第九節  あなたが好きです。届かなくてもいいから、想わせて。


 イリスは虫取り網を持って、森の奥深くまで入っていく。
 普段なら絶対に入らないのだが、服の素材の上等なもの専用に用いられる蚕の糸を求めて、根性を出してここまできたのだ。
 暗い森の中、森の奥をライトで照らして、不安そうにイリスは目を細める。
「……怖いなぁ……。涼しいのはいいけど……」
 そんなことを呟いて、ゆっくりと前へと進んだ瞬間……。

 ぐにっ。

「ぐにっ?」
 と何かを踏み、イリスは恐る恐る足元を見た。
 足元で何かが動く。
「う……」
 発された声で、人だとわかり、イリスは慌てて飛びのく。
「ああああ、ごめんなさいごめんなさい! 踏むつもりなんてなかったんです、呪わないでぇぇぇ!!」
 涙混じりになりながらイリスはそう叫んで、自分が踏んだ『人』がいる辺りにライトを当てた。
 金の髪の青年が、突っ伏して倒れているのが映し出される。
 傍には苔蒸しながらも、主人の指示を待つようにふわふわ浮いているバイク。
 青年の服も、ところどころ、虫食いができ、カビが発生していた。
「い、行き倒れ……?」
 でも、生きている?
 ゆっくりとイリスは青年へと近づいてゆく。
「もしもし?」
 声を掛けるも、返事はなかった。
 なので、イリスはしゃがみこんで青年の体にそっと触れる。
 ドクンドクンと、驚くほど激しい鼓動がイリスの手に伝わる。
 けれど、青年は微動だにしない。
「……ちょっと、失礼しま〜す」
 イリスは語りかけるようにそう言って、青年の体を引っ繰り返した。
 服は相当くたびれているのに、青年の顔のひげはそれほど濃くなく、無精ひげ程度のものがチラチラと生えているだけだ。
 イリスは青年の顔を見た瞬間、一時停止した。
 そっと目を逸らして落ち着くように深呼吸。
 再び見つめる。
 よく整った顔立ち。綺麗に通った鼻筋。
 けれど、決して女顔でなく、男らしさの中の美しさがあった。
「どうしよ〜……もしかして、眠りの王子?」
 イリスはふざけるようにそう呟く。
 けれど、彼女のその言葉が似合うほど、その青年の顔は……イリスのど真ん中ストライクだった。
 何度かペチペチと青年の顔を叩いてみるが、青年は全く反応を見せない。
「さすがに、こんなところに置いていく訳に行かないし……。お医者様にも診せなくちゃ」
 イリスはすぐに立ち上がって、キョロキョロと周りを見回す。
 すぐにバイクに目をつけて、髪を掻き上げて歩いてゆく。
 適当に座席の苔だけ払い、青年の傍までバイクを押す。
 イリスは青年の体をなんとか引き起こし、そっと脇に肩を入れる。
「ふぁいとぉぉぉ」
 搾り出すような声で、青年の体をバイクの上にうつぶせで乗せる。
 イリスは青年の体をしっかりと安定させてから、ふぅぅと息を吐き出し、周囲にライトを当てた。
 彼の荷物らしきものは全てバイクの荷台に乗っているようだ。
「それじゃ……とりあえず、い……ん?」
 視界の隅で何かが光を発したので、イリスはそちらへと視線を動かす。
 チカ、チカと緑色の光が点滅している。
 すかさず拾い上げ、首を傾げる。
「なんだろ……?」
 白いプレートのようなものに、いくつかのボタンがついている。
 赤い洒落た文字で入っている『M』という文字につい見惚れた。
 しばしそうして見つめていたけれど、イリスにはなんだかわからなかったので、すぐにポケットに入れて、青年の乗ったバイクを押し始めた。


