第十二節  対


 トワはお風呂に浸かりながら、はぁぁ……とため息を吐いた。
 天羽が攫われたということで、こんなにのんきにしている場合ではないのかもしれないが、言わせて欲しい。
「私の、バカ……」
 そう呟いて、トワはブクブクブク……と、お湯の中へと顔を埋めてゆく。
 軽く結い上げてタオルに包まれた桜色の髪までお湯に浸かり、そこでトワは目を閉じる。
 目を覚ましてすぐそこに、ミカナギがいたのだ。
 それだけでも驚いたというのに、危うく腕の傷を見られるところだった……。
 ミカナギはトワが受けている実験について、詳細を知らない。
 それは記憶があろうとなかろうと、同じこと。
 だから、出来うる限り、この腕は見られてはいけない……。
 昔は誤魔化せても、今のこの大量の傷跡は、どうあっても誤魔化せやしないのだから。
 トワはそっと腕に触れ、唇を噛み締める。
 いくらなんでも、『見ないで』はない。
『嫌! 見ないで!!』
 あの瞬間が頭を掠め、トワはお湯の中で、一層眉根を寄せた。
 なぜ、自分はこうなのか。
 悪態だけならばいい。
 昔からその態度だったから、今更変えられない。
 けれど、先程の叫びは悪態とは違うだろう。
 記憶のないミカナギはどう思う?
 記憶があれば笑い飛ばすかもしれないところを、彼はどう思った?
 わからない。
 なぜなら、隠すことに必死で、ミカナギの表情を気にする余裕なんてなかったのだから。
 トワはようやくそこで息が苦しくなって、お風呂から勢いよくザバリと上がった。
 白い肌を水が伝う。
 とにかく、出るしかない。
 怖がっていたら、何も進まない。


