第四節  一肌脱がなくっちゃ。


 天羽が起きてすぐにため息を吐いた。
 一週間ほど気を遣いすぎて気疲れしてしまったのだ。
 カノウとは何も考えずに話すのがよかった。
 けれど、それができない。
 何を話していいのかが、急に分からなくなってしまった。
 自分の行動や言動のひとつひとつが、なんだか罪深いもののように思えてしまう。
 それだけでも疲れているのに、それに加えて……。
「お姉ちゃんに言いつけてやる……」
 ミカナギが命の危険を感じる理由。
 それは、対であるトワが、もしもそれを知った時に、どのような反応を示すのかを、彼が記憶はなくとも本能で分かっているからだ。
 アインスが宿のサービスの朝御飯を持って戻ってきた。
「ああ、おはようございます、天羽。少しは機嫌直りましたか?」
「アイちゃん……あ、あたしが拗ねてるみたいな言い方……」
「違うんですか?」
 アインスは天羽のベッドサイドに朝御飯を置くと、天羽のベッドに腰掛ける。
「拗ねてるんじゃないよ。ケイベツしてるんだよぉ」
「ミカナギは誤解だと叫んでいましたが?」
「誰だって言うでしょう? ああいう時は」
「そうですか? ミカナギが言うのなら、誤解なのだと思いますよ。性的接触について誤解なのか、感情面でのことが誤解なのかは分かりませんが」
 アインスは天羽が顔を真っ赤にするようなことをサラリと言ってのけて、そっと目を細める。
 それは子供をなだめる大人のような動きだった。
 天羽の頬を優しく撫でる。
「朝御飯を食べたら、ミカナギがイリスを連れてくると言っていました。きちんと聞いてあげてください」
「……また?」
「ここまでするのなら、誤解なのですよ。違いますか?」
「単にお姉ちゃんが怖いだけじゃ……」
「トワとミカナギの関係性についてはおれは全くわかりませんが、今のミカナギは記憶がないんです。そのような器用なことは出来ないと思いますが」
「あ……」
 天羽はそう言われて頭を抱える。
 記憶がないからとはいえと、自分だって言った。
 自分だって……人のこと言えない。
 気がついたら惚れられていた……。
 記憶がない時の自分なのか、記憶が戻った後の自分なのかは分からないが、カノウは自分を好きだと、言ってくれた。
 何よりも、今、ミカナギの心境を分かってあげなくてはいけなかったのは自分じゃないのか?
 その人の本質を知っているからこそ、気持ちを無下に出来ない。
 態度を……変えるなんて、出来ない。
「食べてください」
「あ、うん……」
 天羽はアインスに促されるままにパンにかぶりついた。
 アインスはその様子を見つめながら、静かに言う。
「おれだけでなく」
「ふぇ?」
「旅で、皆が多くのことを学べれば、それが一番の理想、です」
 アインスがそう言った後、ドアがコンコンと叩かれた。
 天羽は慌ててパンを口の中に押し込み、ミルクで流し込んだ。
 アインスがすぐに立ち上がって、ドアを開けると、そこにはイリスが立っていた。
「おはよう〜。えっと、アインス君」
 イリスは嬉しそうにアインスを見上げてそう言い、すぐに部屋の中へと入ってくる。
「おはようございます。なぜ、オレの名を?」
「ミカナギ君から聞いた♪ アタシ、知りたがりだから」
 ふんわりとした雰囲気を漂わせてにこりと笑うと、天羽がモグモグと口を動かしているのを見て、顔をぽっと赤らめた。
「おはよー、天羽ちゃん♪」
 天羽はまだ口の中のものが片付かなくて、ただコクコクと頷くだけ。
 それを見て、イリスが素早く天羽を抱き締めてきた。
 面食らったのは天羽のほうで、食べていたものが気管に入って、コンコンと咳をする。
「あ、ごめんごめん。あまりに可愛かったものだから……」
 天羽はなんとか呼吸を整えて、涙目になった目をそっと拭う。
 イリスが本当に幸せそうに天羽を見つめている。
「な、なんですか?」
「あまりに可愛くって……。もう、昨日からお姉さん、きゅんきゅん我慢してたの〜」
「ふぇ?」
 さすがの天羽さえ圧倒するイリス。
 アインスがドアの外を窺ってからパタンと閉じた。
「ミカナギは?」
「あ、後で来てって言ったの。アタシ、ミカナギ君がいると、ポカとか悪戯とか、しちゃうから」
