第五節 部屋で待ってる チアキは握っていたペンを指の上でクルリと回した。 この完全機械化された空間で、機械音痴の彼女だけは全ての書類を手書きで仕上げている。 何かおかしな電波でも出ているのか、よく自分が触った機械がいかれてしまうのである。 だから、できるだけ、大切な機械には触らないようにしていた。 ふぅ……とため息を吐いて、赤い縁の眼鏡を外す。 さすがに夜勤明けはきつい……。 そう言って、目頭を押さえた時だった。 誰かが廊下を駆けてくる足音がして、チアキはゆっくりとそちらに目をやる。 ドアがシューーーンと音を立てて開いて、オイルがそこかしこについたツナギ服を着た青年が入ってきた。 「先生! ちょっと、作業中に怪我しちゃっ……て……あ、今日、チアキちゃんなんですか?」 チアキを見た瞬間に困ったように、表情を引きつらせる。 チアキちゃん……。 い、一応、ドクターなんだけどな。 チアキは心の中でそんなことを呟きつつ、眼鏡を掛けるのを忘れたまま立ち上がって、椅子の脚に足を引っ掛けてビターンと転んでしまった。 それを見て、青年が恐る恐る歩み寄ってくる。 「だ、大丈夫、ですか?」 チアキは恥ずかしいやら痛いやらで、俯いたままゆっくり立ち上がる。 「だ、大丈夫です、いつものことですから……そ、それで、怪我は?」 笑顔を作って尋ねると、青年は少しばかり考えた後に、にへっと笑った。 「あ、大したことないんで、やっぱりいいです。そんじゃ」 眼鏡を掛けていなかったので、きちんとは見えなかったけれど、大したことがないようには……見えなかった。 けれど、青年は足早に医務室を出て行ってしまって、チアキは悲しげに目を細めた。 チアキはドジで機械音痴だが、医療技術なら、医療メンバーの中でも群を抜いている。 ただし、生来の欠点2つのせいで失敗している面ばかり見られすぎてしまって、なかなか受診してくれる人がいなかった。 「うぅん……」 仕方なく立ち上がって、デスクの上に置いておいた眼鏡をすぐに掛ける。 しかし、次の瞬間、再びドアが音を立てて開いて、チアキは慌てて振り返った。 そこにはハズキが笑顔で立っていて、脇には先程の青年がいた。 「作業中に怪我をしたそうだ。チアキ、治療してあげなさい」 年下のハズキが少しばかり偉そうな口調でそう言った。 「あ、お、おれは大丈夫ですから」 「まぁそう言わずに。チアキは薬の知識も、治療の技術も、誰にも負けないんだよ?」 ハズキはニコと笑ってそう言うと、患者用の椅子にポンと青年を腰掛けさせた。 「あ、え、えと……あの」 「落ち着いて。いつも通りやれば大丈夫」 「……はい」 ハズキが落ち着いた笑顔でそう言ってくれるので、チアキはすぅっと息を吸い込んで落ち着きを取り戻した。 目がいつになく真っ直ぐなものに変わる。 どうにも、顔見知りの治療しかやったことがないものだから、テンパッてしまうことが多いのだ。 それがいけなかったのだということは、いつも反省する要素の1つ……。 そっと椅子に掛けて、青年の手を取る。 やっぱり、傷口が深い。 大したことがないなんて……。もし、診せていなかったら化膿してしまうところだ。 「何か、納期が近い物の作業中ですか?」 「え? あ、はい、そうです」 「そうですか。じゃ、手が使えなくなるのは不便ですよね?」 「はい」 「抉れた傷でもないし、細胞が潰れてなければ、もしかしたらくっつけられるかな……」 チアキは澄んだ声でそう呟いて、傷をマジマジと見つめる。 青年がそんなチアキの冷静な声を聞いて驚いたように、目を丸くした。 「えっと、半日はさすがに動かせないと思うんですけど」 「あ、じゅ、十分です」 「そうですか? じゃ、縫います。痛くないですから、じっとしていてくださいね?」 