「そんな……弟さんが天羽ちゃんを狙っていたって言うんですか?」
 カノウはミズキの話を聞いて、怪訝な顔でそう言った。
 ミズキも信じたくないと言いたげな目で頷いてみせる。
 そんな中、ミカナギだけが、心ここに在らずだった。
 部屋の外を探るように、ずっとドアを見つめている。
 ミズキの部屋はハウデルが掃除でもしたのか、3人が連れてこられた時には見事に綺麗な状態になっていた。
 ニールセンもソファに座ったまま、真面目な顔でミズキの発言を待っている。
 ハウデルがコーヒーを淹れて、全員の前にカップを置いていく。
 ミカナギの前に来ると、仰々しく頭を下げた。
 置かれたコーヒーにミカナギはすぐに手を伸ばし、ブラックのままコクリと飲む。
 特に表情も変えずに、また視線をドアへと戻した。
「気に掛かりますか?」
「へ?」
「トワ様のことです」
「ああ、そりゃ、ね」
 自分の持つ極少の記憶の中で、彼女の占める割合がどれだけ大きいか。
 カシカシと頭を掻いて苦笑する。
「何か、気に障ることしたか? オレは単に……綺麗な顔してるなって思っただけだったんだが」
「いえ、特には。……まぁ、トワ様はご気性の難しい方ですから。私たちに対しては、そうでもないのですが」
「……そう」
「照れただけさ、気にしなさんな、ミカナギ」
 ずっと真面目な顔でカノウたちに事情を説明していたミズキが、ミカナギの悩ましげな表情に対して、そう言葉を告げてきた。
 言った後に、どんどん砂糖をコーヒーに入れてゆくミズキ。
 照れ……?
 照れとはなんだか違った気がする。
 照れとか、そういう感情だったら、自分はある程度彼女の気持ちを見透かせると。
 記憶がないくせに思う自分がいるのだ。
「記憶の中と実際会うのは、やっぱ違うのかな」
 トランシーバーで会話を交わした時は、大丈夫だと思った。
 彼女が、自分の記憶を思い出すためのきっかけになってくれる……そう、確かにあの時の会話でも感じたのに。
 トワの『戻ってくれば全て大丈夫』という言葉を、信じたというのに。
 その時、シューーーンと部屋のドアが開いた。  水色のショールを肩から掛け、白いワンピースを身に纏ったトワがそこに立っていた。
「具合はどうだい? トワ」
「……大丈夫」
「全く、いつの間に外になんか……。君の体は外の空気には適合できないんだよ? そういうのをちゃんとわかってくれないと」
「だって……」
 ミカナギのことを見つめて、トワは困ったように目を細める。
「心配だったから……」
「あー、はいはい、ご馳走様」
 トワの言葉を聞いて、すぐにミズキはそう言った。
 トワの顔がまたもや赤く染まる。
 ハウデルがトワの分のコーヒーも淹れてきて、トワがどこに腰掛けるのかを窺っている。
 トワはそれに対しては、当然のようにミカナギの隣に座ってみせた。
 髪をサラリと掻き上げて、ハウデルが置いたコーヒーにミルクを入れる。
「あなたも、入れるでしょう?」
 当然のように、ミカナギのコーヒーにもミルクを注いでくる。
 なんというか、戸惑わざるを得ない。
 注ぎ終えて、すぐにトワがコーヒーに口をつける。
「……だ、大丈夫だった?」
 ミカナギは少し考えてから話を振った。
 点滴をされていたのを思い出したのだ。
 健康優良児のミカナギからすると、点滴、というのは重病の人がするもの、という認識がある。
「ええ、体の中に侵入した穢れというか、毒気というか……。それを抜くためのものだから」
「…………」
「心配してくれたの?」
「それは……まぁ、当然っつーか……」
 ミカナギはポリポリと頬を掻いて、なんともやりにくそうに視線を下に向けた。
 トワが困ったように表情を歪める。
「昼間に連絡くれた時は、何も変わってないのかなぁって思ったけど、やっぱり、まだやりづらい?」
「トワがあんなこと言うからじゃないの? 僕と話している時は、いつものミカナギだったよ」
「…………」
 トワはミズキにそう言われてバツが悪そうに眉をひそめる。
 そして、そっとショールを掛け直す。
 困っているのが分かって、ミカナギは慌てて口を開いた。
「別に。なんだかんだで気が強くて我儘な人なのは分かってたしぃ?」
 茶化すようにそう言ったが、簡単に見透かすようにトワはミカナギのことを見つめ、その後、スプーンを手に取って、コーヒーをかき混ぜた。
 どうにも、間があって噛みあわない感じが強い。
 それは仕方ないことなのだとは思うが、ミカナギの頭の中にあるやり取りは、いつでもテンポが良くて、自分が潤滑油になってのものだったことが分かっているから、このやりにくさは、そういうイメージがあることから来ているのだというのも、わかる。
「……今は、天羽とアインスを取り戻す話してたの?」
 トワは一口コーヒーを飲んでから、そう尋ねた。
 今は話を逸らしたほうがいい……。
 そういう判断だろうか。
「ああ。……ハズキがどうやら絡んでいるようだから……今は、そのハズキのことで話をしていたんだけど」
「何でもいいから取り返してしまいましょう? 天羽、きっと泣いてるわ」
 トワは心配そうにそう言う。
 ミズキが困ったように目を細める。
「そうは言っても、プラント内でドンパチやるわけにはいかないじゃないか」
「ハズキはそれが望みじゃないの? じゃなかったら、わざわざまだるっこしく誘拐なんてしないと思うんだけど。あの子、あなたに似て面倒くさがりだから」
「……なんだか、傷つく物言いだなぁ」
「ああ、じゃ、ツムギに似て」
 トワはすぐに言い添えて笑った。
 ミカナギはその横顔を見て、今まで分からなかった分を噛み締める。
 いつも目を覚ますと消えていた彼女の顔。
 それが、今取り戻している記憶の中に、綺麗なピースとして当てはまっていく。
「とりあえず、私はすぐにでも突撃すべきかと思うけどね」
「トワは、どうしてそんなに簡単に割り切れるんだい?」
 それは兄としての言葉。
 ミズキが躊躇するのは、そこにある。
 けれど、ミカナギは何故か感覚でトワが言わんとしていることが分かった気がした。
 トワがゆっくりと口を開く。
 ミカナギも、口を開く。
「どんなに仲が良かろうと、悪いことは悪い。そう諭すのが、ツムギにあの子を託された私に出来ることだから」
「どんなに仲が良かろうと、悪いことは悪い。そう諭すのが、ツムギにあの子を託された兎環さんに出来ることだから」
 驚いたように全員がミカナギを見た。
 トワも躊躇うように、次の言葉を飲み込む。
「あなた……」
「あ、悪い……急にふっと出てくるんだ……気にしないで」
 ミカナギは慌てて口を覆う。
 急に湧き出てくるもの。
 本当に気味が悪い。
 だけど、トワはそうでもないように、優しく笑ってみせた。
 そして、膝に置いていた手をきゅっと握り締めて、トワは首を傾げる。
「……まぁ、私はあの子に何もしてあげていなくて、きっと、あの子は私を嫌ってしまっているだろうけど」
 ゆっくりと顔を上げ、ミズキに言う。
「動くなら、早めにね? ハズキの目的が、もしもタゴルの実験に天羽を使うことだったとしたら、取り返しつかないわよ?」
 その言葉を聞いて、ミズキの顔色が変わった。
 そして、すぐに口を開く。
「明朝作戦会議を行う。……せめて、今晩だけは、ミカナギもカノウくんも、ゆっくり休んで。ニールセンさんには、資料室の鍵をお渡ししますので」
 ミズキは眼鏡を掛け直して、はぁぁ……とため息を吐いた。
 ハウデルが気遣うように声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫さ」
 ミズキがすぐに笑顔を返して、ようやく、その場は解散となって、用意してもらった部屋へと、それぞれ戻っていった。




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