第八章 音なんてない。それでも、優しい愛のうたなんだ、の章
第一節 ガルシオーネ二世の恋愛相談室
「ニールセンさん、持ってきたよ」
カノウは持ってきた本をニールセンのデスクへと置き、ふーーっと息を吐き出す。
広い資料室を右往左往して、山のような本を掻き集めてくるのはとてもしんどい。
「ああ、少年。遅かったぞ。小娘2は速かった」
「小娘2? ニールセンさんさぁ、そろそろ名前覚えてよ。それじゃ、誰だかわかんないよ」
カノウはニールセンのわざとやっているであろう所業について、ぶすっとした顔で指摘した。
小娘はたぶん天羽のことだと思う。
けれど、2は誰だかわからない。
「ふむ。そんなところに、脳の容量を使いたくない」
「嘘つけ。絶対、ニールセンさんは楽しんでるね。覚えてるのにわざと言わないんだ」
「いいではないか、少年よ。印象で伝わる。して、青年と美女2はどこに行った?」
「…………。美女2って、トワさんのこと?」
青年はミカナギのことだから、カノウは首を傾げながらも、聞き返す。
小娘2はわからないものの、なんとか、そちらはわかった。
美女は……イリスだろうか。
トワの本性を知らないカノウならば考えも及ばないだろうが、こんなところで”2”とつけられていることを知ったら、彼女がどんな反応をするのか、恐ろしくて書き記す気にもなれない。
「ストレートヘアの気丈そうな美女。小生、気丈は大好物。くはは」
「…………」
「美女の胸もよかったがな」
「…………」
カノウは先程デスクに置いた本のてっぺんに手を置いて、思い切りはぁぁと息を吐き出した。
大人なんて……。
正直、ミカナギも天羽もどこかに行ってしまった時、このプラントには、この人しか拠り所がいないのだと気付かされて、カノウは激しく絶望している。
時々頼りになるのだが、ほとんどは本を読んでいるか、こんな風にふざけた話しかしないのだ。
さすがに、この人に相談をするのは気が引ける。
……この人に背中を押されて、告白なんていうものをしてしまった者が言うことではないのかもしれないけれど。
「少年は小娘や青年のところには行かんのか? 小生は本を読むだけだからあまり相手になるまい」
「ミカナギはまだ意識が戻っていないそうだし、天羽ちゃんもミズキさんの部屋に行ってしまったので、ボクは暇なんです」
「ああ、眼鏡のところか」
「めが……?! あ、あの、仮にもここの利用を許可してくださった方にそういう呼び方は失礼じゃ……」
「じゃ、眼鏡様か?」
「…………。も、もういいです。……この人、絶対ボクの反応見て今ボケたな……」
ボソッとカノウは自分に聞こえるようにだけ呟き、もう一度ため息を吐いた。
ニールセンは一冊本を読み終えて、すぐに次の本を開く。
「ならば、寝ればよい。少年も疲れているであろう」
「でも……」
「寝ないから大きくならんのだ」
「?! ひ、人が気にしてることを……」
「その内、小娘にも抜かれたりしてなぁ」
「…………」
ニールセンが茶化すように言った言葉に、カノウはぐっと唇を噛み締めた。
そして、昼間助けに行った時に、カノウに気がつくことなく、ミズキに抱きついた天羽を思い出して俯く。
自分が相手にとってどれほどの価値なのか、それを察するのは、簡単すぎて……嫌になるのだ。
けれど、天羽がそういうことで周囲に気を配れるほどの人だったら、きっと自分は好きになっていなかったから、何も言えない。
「いいんです」
「む?」
「どうせ、はじめから、天羽ちゃんの眼中には、ボクはいないのだから」
カノウはいじけたようにそう言って、ふぃっと背を向け、資料室を出ようと歩き出した。
ニールセンがその背中に声を掛けてよこす。
「眼中にないなら、意識もせんだろう」
その言葉で、カノウの足が止まる。
ニールセンは本のページを捲る音をさせながら、静かに言う。
「少年よ。小生は諦めたがりの人間は苦手なのだ。そうせざるをえない事情も察することもできて、嫌いというわけではないが、少年には、そのような考え方はまだ理解して欲しくはないのぅ」
カノウはその言葉に拳を握り締める。
「小生は少年の真っ直ぐすぎて長考せずに行動を起こすところが好きなのだ。転べるだけ転べばいいではないか。膝の傷の1つや2つ、残ったところでなんだ? 大したことではない」
カノウはゆっくりと振り向く。
「……ボクは」