チアキはにっこりと笑うと、消毒を念入りにしてから、針と糸を取り出して、すぐに青年のほうに向き直った。 青年は針が入った瞬間、痛そうに目を細めたけれど、それから縫っている間、全く痛みがないことが不思議なような顔をしていた。 チアキは手早く済ませて、ほっとしたように肩の力を抜いた。 「これで、一応包帯を巻いておきますね? 夕方くらいに抜糸に来てください。当番は替わっていますけど、言っておきますので」 チアキは包帯を器用に巻き、パチンと包帯留めをした。 青年は戸惑うように手を見つめていたが、チアキがすぐに付け加える。 「治っていなかったら、その先生に治してもらって下さい」 あまりにもサラリとやってしまうので、信用されにくいらしいのだ。 だから、青年の戸惑いもなんとなくわかる。 「あ、はい。でも、今のどうやったんですか?」 「え?」 「い、痛くなかったから」 「怪我のほうが痛いからですよ。あ、でも1針目、少し角度を間違えてしまったので、痛かったかもしれません、ごめんなさい」 「いえ。それじゃ、ありがとうございました」 青年はぺこりと頭を下げると、立ち上がってタタタッと部屋を出て行った。 チアキはふぅ……とため息を吐き、眼鏡を掛け直した。 「お疲れ様」 「あ、ハズキ様、ありがとうございました」 「俺は単に通りかかっただけだよ」 「俺……?」 「ん?」 「いえ、今更ですけど、ハズキ様には似合いませんね」 チアキはにっこりと笑ってそう言うと、うぅんと伸びをする。 ハズキは困ったように眉根を寄せて、視線を彷徨わせる。 「……何年前の話を掘り出すつもりだ?」 「ハーちゃんの頃かな?」 チアキは誰も医務室に入ってこないかを確認してから、内輪呼称でそう言った。 「…………」 「怒った?」 「別に。人間は成長するものだから、子供の頃があるのは当然だし」 「可愛かったのになぁ」 「どうせ、ねじくれたよ」 拗ねたようにハズキはそう言って、ふんと鼻を鳴らす。 けれど、その発言に対しては不思議そうにチアキは首を傾げるだけだった。 「何が? なんにも変わってないじゃない」 「チアキから見ればね」 「優しいままだわ。まぁ、負けず嫌いですぐむきになるところは直して欲しかったけど」 「むきになんて」 「さっきなった」 チアキはふふと笑って、ハズキを見上げる。 「そうじゃなかったら、わざわざ医務室まで患者さん連れ戻さないでしょう? ありがとう」 「単に、チアキの能力をわかっていない輩が多いのが腹立たしいだけさ」 「だから、ありがとう」 ハズキはチアキの言葉に恥ずかしそうに視線を逸らした。 少しの間沈黙が流れたけれど、しばらくしてから思い切ったように口を開く。 「ミーくんがこの前来た」 「え?」 「……珍しく、あなたのこと聞いてきたよ? 不干渉兄弟なのかとずっと心配してたのだけど」 「……兄さんが?」 「ええ。チアちゃんのところにはハズキ来るの? って」 「ふぅん」 「仲直りしないの?」 「別に、喧嘩はしてない」 「うぅん……そうなんだ」 チアキは困ったように唇を尖らせたが、ハズキは聞いても自分のことを話したがらない性質の人なので、仕方なく、そこで諦めた。 ハズキも少し不機嫌そうに目を細めているし。 「ところで、もうすぐ終わり?」 「え? うん。あと、30分くらいで交替かな」 「そう。じゃ、部屋で待ってる」 ハズキは小声でそれだけ言って、スタスタスタと部屋を出て行った。 チアキは流石に怪訝な表情でそれを見送っただけ。 「はぁ……また、眠れない子を寝かしつけるようなのかぁ……」 苦笑いしながらも、満更ではない様子のチアキ。 腰掛けていた椅子をクルリと回し、先程の作業員のカルテを急いで書き込み始めた。 |
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