◆◆ 第3篇 篝火・たこ焼き弾丸ストライク ◆◆

Chapter NARU1.古平良 鳴



 とりあえず、出会いは最悪だった。
 部室に向かい、扉を開けると、そこには、鳴のお気に入りの泉鏡花全集の一部を枕にして高いびきをかいている、だらしのない格好の男子生徒がいた。
 横にはこれまただらしのない格好の女子生徒。
 ……服の乱れ具合で察した。
 見ない振りで帰ることも出来たのだが、何よりも泉鏡花全集が、そんな男の下敷きになっていると思うと、居ても立ってもいられず、そのままそ知らぬ振りで部室に入り、扉を閉めた。
 女子生徒はこちらに気付いたが、特に何も言わずに襟元を正して立ち上がる。
 文芸部の人間ではない。
 見たことがないから分かる。
 ……それはこの男に関しても言えることだが。
 女子生徒が鞄を手に取り、そのまま部室を出て行こうとするので、鳴はすぐに呼び止めた。
「待って。この人は?」
「んー、そいつ、一応、文芸部員だからぁ……もし起きたら、恵梨は帰りましたって伝えといてくれるぅ?」
 恵梨は鼻に掛かった声でそう言うと、鳴の反応など気にする様子もなく、だるそうな歩き方で部室を出て行ってしまった。
 鳴はいびきの響く部室で、大きくため息を吐き、そしてすぐにしゃがみこんだ。
 とにかく、この男の頭の下から全集を抜かないと、落ち着かない。
 価値の分からない人間。
 今や入手の難しい初版。
 それがこんな高校の、こんな閑散とした文芸部の本棚にあるだなんて、鳴は予想もしていなかった。
 だからこそ、入部してから毎日のように通いつめ、大事に大事に読んでいたというのに。
「こ、の!」
 短く言葉を吐き、素早く男子生徒の頭の下から本を抜いた。
 あるはずのものが急になくなったため、男子生徒の頭は勢いよく床に落下し、ゴツンと鈍い音を立てた。
 いびきが止む。
 鳴は清々して、全集を胸元に引き寄せ、本棚へと向かった。
 ガラス戸で鍵付きの本棚に変えなくては、また同じようなことをされてしまう。
 せっかく綺麗な状態で残っているというのに、危うく涎塗れになるところだった。
 ブツブツとそんなようなことを呟いていると、後ろでぼんやりとした声がした。
「いてぇ」
 自業自得もいいところ。
 鳴は素知らぬふりで、本棚の本の整理を始めた。
 ガバッと起き上がったのか、少しばかり服の擦れる音がした。
「あぇ? ……恵梨ちゃん、いねー」
「恵梨は帰りました」
 鳴は言伝られたままの言葉を背中を向けたまま告げた。
 男子生徒はよろよろしながら立ち上がり、鳴の隣まで来て顔を覗き込んでくる。
 たれ目の、二枚目でもなく三枚目でもないような顔をした人だった。
 背は高い。
 170ある鳴より頭半分大きい。180はあるだろうか。
「……あ、もしや、新入部員? 聞いてるよー、鳴ちゃんっていうんでしょ? 可愛い名前だよねー。いやー、今まで男ばっかでムサ苦しかったから、女の子入ってくれて嬉しいよー」
 軽い話し方が、鳴の肌には思い切り合わなかった。
 何も言わずに本の整理を続ける鳴。
 何の反応も返ってこないことがわかったのか、しばらくすると、男子生徒は鳴から離れた。
 けれど、部室を出て行くことはなく、窓の傍の椅子に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
 時計の針が動く音と、一定のリズムで本を並べ直す音が部室に響く。
 5分ほど経って、鳴が本の整理を終えて、手近な椅子に腰掛けると、男子生徒はこちらに視線を寄越し、にぃっと笑った。
「おれ、本間俊希(ほんまとしき)。トシでいいよ。よろしくな♪ 古平良鳴ちゃん」
「……よろしく。本間先輩」
 随分と馴れ馴れしい先輩だ。
 そう思いながら、それだけ言葉を返し、鳴は本棚から取り出した本を開いた。
 全くもって人嫌いそうな鳴の雰囲気に、気が付いているのかいないのか、再び俊希は立ち上がって鳴の様子を窺うように近づいてきた。
 鳴は眼鏡のずれを直し、ページを捲る。
 横から覗き込まれている気配がした。
 眉間にしわを寄せてそちらを睨みつけると、俊希はそんなことは全く気にもしないように笑った。
「ねぇ、その本面白いの?」
 そんな言葉。
 あなたが先程まで枕にしていた本ですよ、とでも言ってやろうかと思ったが、それはやめた。
「ええ、私にとっては。でも、あなたには、この本の味はわからないかもしれません」
 ピシャリとそう言い、再び鳴は読書へと意識を戻した。
 なにやら横でしばらくの間、体を震わせて笑っていたが、そんなのはどうでもよかった。
 なぜなら、彼に対して何ひとつ興味がなかったからだ。