「まぁ、小生の年になると、転ぶよりも前に、走り出すのも嫌なのだがな」
その言葉にカノウはクスッと笑い声をこぼした。
ニールセンも本から目を上げ、カノウを見据えて、渋く笑ってみせた。
カノウの心がゆっくり晴れる。
分かっていたはずだ。
塞いでいたってどうしようもないことだと。
……そうだ、まずは、アインスの修理を手伝おう。
自分が出来ることから始めるのだ。
今、自分は目指していた場所に立っている。
この場所がどういうところで、そこで暮らす人たちは何を考えているのか。
それを知ることが、大切だ。
自分はどこまでも未熟だ。
だから、未熟なままで相手に嫉妬するのは間違い。
ゆっくりでいい。
今は自分のペースで、歩かなくちゃいけない……。
「ニールセンさんから見て、ボクの勝率はどのくらいですか?」
「む? 少年は成長株だからのぅ……色をつけて5割としておこうか」
「5割」
意外と高いことにカノウは驚いて思わず反芻してしまった。
ニールセンは静かに笑って付け足す。
「小娘は若い。その内飽きるかもしれんから、5割」
「天羽ちゃんはそんな子じゃないですよ……」
「いやいや、女という生き物はとかく移り気なものだ。わからんぞ、ふふふ」
ニールセンは楽しそうに笑ってそう言うと、再び本に視線を落とした。
カノウは込み上げてきた欠伸を必死に抑えて、今度こそ資料室を出た。
第二節 泣き虫ミカナギ
「兄さんの回復力は並じゃない。氷君の治療している時よりも傷を縫う時焦る……」
チアキは傷の治療と一通りの脳波などの検査を終えてから、ほっと一息吐いて、緑色のお茶を自分のカップに注いだ。
芳醇な香りが鼻をくすぐり、スゥゥ……と脳の緊張が融けていく。
「姉さんも飲む?」
「いい」
「そう? 体に悪いよ。待っている間も何も食べてなかったでしょう? せめてお茶くらい」
「……そのお茶苦手なのよ。ツムギは大好きだったようだけど」
「ああ、ツムギおじ様は苦い日本茶が好きでしたからねぇ……。大丈夫。これはちょっと甘めなのよ。美味しいの。私、これがあれば、三日寝なくても大丈夫」
赤い縁の眼鏡を掛け直してからニコリと笑ってみせる。
目の下には明らかに睡眠不足で出来たであろうクマがあり、トワも苦笑せざるを得ない。
それでも、チアキはなんでもないように明るく振舞う。
そんなチアキを見ていて思う。
この子は、子供の頃から何も変わっていない。
昔から和やかな空気を自然に作るのが上手かった。
チアキがお茶をカップに注いで、トワに手渡してきた。
日本茶をティーカップに注ぐというのもおかしなものだけれど、器がないのだから仕方がない。
「いつもはコーヒーで急場を凌ぐんだけど、さすがに今日は持たないので、奮発〜……」
受け取ったトワに対して、軽くウィンクすると、デスクに戻って椅子に勢いよく腰を落とした。
ギッシと椅子が音を立てる。
「眠いから今日はハーちゃんのことは考えないの。怒りすぎて疲れそう。あんな子知〜らない」
本当に眠いらしく、チアキはひとり陽気にそんなことを言いながら、デスクにゆっくりと突っ伏した。
「……ミカナギなら看てるから、寝てきていいわよ」
「ん〜ん……非番だったんだけど、兄さんの治療のために強引に当番代わっちゃったから、とりあえず、朝まではここにいなくちゃいけないの……。気にしないで……どうせ、患者さんなんて、そんなに、来な、い、から……」
チアキの言葉がゆっくりと小さくなっていき、そのまま寝息のようなものに変わった。
当番の最中に寝てしまうのはいいのだろうか。
さしものトワでもそんな言葉が浮かんだ。
すぐにチアキもガバリと起き上がって、頭をフルフルフルと振った。
「このまま寝たら眼鏡の跡がつく! ……じゃなくて、寝たら駄目よ、私!!」
言い聞かせるように叫んで、お茶をすする。
「あーもう、駄目。目の前がグラングランする……頑張れ、チアキ」
ポンポンと自分を自分で鼓舞するように叩き、楽しそうに笑った。
「……チアキ、あなた、何やってるの?」
「え? 一人遊び」
「…………」
トワは頭に包帯を巻いたミカナギをチラリと見てから立ち上がり、ゆっくりとチアキに歩み寄った。
そっとチアキの前髪を掻き上げて、熱を測るように額をピタリとくっつける。
「……あ、あの、姉さんこそ、何を?」
「熱でもあるんじゃないかって心配になって」
