第四節  姫の価値観。対の眼力。


「お姉ちゃ〜ん!!」
 天羽は目をウルウルさせて、医務室へと駆け込んだ。
 デスクでズズズ……とお茶をすすっていたチアキが、天羽の声ですぐにこちらに視線を寄越した。
「あら、天羽ちゃん。久しぶりねー」
 チアキはニコニコ笑ってそう言い、持っていたカップをデスクに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
 黒くて長い髪がサラリと動く。
 天羽は姉以外にもここに人がいることが当然ということを忘れていたため、慌てて、表情を元に戻そうと表情筋を動かした。
「う、うん、チアちゃん、元気だったぁ……?」
「ええ、健康維持は医学者として当然のことだから。あ、姉さんね? ちょっと待って」
「う、うん……」
「姉さーん、天羽ちゃんだよぉ?」
 チアキが緊張感の無い声でそう言うと、カーテンの閉じられた一画からすぐに返事がした。
「聞こえてる。おいで、天羽」
 優しいふんわりとした声に、天羽はほっと息が漏れた。
 大好きなお姉ちゃん。
 天羽はすぐにパタパタと音を立てて、カーテンをシャッと開けた。
 青い顔でミカナギがベッドの上で眠っており、トワがミカナギの胸に手を置いていた。
 天羽はその状況を見て、すぐに心が緊張した。
 トワのところに来れば、リラックスできると思ったのに。
 今まで見たことが無い、ミカナギの青い顔。
 それによって、天羽の心がブルリと震えた。
「久しぶりね。よく無事で……。本当によかった」
 トワは元気そうな天羽の様子を見て、優しく笑ってそう言った。
 けれど、天羽はミカナギから目を離さない。
「天羽?」
 ポロリと目から涙がこぼれる。
 こぼれたと同時に、一気に感情が込み上げてきて、涙が溢れ出す。
「天羽……どうしたの?」
「なんで、あたしなんかのためにみんな怪我するのぉ……ぇぐ……。アイちゃんだって、修理してもらわないと直らないし……。カンちゃんだって……ミズキだってぇ……」
「天羽……」
 トワはすぐに立ち上がって、天羽のほうへと歩いてこようとしたけれど、ミカナギの手がトワのワンピースをしっかりと掴んでいるために動けず、足が止まった。
「天羽、おいで」
 トワは優しい声でそう言って、仕方なさそうに椅子に座り直した。
 天羽はトワに言われるままに、ふらりとトワの元まで歩いてゆく。
 サーテルの街で、唄を歌った時のことを思い出してしまった。
 あの時天羽は、全ての悲しみを祈りに変えるように、歌声にした。
 自分に出来ることなんてそれしかなかったからだった。
 天羽はあの時、ずっと心の中で繰り返したのだ。
 ごめんなさい、を何度も繰り返した。
「ふぇっく…………もう、やだよぉ……誰かが死んだらやだぁ……」
 天羽はグシグシと涙を拭いながら、嗚咽混じりでそう言う。
 それを見て、トワがすぐにそっと抱き寄せてくれた。
「どうしたのぉ? 会ってすぐに泣くなんて、本当に天羽はしょうがないんだから」
 優しい声が耳元でする。
 天羽の心が少し軽くなる。
 暖かい……。
「だって……お兄ちゃんが死にそうな顔してるぅ……」
「ああ、これ? 大丈夫よ。ミカナギは殺しても死なないから」
「殺したら死んじゃうよぉ……」
「あ、天羽は慰めの言葉を台無しにするなぁ……」
「ぇぐ……」
 ポンポンと天羽の背中をあやすように叩きながら、すりすりと天羽の頬に頬ずりをするトワ。
「少なくとも、ミカナギの怪我は天羽のせいじゃないから」
「……そんなの嘘だぁ……」
「嘘じゃないよ。私がミカナギ撃っちゃったんだから……」
「え?」
「あ、ううん。……天羽が責任感じることじゃないから。みんな一致団結。あなたを助けたかっただけなんだから」
 天羽はグズグズグズグズと泣き続ける。
 トワも何度も何度も根気強く天羽の髪を撫で続ける。
「みんなやりたくてやったんだから、気にしなくていいの」
「あ、あたしはみんなが怪我するくらいならやってほしくなかったよぉ……」
 トワの手がその言葉で止まった。
 天羽の肩を掴んで、顔が見える位置まで下がらせ、真面目な顔で天羽を見据えてくる。
「そんなこと言ったら駄目よ」
「……お姉ちゃん……」
「物事には必ず義務が発生する。天羽が持たなくちゃいけない義務は、護られることを当然と思うこと」
「…………」
「それが、子供であるあなたの義務」
「…………。それが義務なんだったら、あたしは子供でなんていたくない……!」
 天羽がトワの言葉に対して強く叫んだが、トワは全く動じずに続けた。
「いつか、人は護られずに自分の足で立たなくちゃいけない時が来る」
「…………」
「護られることが当然という義務は、自覚することなくそこにあり、そして、知らぬ間に失われる。そして、ふと気が付くのよ。ああ、私はあの時、護られていたのだと」
「姉さん……」
 チアキがその言葉を聞いて、悲しそうに声を漏らした。
「そうね。……きっと、天羽も、もう……そんな時期にいるのね」
 トワは1人で納得するようにそう呟き、ニコリと天羽に向かって微笑みかけてきた。
「天羽、さっき言ったのは義務であり、子供ながらの特権なの。……でも、きっと、どんなに時が経って、あなたが大人になっても、私はあなたのためなら体を張るわ。……きっと、みんなもそうなの」
