第五節  あなたを想う、籠の中の鳥


「…………、まだ、気持ち悪い…………」
 トワはコテンと枕に頭を落として、苦しそうに表情を歪めた。
 背中が熱を持ってきた。
 ミズキには平気だと言ったけれど、全然、平気なんかじゃなかった。
 はぁはぁ……と呼吸を繰り返して、なんとか寝付こうと目を閉じる。
 けれど、睡魔は一向に襲ってこない。
 痛みを紛らわすのにも、寂しさを紛らわすのにも、必要なのは、睡眠なのに。
「……みか、なぎ……」
 ふと、久しぶりの名を口にした。
 つ……と出る涙。
 ああ、心がこんなにも寂しいのは、あなたがいないからだ。
 トワはそう心の中で呟き、ぐぐぐっと体を起こす。
 視線の先にあるのは、無邪気な笑顔のミカナギと……はにかんだ表情のトワが写っている、ホログラフ。
 トワはゆらりと立ち上がって、コンソールに指先を置いた。
 何度かキーをいじって、Enterキーを最後に押すと、パパパッとトワの周囲に無数のホログラフが舞う。
 こんなにも多くの映像を……いつの間にか集めていた。
 入手は簡単だった。
 監視カメラの映像にアクセスして、引っ張ってくればいい。それだけ。
 トワにとって、それはいとも容易いことだった。
 けれど、そんなもので……埋まろうはずがない。
 心のこの虚無感が、埋まるはずがない。
 それでも、これは約束だから。
 自分と、ミカナギと……ツムギの、約束だから……。
「約束……。ね? ミカナギ……」
 そっとホログラフに触れようとして、すり抜ける。
 トワは悲しそうに目を細めて、その手で、長い髪をサラリとかきあげた。
 この瞬間が、自分にとって、一番切ない。
 外にも出られない。彼を待つことしか出来ない。
 それなのに、傍にいて欲しいと、願う心。
 約束と、願いは……相反していた。
 彼は、外へ行かなくてはいけなくて、自分は、ここを護らなくてはいけない。
 約束。
 そして、その約束が果たされた後、……自分達は……。
 トワは静かに唇を噛んで、腕に触れた。
 腕についたいくつかの傷。
 どんどん増えていく傷。
 きっと、彼に会う時、自分は……長袖の服しか着ることができない。
 こんな醜い自分は、見られたくない。
 ……見られたく、ない……。
「壊れちゃう……」
 搾り出すような声で、トワは泣いた。
「壊れちゃうの、このままじゃ……。誰か……。誰か、助けて……」
 いつも気丈なトワが、たった1人、部屋の中で泣く。
 ポタポタと涙がこぼれ、髪もサラリと真っ直ぐに落ちる。
 壊れるのは構わない。
 けれど、タゴルに壊されるのだけは、嫌だ。
 それならば、せめて、いっそ、あなたの手で。
 あなたの手の中で……。



第六節  一緒に旅しよう。


 天羽は不自然な吐き気を拭いきれずに、ただただ走り続けた。
 気持ち悪い。
 きもちわるい。
 キモチワルイ。
 見たくない。あんなの、見たくない。
 口に入れたくない。
 なぜそう思うのか、自分はそれを思い出せない。
 自分がどこから来たのか、思い出せない。
 覚えているのは、お姉ちゃんと、微かにお兄ちゃんのこと……そして、自分のこと。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!! お姉ちゃん!!!」
 狂ったように叫びながら、天羽は大通りを駆け抜けてゆく。
 走るのさえ鬱陶しい。
 飛びたい。
 翼。
 そう。
 自分は、天使の羽を持つ、天羽。
 翼で、カエリタイ。
 大好きなお姉ちゃんの元に帰りたい。
 飛びたい。空に舞い上がれば、虹に昇れる。
 そうすれば、あとは虹を伝っていけばいいだけ。
 虹の向こうに、お姉ちゃんはいるのだから。
「虹……」
 天羽はようやく思い至って、ゆっくりとスピードを落として、立ち止まった。
 そっと空を見上げる。
 強い光を発する太陽と、濁った雲。
 虹なんて、見えない。
「虹、ない。ないと、帰れないのに」
 無機質な声で、天羽は呟く。
 フラフラと体がふらつき、ぺたんとその場に座り込んでしまった。
「あ、あれ……? おかしいな。力、入らない……」
 天羽は動揺しているのに、声も言葉も棒読みで、グルグルと頭の中が回っているように感じた。
 なんだろう。
 おかしい。
 気がついたら……涙が、溢れ出した。
 そっか。怖いんだ。
 なんとなく、自分の心を察して、天羽はほっとした。
 怖いから、おかしいんだ。
 原因が分かれば、怖くなんてない……わけ、ないじゃないか。
 天羽は自分の細い体をぎゅっと抱き締めて、凍えるように泣いた。
「怖いよぉ……」
 怖いのは、闇が多すぎるから。
 他の人の心の中が、どうなってるかなんて知らないけれど、こんなに何も見えない世界じゃないはずだ。
 記憶がないって、そういうことだ。
 自分が築いてきたものが、見えない。
 自分の名前、わかる。
 自分が何者なのか。天使。
 自分が好きなことは何か? ……わからない。
 名前と素性と、お姉ちゃんの笑顔しかない。……あとは、お兄ちゃんの背中しかない。
 自分の心の中は、恐ろしいほどに空白が多すぎる。
 どうして? どうして、ミカナギは、あんなに朗らかなのだろう?