 イリスは恥ずかしがるように少しばかり顔を赤らめて、そっとベッドに腰掛けた。
 なので、天羽も食べるのは後回しにして、静かにイリスを見つめた。
 綺麗な人だと、思う。
 銀でストレートの髪なんて、色こそ違えど、姉を思わせるような……美しさがある。
 イリスは少し考えるように目を細めていたが、ゆっくりと話し出した。
「ミカナギ君が誤解って言ったのは、本当です」
「…………」
「1年以上、彼はアタシの家で暮らしていたけど、何にもやましいことなんてなかった」
「暮らして……?」
「正確には、意識不明で眠っていた期間が約半年。目を覚まして、体を直すのにかかった期間が3ヶ月。色々わいわいやって過ごしたのが、3ヶ月……かな」
 イリスはにっこりと笑って、そう言うと、胸の前でそっと指を組む。
「いつもなら行かない森の奥に……彼は倒れていたの。見つけて、まだ息があって……アタシは、彼の傍に倒れていたバイクを使って、なんとか家まで運んだ」
「お兄ちゃんが、倒れてた?」
「ええ。……で、昨日言った通り、アタシの一目惚れ。すごく綺麗な顔してるんですもの……。この顔がどんな表情を作るんだろうって思ったら、いつの間にか、意識取り戻すまでお世話しちゃって」
 天羽はその言葉を聞いて、きゅぅと胸が痛くなった。
 この人は……本当にミカナギが好きなのだ。
 その気持ちが、痛いほど伝わってくる。
「意識を取り戻してみたらみたで……想像以上だったの。ずっと眠っているだけだった顔が、目を覚ました途端、クルクルと表情を変えるのよ? もう……感動しちゃって。大人のような表情をするかと思えば、突然子供みたいにふてくされたり、口元ヒクヒクさせたり……」
 イリスは思い出したのかおかしそうに笑ってそう言うと、少し間を置いた後に、また続ける。
「でも、……アタシが想いを伝える前に、彼は置き手紙だけ残して、出て行ってしまって」
「え?」
「心の中でもやもやしてるものがあるから、オレは旅に出ます。心配しないで大丈夫だから。って書いてあってね」
 天羽はそれを聞いて、何も言葉が出てこなかった。
 イリスはなんでもないように笑うと、ふぅ……と息を吐き出す。
「アタシの一方的な片想いなの。だから、ミカナギ君を責めるのはやめてね? 昨日のは、アタシの冗談と、言い間違いだから」
「…………。でも、惚れさせるのも、1つの責任じゃないのかなぁ?」
 天羽はここ数日ずっと考えていた言葉をすぐに漏らす。
 それを聞いて、イリスは不思議そうに首を傾げた。
「どうして? ミカナギ君はミカナギ君らしく振舞った。それだけのことでしょう? その人らしく生きることに、責任なんてないわ。好きになったことは悪いことじゃないし、アタシの想いに彼が一切応えてくれなくても、それは全然悪いことなんかじゃない」
「そう……かな?」
「確かに、傍目から見たら、ミカナギ君の気付かなさ加減は、悪く見えるかもしれないけれど……。彼はわざと気付かないフリしてるから」
「え?」
「だって、そうでしょう? 彼はとっても敏感な人で、気配り屋さんなの。そんな彼が気付いてないわけないじゃない」
 イリスはおかしそうに笑ってそう言う。
 天羽は、どうして笑えるのか、分からなかった。
 知っていながら気がつかないフリなんて、そんなのひどすぎる。
 少なくとも、自分は出来ない。
「気まずくなるの、嫌なのよ」
「……あ……」
 天羽は今のカノウとのギクシャク加減にすぐに思い至る。
 彼はもう言葉を発してしまったから、元には戻れないけれど……。
「アタシは、彼がそう思ってくれてるだけでも、嬉しく思うわ」
 イリスはそう言って、ふんわりと笑う。
 そして、天羽に確認するように尋ねてきた。
「誤解だって、分かってもらえたかしら?」
「……あ、は、はい……」
「よかった。じゃ、ミカナギ君にバトンタッチかなぁ? 相談があるんでしょう?」
「あ……」
 イリスは天羽の頭をポンポンと撫でて、すぐに立ち上がると、スタスタと外へと出て行ってしまった。
 天羽は、少しだけ考える。
 でも、自分がカノウに対して、どういう態度をすればいいのかは、わからなかった。