 夏休みを目前にしても、鳴の部室通いは相変わらずだった。
 それ以外やることがないとも言えるから、特に自分は気にも留めていなかった。
 部室の扉を開けると、俊希が3年の先輩と楽しそうに話していた。
 ちゃらんぽらんで空気も読めないタイプに見えるのだが、なぜか彼は先輩に気に入られていた。
 鳴に気が付いて、俊希はにぃっと笑い、手を上げた。
「よぉ、鳴ちゃん♪ 今日も読書? あ、そだ。見て見てー。伊達眼鏡買ってみたんだよねー。少しは頭よさそに見えるかねぇ?」
 そんなことを言って、カチャリとフレームの細い眼鏡を掛けてみせる。
 鳴は静かにそれを見て、目を閉じた。
「馬子にも衣装ですね」
「孫にも衣装? どういう意味?」
「トシ、馬子って、爺さん婆さんの孫のことじゃねぇからな?」
「え、じゃ、何?」
「馬の子」
「は? なんで、馬の子? おれ、人間だし」
 そのやり取りに呆れて、鳴は深くため息を吐いた。
 そのため息で2人のやり取りが止んだ。
 なので、鳴は静かに説明する。
「馬子というのは、昔の身分のひとつです。あまりいい身分ではありません。そんな身分の者でも、衣装さえしっかりしていれば、立派に見える、そういう意味です」
「ん? じゃ、誉められたんだ、おれ」
「トシ、それは違うだろ」
「だって、これ掛けてれば、頭よさそに見えるって意味だろ? そしたら、誉められたってことじゃん、ナベちゃん」
「……いや、違うだろ」
 3年の先輩は俊希の言い分に困ったように首を傾げた。
 明らかに蔑みの言葉だから、本来ならば鳴を注意すべき場面だが、どうにも言いにくそうにしている。
「だって、おれ、自分が馬鹿なのわかってっから、こんなの買ってみたわけでさ。だから、その言葉をもらえたってことは、おれの思惑的には成功ってことだし♪」
 無邪気に笑う俊希。
 鳴はその言い分についついため息が漏れた。
 どこまでおめでたいのか、と、ついそんな言葉が漏れそうになった。
 けれど、それよりも前に、俊希が何かを思い出したように時計を見て、次の瞬間、机の上の鞄を引っ掴んだ。
「やべ、藍ちゃん待たしてたんだ。そんじゃ」
「あ、ああ」
「さよなら」
 鳴は棒読みで告げた。
 けれど、その言葉を受けて俊希はにこっと笑い、手をヒラヒラ振って出て行った。
 3年の先輩は鳴を見て、ふーと息を吐いた。
「あんまし、嫌味ばっか言うなよ」
「嫌味ではなく、正直なことを告げただけです」
「……別に、いいんだけどさ。トシは怒ってねーみたいだから」
 鳴はいつも使っている椅子に腰掛けて、持ってきた小説を開いた。
「あのさ」
「はい」
「俊希って、去年の夏までバスケ部だったんだ」
「はぁ、そうですか」
 鳴は全く興味のない声を返した。
 けれど、先輩は静かに続ける。
「結構上手くてさ、1年でレギュラーだったらしい」
「…………」
「でも、手首怪我しちまってさ。それっきり。再起不能ってヤツ? ちょっと……可哀想なヤツなんだよ」
「それで?」
「いや、それでって……。だから、少しは優しく……」
「私は相手を選んで態度を変えるようなことはできません。特に、人伝で聞いた当人の事情に影響されて、なんて、無理です」
 鳴の静かだけれど、凄味のある声に、先輩はそれ以上は言葉を続けなかった。
 ……そう。
 そんなのは知ったことじゃない。