「…………」
「だから、言ってはいけないの。助けなくていいとか、そういうことは言ってはだめなのよ。天羽なら、分かっているでしょう?」
「うん……」
 分かっている。
 分かっているから……ずっと、堪えてきた……。
 あの、サーテルの街の悲劇からずっと……。
 ただ、トワの顔と、ミカナギの青い顔を見たら、つい込み上げてしまった。
 自分でも分かっている……。
 自分の感情がとても不安定で、支離滅裂的に飛び出してしまうものだということを。
「お姉ちゃんの顔見たら安心しちゃったのかな?」
 トワは見透かしたようにそう言って笑いかける。
 天羽もすぐに頷いて、涙をグシグシ拭った。
 そして、その時、ベッドでミカナギが声を発した。
「優しい声で、結構辛辣なこと叩き込むんだな……」
 ミカナギがそう呟いた後に苦笑した。
 トワが驚いてすぐにベッドに視線を動かす。
 ミカナギはずっとトワのスカートを掴んでいたことに気が付いたのか、恥ずかしそうに手を離して、グリグリと手首を回した。
 まだ、起き上がるのは無理なのか、ぼーっと天井を見つめているミカナギ。
 天羽もミカナギの顔を覗き込もうとベッドにぴょこんと飛び乗った。
 チアキもすぐに歩み寄ってきて、ミカナギの腕の脈を診る。
「……なんだよ、ハーレムじゃん。何? オレ、死んだ?」
 ミカナギが茶化すように全員の顔を見回しながらそう言った。
 チアキが冷静に脈を診て、ふわりと笑う。
「いいえ、兄さん。生きてますよ」
「……誰?」
「あ、え、あ、あの……チアキです。覚えていませんか?」
 ミカナギの言葉に、チアキがシュンとした表情でそう尋ねた。
 ミカナギは包帯の巻かれた頭に触れ、目を細める。
「悪い。オレ、記憶喪失なんだ……。ここにいた時の記憶がほとんど消えちまっててな」
「え? あ……そ、そうなんだ……」
 チアキはその事実に驚いたように目を見開き、カチャリと眼鏡を掛け直す。
「チアキな? 大丈夫。美人だから覚えた」
「あ、は、はい」
 ミカナギの言葉に、チアキはほのかに顔を赤らめてそう言った。
 ミカナギが視線を動かして、チョイチョイと手招きをして、天羽を呼ぶ。
「無事だったんだな、よかったよ」
「うん」
 天羽はジリジリとベッドの上を移動していって、ぶにっとミカナギの頬を両手で挟んだ。
「ぅお! こぉら、嬢ちゃん、オレはこれでもまだ瀕死なんだから……」
「瀕死なら口説かないよぉ」
「口説く?」
「今チアちゃん口説いたぁ」
「…………。記憶にねぇな。誉めただけだ」
「ふっ……記憶がなくても、兄さんのままだね……」
 チアキがおかしそうに笑い、天羽も先程まで泣いていたのが嘘のように、笑い声を上げる。
 本当に、この人はどこまでも突き抜けているなぁと、天羽は思う。
 だから、話していて、こんなにも楽なのかなぁと思う。
「天羽、いいんだよ。苦しい時は苦しいって言えば。それでいいんだからな」
 天羽の頬をそっと撫でて、ミカナギは優しく目を細めて笑った。
「……なんだか、私が悪者?」
 後ろで拗ねたようにトワが声を発した。
 ミカナギがその言葉に困ったように目を細め、すぐにニッカシと笑ってみせた。
「いいえ、姫。あなたにも、そのままの言葉として受け取っていただきたいですね」
 わざとらしく、仰々しい口調でミカナギがそう言う。
 トワがその言葉に、すっと目を伏せる。
 天羽はトワの様子を見て、すぐに感じ取る。
 ……そうか。
 今、トワが言った言葉は、トワが当然と思って背負っているものそのものなのだ。
 人の価値観は……時にその人の背負うものを明確に表す時がある。
 そうなのだとしたら、天羽の大好きなお姉ちゃんが、本当に背負っているものとは、一体なんだろう?
 そんな言葉が、ふと過ぎった。
 そして、感動を覚える。
 たとえ、記憶がなくとも、トワの心を静かに見透かした、ミカナギという人に。
「腹減ったな……」
 ミカナギがボソリと言葉を漏らした。
 そして、グーーーと腹の音が高らかに鳴る。
「あ、じゃ、ご飯持ってく……」
 トワが慌てたように口を開いたが、天羽がそれよりも早く、大きな声を上げた。
「ああ! そうだ。お姉ちゃん呼びに来たんだった!! ご飯の時間だよってぇぇ!!」
「ああ、そうだったんだ。じゃ、行っておいでよ、姉さん。兄さんは私が見てるし。兄さんの食事も手配しておくから」
「え、あ、う、うん……」
 トワが空気に押されるように頷いたのを見て、天羽はトワの手をしっかりと握り締めた。
「いこ☆」
「はいはい」
 トワも仕方なさそうに笑みを浮かべて、空いているほうの手で天羽の頭を撫でてくれた。
 それがくすぐったくて、天羽は少しばかり首を縮める。
 そして、一番のお願い事を思い出して、こそりとトワに耳打ちをした。
「お、お姉ちゃんの大好きなクリームシチューにしてもらったんだ……。あのね、後で相談が……」
「? わかったわ。なんだか知らないけど、ありがとう、天羽」
 トワが天羽の言葉にすぐに笑顔を返してくれる。
 2人が医務室を去る前、ミカナギがチアキに尋ねていた。
「なぁ、オレの飯は何? 病人食は勘弁な? 胃は元気だからさぁ」
 と。




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