第五節  いなくても、そこにいる。


「はー、やっぱりねぇ……アイツ言ったの?」
 ミカナギが部屋の椅子の背もたれを両腿で挟むように腰掛けて、ため息混じりに呟いた。
 困ったようにカシカシと頭を掻く。
「天羽ちゃん、モテモテ〜」
 天羽の話を大人しく脇で聞いていたイリスも楽しそうにそんなことを言った。
「やっぱり……。ミカナギは凄いですね。おれは全くわかりませんでした」
 アインスも壁にもたれて、天羽の話を静かに聞きながら、感心したようにミカナギを誉める。
「さすがっつーか……こういう性分だから、面倒事には異様に敏感でね……」
 苦労性……。
「お兄ちゃん、あたし、どうすればいい?」
「どうすればって言われても……な」
 ミカナギは目を細めて、口元に手を持ってきて悩むように首を傾げる。
 カノウが何を求めて、天羽にそんなことを言ったのか、ミカナギにしてみると全くわからないのだ。
 自分だったら、絶対に口にしないだろう。
 言った後に残りそうな、今、2人が醸し出す雰囲気みたいなものが苦手だからだ。
 だから、わからない。
「カノウは……お前の答えも聞かずに、脱兎のごとく逃げ出した?」
「あ、あれは、あたしが……答えられなかったからで……」
「いやいや、でも言うんだったら、そこまで聞くのが義務でしょ? 漢なら。丸投げかよ……ダメだね、アイツ……」
 なんとなく、その言葉に天羽が眉をひそめた。
 なので、ミカナギも続けようと思っていた言葉を切る。
「ダメじゃないよ」
 天羽はそっと胸の前で拳を握る。
 誰かを想うように、静かに目を細めて、そっと呟く。
「カンちゃんの勇気には……とてもとても、感動した」
「…………」
「きっと、あたしには無理だから」
「天羽ちゃん……」
 事情も分からないのに、イリスはまるで自分のことのように天羽の言葉を受け止めている。
 天羽は言葉を探すように視線を動かして、なんとか口を開く。
「自分が動くことでしか、変えられないものってあって……。でも、動いたからって、必ず変わるとは限らない。むしろ、今より後退しちゃうかもしれないし、何も変わらないかもしれない……。それって、すごく恐いことだと思うんだ……」
「…………」
「お兄ちゃんからすれば、そんなの、簡単に割り切れることかもしれないけど……」
 天羽の言う、『強いミカナギ』なら気にも留めずにその境界線を踏み越える。
 彼女はそう言いたいらしい。
 ミカナギは目を細めて、その言葉を反芻する。
 そして、無意識のうちに、自分の中の誰かが言う。
 ……きっと、これが自分に記憶を渡してくる、張本人の言葉。
 それは違う。
 割り切ってるんじゃなく、仕方ないと、その言葉に任せているだけだ。
 浮かんだ言葉に、ミカナギは妙に納得する。
 ミカナギの右目が微かに脈打った。
 気付かれない程度に眉をひそめて、そっと目を閉じた。