 イリスは『削除』という文字を投影している小型トランシーバーを見つめて、呆然としていた。
 青年の服を着替えさせ、医者にも診せて、バイクについていた苔も全て取り除いた後、部屋に戻ってきたら、突然けたたましい音でこれが鳴り出したのだ。
 イリスは思い出したようにポケットからそれを取り出し、どうすれば音が鳴り止むのかと、あたふたしていたら、自動応答に切り替わったのか、少女の澄んだ声が流れてきた。
 少女の声でわかったのは、青年の名がミカナギだということ。
 ……そして、2人の間にはなんらかの約束があり、青年と少女には何かがある、ということだった。
 少女の切ない声に、イリスは慌てて応答しようとしたのだが、適当にポチポチと押している間に、今の状態:削除となってしまったのだった。
「ど、どうしよ……。で、でも、これって、彼の手がかりだよね? 発信が出来れば……迎えに来てもらえるのかな?」
 イリスは発信ボタンらしきものを探して、またポチポチとボタンを押す。
 『リダイヤル:トワ』という文字が浮かび上がり、イリスはこれだと思い、再びボタンを押した……が、その後に出た文字で、ガクリと肩を落とした。
 『発信機能が故障しているか、エネルギーが足りません』
「うぅ……そんなぁ」
 困ったように声を発し、小型トランシーバーとにらめっこ。
 けれど、そうしていても何にもならないのはわかっているので、仕方なく、電源(唯一分かりやすいボタン)だけ落とした。
 イリスはベッドに倒れこみ、天井を仰ぎ見た。
 天涯孤独の身の上の自分の家に、他人がいる。
 しかも、すごく美形の青年。
「変なの、拾っちゃったなぁ……」
 口調とは裏腹に、イリスの表情は笑顔だった。


 彼が目を覚ましたのは、それから半年後のことだった。
 特に体のどこにも異常はないはずなのに、目を覚まさない状態。
 それがずっと続いていた。
 ある日、イリスが青年の服を取り替えようと部屋に入ると、窓際にぼーっと立ち尽くしている青年の背中があった。
 その背中にさえ、つい見惚れてしまった。
 なんというか、青年には、普通の人間にはないような、何か、があった。
 それはキラキラと輝いた光の粒子のようであり、彼特有の神秘さとも言えるもののように思う。
 青年が気配に気がついて、ゆっくりとこちらを向いた。
 イリスの心臓がドキリと跳ねる。
 なんて、綺麗な瞳の色だろう。
 宝石のように、澄んだ赤色だ。
 青年はぼーっとした目でイリスを捉え、次の瞬間、ニッカシ笑った。
 顔立ちとのギャップに、イリスはきょとんと目を丸くするしかない。
 けれど、青年は何も言ってはこなかった。
 とりあえず、笑うことだけは知っている。
 そんな風な……ことを訴えるかのような……。
「おはよう、ミカナギ君」
「ミカナギ?」
「……あなたの、名前よ。覚えてないの?」
 その言葉にミカナギはポリポリと頭を掻いた。
 困ったような表情。
 彼の顔は、そのように染まるのか。
 そんなことを、心で呟く。
「全然。……お前、誰?」
「アタシ? アタシはイリス。一応、あなたの命の恩人のつもり」
「……恩人?」
「あなた、行き倒れてたのよ。お姉さんが見つけなかったら、きっと、今頃白骨化してたんじゃないかなぁ?」
 イリスはふざけたように笑いながらそう言う。
 記憶がないならないで、あまり大げさにすると、かえって本人が気にするかもしれない。
 自分なりの配慮のつもりだった。
「行き倒れ……? オレが?」
「ええ」
「なわけあるか」
 ミカナギは生意気な口調でそう言った。
 イリスは思ってもいなかった返しに、口をぽかんと開ける。
 ミカナギは自分を指差し、目を細めて口を開いた。
「オレはなぁ、これでも、アウトドアの達人なんだよ」
「……えっと、記憶ないんじゃなかった?」
「ねーよ。だが、体が覚えてる。外の様子見てたら、わきわきと色々浮かんだ。だからして、オレはアウトドアの達人だ」
「は……はぁ……」
 やっぱり、変なの拾っちゃったかな。
 イリスは首を傾げながら、そんなミカナギの様子を見つめた。