「……なんだか、とっても失礼なことを言われた気がする……」
「え?」
チアキの呟きにトワは不思議そうに目を見開く。
チアキが間近でトワの顔に見惚れるようにしているので、すぐにトワは額を離した。
「な、なに……?」
「え? あ、いえ、TG-Mって、本当に18歳以降の細胞分裂がなだらかなんだなぁと思って」
「…………」
「あ、ご、ごめんなさい。別に他意はなくて、医学者として、すごく興味深いというか……」
トワはサラリと長い髪を掻き上げて、すぐに笑む。
「分かってる」
「う、うん、ならよかった。でも、不思議なのは、細胞分裂は止まっているにも等しいくらいなのに、兄さんや氷君は傷の治りが恐ろしく速いってことかなぁ……結構興味深いんだけど、研究対象にしたいなんて、言い辛いし」
「……それはツムギや、タゴルに聞かないと分からないんじゃない? 設定したのは、彼らだから」
「しょ、所長、かぁ……壁が高いなぁ……。氷君にお願いしたほうが早そう……。あ、でも、設定するだけで、理論上のことはわかりませんって感じかな、もしかしたら……」
タゴルという名前が出た途端、チアキの表情がヒクヒクと引きつった。
トワはその表情を静かに見つめて、ゆっくりとミカナギのジャケットを脱いだ。
チアキがトワの腕の傷にすぐ視線を動かした。
数日前の点滴の傷もうっすらと残っている。
「う、うん……細胞の成長がほとんど止まっているなら、本当はこうなるはずなんだ……。い、いいよ、姉さん。もう上着着て」
トワはその言葉ですぐにジャケットを羽織り直した。
チアキが困ったように目を細めて、トワを見上げてくる。
「この前は聞かなかったけど……その傷、どうしたの?」
「ちょっと、ね」
「そう……。あまり、無理はしないように……ね」
「ええ。大丈夫よ」
トワはチアキの言葉にすぐにニコリと笑い返す。
昼間、久々に間近で見たタゴルの冷え切った眼差しを思い出して、ブルリと震えが来た。
あの何も映すことのない目が、苦手だった。
昔からだ。
生きているのに、ガラス玉のように澄んでいるだけで、あの深海の青は決して人を映し出さない。
……いや、1人だけ、映した人がいたのか。
ママ。
タゴルは、ママだけは……その目に映したのかもしれない。
「う……」
トワがそんなことを考えていると、ミカナギが苦しそうに声を漏らした。
すぐにトワはベッドに戻る。
チアキもゆっくりと歩いてきて、ミカナギの顔を覗き込んだ。
ミカナギは右目を押さえるようにして、苦しそうに寝返りを打った。
うなされている?
「ミカナ……」
トワがミカナギの体に手を掛けようとしたが、ミカナギはもう一度寝返りを打って、右目をかきむしるように強く押さえる。
「……ッ……違う!」
ミカナギが苦悶の表情で叫ぶ。
トワはその声にビクリと肩を震わせた。
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!」
気が狂ったように同じ言葉を叫び続ける。
けれど、一向に目を覚まそうとはしない。
「オレは……オレは……そんなこと、……そんなことを望んだんじゃない!!」
ミカナギの目から涙がほろりとこぼれる。
こぼれた涙に、トワの心が締め付けられるように切なくなった。
「オレは、ただ……護りたかっただけなんだ……! それだけ……だったんだ……。兎環……ごめん。ごめんごめんごめんごめん……」
涙をこぼしながら、ミカナギは息を切らせながらずっと不明瞭な言葉を言い続ける。
チアキはなんとなく察したようにふぃっと踵を返して、ベッドの周りのカーテンを閉め、デスクへと戻っていった。
トワがそっとミカナギの頭を抱き寄せる。
「大丈夫。私は大丈夫……だから、泣かないで、ミカナギ……」
トワは一瞬躊躇したけれど、そっとミカナギの頬にくちづけて、そのまま涙を拭うように一滴吸った。
ミカナギの体をゆっくりとベッドに戻し、ポンポンとリズムを刻むようにミカナギの胸を叩く。
そして、静かに歌声を紡ぎ出した。
ママがよく歌っていた子守唄。
……ミカナギが、一番好きだった歌だ……。
少しずつ、ミカナギの表情が穏やかになっていくのを見つめながら、トワは目を細めて、拳をきゅっと握り締めた。
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