 夏休みが終わって文化祭の準備の話し合いがあり、その際に1年が文化祭の準備をするのが、文芸部の通例だという話を聞かされた。
 ……たった1人で、鳴は文化祭の準備をすることになった……。
 適当にやればいいよ、と2年の先輩は言っていたが、鳴にそんな器用なことが出来るはずがない。
 展示をするとして、どんなものがいいだろうと。
 それを考えるだけでも、居残りの時間はどんどん長くなっていった。
 そんなある日、俊希が部室に来て、展示の内容を考えている鳴と鉢合わせした。
 俊希は鳴の様子を見て、すぐにハハッと笑い、椅子に腰掛けた。
「去年なんて、展示なんかなかったよ? やるようだったんだね。おれ、知らなかった」
「部会にも滅多に出ませんもんね」
「うん。……でも、去年の部会の時期に、おれ、まだ文芸部員じゃなかったから、だから知らなかったんだ。それに、字も書けなかったしなぁ」
 その言葉で、夏休み前の先輩の話を思い出した。
 鳴は柄にもなく尋ねてしまった。
 正直、その質問をした自分に一番驚いた。
「手首を怪我していたからですか?」
「あ……うん、そう。何、誰から聞いたの? あ、ナベちゃんかなぁ、そういうことペラペラ喋るのは」
 おかしそうに俊希は笑い、頭をガシガシ掻いた。
「ひっどいんだ。コートはいくらでも駆けれんのにさー。手首ひとつ動かないだけで、何も出来ねーの」
「……そんなに酷かったんですか?」
「ぅん。だって、片方でしかドリブル出来なくなっちまったんだもん。……そんなガードいねーよ。笑える」
 鳴はスポーツには全く興味がないので、俊希の言っていることがどれだけ深刻なことなのか、いまいち推し量れず、少々目を細めた。
 きっと尋ねれば答えてはくれるだろうが、それほど込み入った話を聞くのも、失礼ではないかとも思ったのだ。(今まで散々失礼な態度をとっていたくせに)
「もしかして、鳴ちゃん、意味わかってない?」
「ぇ?」
「見るから運動できなそうだもんねー。簡単に言うとさ、弱点バレバレのプレーヤーなんて、もう既にプレーヤーじゃないわけ。片方しか使えないってだけで、プレーの幅は限定されちまう。楽しくもないバスケなら、したって面白くないのよ。ハハ」
「再起不能っていうのは?」
「ナベちゃんの脚色じゃん? 別にバスケは出来るよ。ただ、試合に出るレベルじゃないだけで」
「そう、ですか……」
 本人から聞く話は、確かな重みと一緒に、どういう言葉を掛けていいのかわからない気持ちを寄越す。
 そこで2人は沈黙した。
 俊希は頬杖をつき、思い出したように笑った。
 鳴は意味が分からず、俊希を真っ直ぐに見つめた。
「長い会話初めてじゃん?」
 そんなことさえ言わなければ、鳴ももっと素直に口を聞いたろうに、その言葉で鳴は唇を引き結んだ。
 ノートに案を書きながら、何度もグチャグチャと線を引き、どれもこれも駄目だとため息を吐いた。
 早めに作業を終わらせて、読書にだけ没頭できる日々に戻りたいのだけれど、そう思えば思うほど、案の仕上がりは悪く、方向性も決まらなかった。
「おれねー、本はあんま読まないんだけどさー」
「……はい」
「この前、テレビで特攻隊員のドキュメントやってて……ボッロボロ泣いちゃった」
 大きい男がそんなことを言うので、鳴は不意をつかれてつい噴出してしまった。
 俊希がその反応を見て、少しばかり唇を尖らせた。
「あー、笑い事じゃねーんだぜぇ? 好きな女に気持ち伝えたくても伝えられなくって、愛用していた本の文字を丸で囲んで……繋げてみると、彼女の名前……だったとか、ホント、泣ける。おれ、この時代でよかったぁ……好きだって堂々と言えない時代なんて無理」
 本当にほっとしたような彼の声に、鳴は眉を緩ませる。
 眼鏡を掛け直し、そっとシャーペンを置いた。
「……展示って大変そう? もしそうだったら、おれ、来た時だけでも手伝うけど」
「別に」
「本当に?」
 俊希は鳴の様子を探るようにこちらを見つめ、ゆっくり立ち上がった。
 鳴の前にあるノートを覗き込み、ぷっと噴出す。
「……全然決まってないんじゃん。鳴ちゃん真面目そうだもんねー。ねぇねぇ、これも何かの縁だし、一緒に考えようか? 1人よりは、2人っていうし」
「結構です」
「……そう」
 きっぱりと言い切る鳴に、俊希は残念そうに表情を歪めた。



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