 記憶がないって、こういうことなのに。
「……お姉ちゃん……お兄ちゃん…………えっ、えぐっ……」
 大通りのど真ん中で、嗚咽を漏らす少女。
 さすがに気に掛かったのか、何人かの人が声を掛けてくれるけれど、天羽はフルフル……と首を横に振り続けた。
 来ないで。
 誰も来ないで。
 見えないものが増えちゃうから、誰も、来ないで……。
「天羽ちゃん、こんなところにいた。……どう、……したの?」
 優しい声が、天羽の隣でした。
 天羽は涙を拭いながら、横を見る。
 すると、座り込んでしまっている天羽の目線に合わせるようにしゃがみこんだカノウが、心配するように、こちらを見ていた。
「大丈夫? 転んだ?」
 その声に、天羽はフルフルと首を横に振った。
「そっか。起きたらいなかったから、心配したんだよ。ミカナギはいいけど、天羽ちゃんは、不案内だから」
「カンちゃん……」
「ん? はは、なんだか、昨日と逆だね。大丈夫? どこが痛いのかなぁ? それとも、何か悲しいのかな? あ、まさか、ミカナギに置いてけぼりくらった?」
 最後に口にした問いの時だけ、少し不機嫌そうに目を鋭くするカノウ。
 天羽は思わず、首を振ってすぐに答える。
「ううん。置いてきちゃったの」
「ん?」
「ミカちゃん、置いてきちゃったの。ミカちゃんは悪くないよ」
「……そうか。ミカナギのせいではないんだ?」
 優しい声に、コクリと頷く。
「じゃ、どうしたのかなぁ? あ、とりあえず、日陰いこっか。ここは、暑すぎるよ」
 にっこりと笑って立ち上がると、カノウは天羽に手を差し伸べ、ゆっくりと立ち上がらせる。
 ……なんだか、心がほっとした。
 お兄ちゃんの背中とは、全然違う小さな背中なのに、ほっとする。
 きゅっと、カノウのパーカーの裾を握って、天羽は後をついていく。
「お腹空かない? とりあえず、非常用に持ってるお菓子があるから、一緒に食べようね?」
「うん……」
「どうしたの? 朝だって、とっても元気だったのに」
「ちょっと……独りになったら、怖くなっちゃった」
「怖い?」
「昨日は、あれぇ? 思い出せない〜。とか、その程度だったんだけど、今日、独りになってみたら、……あれ? 知らないこと、こんなにあるの? って……。そしたら、涙が止まらなくなっちゃった……」
「なるほどね」
 天羽の言葉を聞いて、納得したようにカノウは頷いた。
 裏通りの日陰に入って、ピョコンと飛び上がって、樽に腰掛け、天羽の体を引き上げるカノウ。
 足をぶらぶらさせて、ニコリと笑いかけてくる。
「大丈夫。なんにも怖くないよ。ボクらいるし」
「……でも、すぐにお別れでしょお?」
「どうして?」
「だって、カンちゃんも、ミカちゃんも、行かなきゃいけない所が、あるんでしょお?」
「……うん。そうだけど、その前に、天羽ちゃんを帰してあげないとね」
「え?」
「元いた場所に、帰してあげないと」
 優しく目を細めて、カノウはそっと微笑んだ。
 そして、ゴソゴソとパーカーのポケットからお菓子袋を取り出して、天羽に手渡してくれた。
「お腹空くとね、余計なこと考えちゃうんだよね。天羽ちゃんは、お腹が減っちゃって、心まで空腹になっちゃったんだ。それだけだよ」
 カノウの手が、天羽の髪に触れた。
 ぎこちない手が、優しく頭を撫でてくる。
「い、痛くないかな? ボク、あんまり、頭撫でたことないから」
「だ、だいじょぶ」
「そぉ? なら、よかった」
 安心したようにそう言うと、そっと手が離れる。
 ちょっとだけ、その瞬間に寂しさを覚えた。
 もう1つお菓子袋を取り出して、パリッと開け、ムシャムシャと食べ始めるカノウ。
「カンちゃん、お菓子がご飯なの?」
「え? いや、この街、野菜が取れないってからさ、お菓子しか食べるものがないんだよ」
