゆく。
 エスカレーターを上り、新刊小説が平積されているコーナーを抜けて、ハードカバー小説が置かれている棚のところまで歩いた。
 後藤が作家の名前を確認するようにゆっくりと前に進んでいく。
 その名前を見つけたのは、柚子のほうが早かった。
「あ、ありましたっ」
 少し高い位置に”二ノ宮 修吾”と名前の書かれた小説の背表紙が見えた。
 こんな大きな書店でも、1冊置かれているのがやっと。それでも、確かに、それは彼の本だった。
「お取りしますね」
 背の低い柚子を気遣って、すぐに後藤はその本に手を伸ばす。
 取った本を丁寧に扱い、柚子に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
 柚子はつい表情がゆるむのも構わずにそう言って、ぐっと小説を握りしめる。
 ”空色の世界”。
 それがその本のタイトルだった。



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