 目蓋の裏に、誰かの背中。
 桜色の……長い髪。
 白いワンピースがよく似合う……背の高い少女。


『ミカナギ』


 そっと、彼女が振り返ろうと、踵を返す。
 その立ち居振る舞い、ひとつひとつが、空気を震わせる……そんな存在感の持ち主。

「感動したなら感動したって、素直に言ってしまえばいいのじゃない?」
 イリスの綺麗な声が、ミカナギを現実に引き戻す。

 記憶の中の彼女は、なかなかベールを脱がない。
 ……ただ、泣いて、いた……気がする。

「で、でも、答えになってないんじゃ」
「それはそうだけれど、ぎくしゃくが嫌なら感じたことを言うしかないと思うなぁ」
「…………」
 ミカナギはそっと立ち上がって、天羽のベッドまで行くと、ポンポンと天羽の頭を撫でた。
 天羽は意味が分からないように見上げてくる。
「オレから何か言ってもいいぞ」
「や、それはダメだよ。とっても失礼な行為のような気がする」
「ったく、何がアイツをそうさせたんだか……。絶対、アイツは言えないと思ってたのによ」
 腕を組んで困ったようにミカナギはため息を吐くしかない。
 イリスはしばし考え事をするように、宙を見つめていたが、突然思いついたように手を叩いた。
 それにつられて、全員、イリスに視線を送る。
「海にでも行かない? 楽しくなれば、少しは変わるかも♪」
 イリスは無邪気に言い放つ。
 確かに、せっかくの海の街だ。
 味わわないのも損な気がする。
 ミカナギは考え込むように唸る。
 すると、イリスは当たり前のようにミカナギの腕に掴まって立ち上がった。
 ミカナギはその反動にも微動だにせずに考える。
 元々、シリアス嫌いだし、ぱーっとやって、打開策を探すのも、1つの手か。
「行くか」
「やた♪」
 イリスは本当に嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。
 24、5のくせに、反応が天羽並の時がある。
 可愛らしいと言えば可愛らしいが、なんとも微妙なラインだ。
「水着はねー、アタシがいくつか作ったのがあるから。ぜひ試着してみて欲しいの〜」
 イリスはにっこにこ笑ってそう言い、タタタッと部屋の外へと出て行った。
 荷物を取りに行ったのだろう。
 イリスは……雰囲気を変えるのがとても上手い。
 ……それプラス、彼女の趣味への本能が走った結果とも、言えそうだが。
 ミカナギも隣でまだ寝ているカノウとニールセンを叩き起こすために、部屋の外へと出た。
 楽しむ時は楽しむ。
 これ、旅の鉄則。



 部屋に戻ったイリスは、鼻唄混じりで荷物から水着を取り出す。
 仕入れや勉強のほかにも、自分の作品を売り込むということもしたくて、今回は長旅を決意したのだ。
 だから、手持ちの服がたくさんある。
 ……ミカナギに着て欲しかった服も、多くある。
 イリスはそっと目を細めて、少し洒落たデザインの赤いシャツを取り出した。
 その拍子に、鞄の裏側に隠すように入れておいた白い物体がポトリと床に落ちた。
 イリスは髪を掻き上げて、すぐにそれを拾い上げる。
 それは……プラントで連絡用に使われている、小型トランシーバーだった。
 使い込まれた感のあるそのトランシーバーには、裏側にミカナギのイニシャルのMという字が、洒落た形で刻まれている。
 イリスがポチリとボタンを押すと、光が立ち上って、そこに字が浮かび上がる。
 『通信履歴:
       新着通信・・・トワ
       新着メール・・・トワ(ミカナギ、返事を寄越しなさい)
       新着通信・・・トワ
       新着通信・・・トワ
       新着メール・・・トワ(何かあった?)
       新着通信・・・ミズキ
       新着通信・・・ミズキ
       新着通信・・・ミズキ』
 以降、新着通信が何通も続き、ようやく、受信済という項目へと入る。
 そこにも、同じように、トワとミズキの名前。
 イリスはトワのメールを静かに眺めて、悲しそうに目を細める。
 そして、すぐに電源を切って、鞄の中へとしまった。
「……別に、今更、こんなの返したって……」
 静かに呟き、再び鼻唄に戻り、どんどん水着とシャツを取り出してゆく。
 せめて、別れるまでは……気分の良いままがいい。
 それくらい、許してくれたって、罰は当たらない……。
 イリスは心の中で、自分にそう言い聞かせた。




*** 第五章 第三節 第五章 第六節 ***
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