「お肉は?」
「ボク、肉は食べないんだ」
「……そっか……」
 どうしてだろう。
 それを聞いて、少しほっとしてしまった。
 ミカナギは、あんなに普通に食べているのに、自分は嫌だと感じてしまった。
 そんなことさえ、おかしいのかと、思っていたから。
「ミカちゃん、前からあんななの?」
「え?」
「記憶ないのに」
「ああ、ミカナギは単細胞なんだよ。深く考えないんだ。初めて会った時だって、『オレ、記憶喪失者みたいなんだ〜、ははは!』って軽くカミングアウトしたから」
「へぇぇ」
「ミカナギを基準に考えちゃいけないよ」
 感心する天羽を見て、カノウは小首を傾げてそう言うと、お茶目に笑ってみせた。
 またムシャムシャと食べ始めるカノウを見つめて、天羽は尋ねる。
「どうして、あたしをこんなに気に掛けてくれるの?」
「え?」
「だって、大幅な寄り道でしょお? 何の手がかりも、ないし」
「それは……」
 カノウは少しだけ顔を赤らめ、その後に優しい声で言う。
「ボク、関わっちゃった人は、放っておけないんだ」
 恥ずかしそうにそう言って、すっと自分の頭を指差す。
「インスピレーション」
「え?」
「この人は、困ってるんだ。そう思っちゃったが、最後」
「…………」
 天羽は大きな目を更に大きく見開いて、カノウを見つめた。
 カノウが照れるように、ニット帽越しに自分の頭を掻き、唇を尖らせて呟く。
「ミカナギには、余計なことをって、よく叱られるんだけど……。今回は、アイツ、何も言わなかった」
「え?」
「わかるからじゃないのかな? 不安なの。だからね、天羽ちゃんを元いた場所に帰してあげるっていうの、ボクらの総意だから」
「で、でも……」
「だから、しばらく、一緒に旅しようね? 世界を歩いてれば、見慣れた風景、あるかもしれないでしょ?」
「…………」
 力強く拳を握るカノウに、天羽はじんわりと目頭が熱くなる。
 そこまで、考えてくれていたなんて思わなかった。
 一緒にいたいなぁぁぁと思っているのは、自分だけなんて、思っていた。
 すごく、嬉しかった……。
「カンちゃん」
「ん?」
「あたしのおうち」
「うん」
「虹の、向こうにあるの」
「え?」
「だからね……虹を、探してほしいんだ」
「虹……。天羽ちゃんは、いつも、抽象的で、素敵なことを言うんだね」
「 ? 」
「天使の住む場所は、虹の彼方?」
「あ……」
「痛い子だなぁ……て正直思ったけど、まぁ、それもいいかもね。嘘ついてるようにも、思えないし」
「カンちゃん、ちょっと、あたし、むかついた」
「へ? あ、ごめんなさい。でも、これからは信じるから」
 天羽が怒ったように頬を膨らますと、カノウは困ったように眉をへの字にした後、そう言って笑った。
 だから、天羽もすぐに笑顔になる。
 いい人。
 落ちたのが、この人の上で良かったのかも知れない。
「おまいら〜……!」
「あ」
「ミカナギ」
 ひくついた声のするほうに目をやると、汗だくのミカナギがそこに立っていた。
「……ノヤロ、人がどれだけ駆けづり回ったと!! ふざけんな、チビ2人ーーー!!」
「ミカちゃん、ごめんねー。せっかくのご飯……」
 天羽はあまり反省したようには見えない口調でそう言って、両手を合わせた。
 けれど、ごめんという言葉を聞いて、すぐにミカナギは言葉を切り、唇を尖らせながらも、横を向いて、
「まぁ、無事だったから、許す」
 と、言った。
 心が、跳ねる。
 お兄ちゃん、と、跳ねる。
 でも、天羽は、お兄ちゃんを捜していたことを、思い出せはしなかった。




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