 そんな大口を叩いておきながら、ミカナギは長い間臥せっていたのもあってか、体がまともに動く状態ではなかった。
 動けるとして、部屋の中だけ。
 少し歩いただけでも息が切れ、少し無茶をすれば、派手に転んで怪我をする。
 イリスはその度に、あまり上手ではない治療術を披露するのだった。
 毎回、治療が終わった後のミカナギは、涙目になって、患部をさすり、色々とごちゃごちゃと言う。
 自分も人のことは言えないが、彼は口が減らない。
 そして、一緒に過ごすうちにわかったのは、彼は、とても優しい。
 話をしていく内にひとつひとつ思い出していくかのように、段々と彼の言葉や行動には優しさの比重が増していった。
 ミカナギの笑顔は朗らかで暖かく。
 ふざけ口調で色々馬鹿を言うかと思えば、突然真面目な顔になって、自分のことのように、イリスの身に降りかかった災難について怒ってくれたこともあった。
 そんな彼があまりに愛しくて、イリスはまるで自分の子供にするかのように、べったりべたべたと愛情表現をした。
 想いまで口にする勇気がなかったのは、トワの存在があったから。
 ミカナギはそんなイリスの行動に、戸惑うように顔を赤らめるが、最終的にしょうがないなぁとでも言いたげな顔で受け入れてくれた。
 それを、優しさと言う人もあろうし、全くそうではないと言う人もあると思う。
 けれど……イリスにとっては、それは、優しさ、だった。
 彼の温度は、とても心地よい。
 彼の声は、耳に優しい。
 彼の眼差しは、いつでもどこかを見つめていて、イリスはその先を知りたいと思ってしまう。
 それを……許される位置。
 それは、彼の隣だけだ。
 たとえ、いつかいなくなるとしても、いなくなるまでは、その心地よさを失わずに済む。
 だから、ミカナギのそれは、イリスにとっては優しさなのだ。
 そのたとえ話は、ある日突然やってきた。
 たとえ……。そう、いなくなるまでは、失わずに済む心地よさ。
 それは、いとも容易く、泡となって消えていった。
 残されていたのは手紙と、彼が自分で稼いだ幾許かのお金だった。
『世話になりました。けれど、心の中で何かがもやついていて、このままではすっきり出来ないと思うので、オレは旅に出ます。イリスに受けたたくさんの恩は、こんなものでは全然返せないと思うけど、服飾の勉強の足しにしてください。……突然このような行動に出てしまい、とても申し訳なく思います。けれど、今出ないと、また消えてしまうのではないかと……。まるで、追いかけても追いかけても追いつけない虹を探しているかのような毎日なのです。……だから、オレは、今、少しばかり思い出した記憶を頼りに……旅に出ます。本当に、ありがとう。イリスのことは忘れません。あと、いくらか、お前が作ってくれた服を持って行きます。……赤は、大好きな色です。それでは』
 手紙を眺めて、ベッドに視線を落とす。
 追いかけようなんて、全然思わなかった。
 告白できなかったことも、なんとも思わなかった。
 まるで、こういう結末が、自分には見えていたかのようだった。
 彼が自分の傍にいてくれることを願った。だから、トランシーバーの存在を告げられなかった。
 自業自得だ。
 自分の恋は、はじめから不実だった。
 純粋だなどと思えなかった。
 それは、トワの存在を自分が知っていたからだろうか。
 横恋慕、のような感覚が、どこかにあったのかもしれない。
 自分の独占欲のために、優しい彼に、自分は自分の知りうる最大の情報を、伝えなかったのだ。
 正直、最低な行為だ。
 諦めにも似た感情で彼を見つめていたくせに、彼の手がかりさえ、教えてやらなかった。
 こんなに、感謝されることなど、自分は何一つしていない。
 ポタポタ……と涙がこぼれる。
「せめて、さよなら……くらい……」
 イリスは長い髪を掻き上げ、掻き上げた腕に顔を寄せて、静かに泣いた。




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