『ごめんなさい、ごめんなさい……』 あの頃、まだ、自分は何も分かってなんていやしなかった。 血まみれの、ただの肉の塊になった赤ん坊を見て、12歳のミズキは顔面蒼白となった。 吐き気が込み上げ、その場に膝をついた。 けれど、込み上げてくるものはなかなか体外には出てくれなくて、体中に冷や汗が浮いた。 ミズキは右手で顔を覆い、こぼれてくる涙を隠すようにした。 どんなに目を閉じても、先程見た、肉の塊が網膜から離れなかった。 必死に頭を振る。 必死に言い聞かせる。 僕は悪くない僕は悪くない僕は悪くない……。 そんなのは間違っているのは分かっているけれど、そう言い聞かせなければ、自分を保てなんてしないと思ったからだ。 泣きながら、何度も何度も心の中で叫ぶ。 自分の体をキュッと抱き寄せて、俯く。 もう……限界だったのだ。 誰かが欲しかった。 傍にいてくれる誰かが……。 理解してくれなくともいい。 まだ子供の自分の傍にいて、自分はここにいるのだよと、存在を感じさせて欲しかったのだ。 たった……それだけのことだった……。 けれど、目の前の現実は……それだけで済みなどしなかった。 自己嫌悪、後悔……。 どんなに無かったことにしようとしたって、消えることなんてない罪。 ただ……、その時、救いだったのは…………天羽という名の天使が生まれるという奇跡が、起こってくれたことだと思う。 第七節 命の答え。 ミズキは青ざめた顔のまま、フラフラと廊下を歩いていた。 左腕のギプスにそっと触れ、フゥ……とため息を吐く。 ゆっくりと目を上げると、もうそこはミカナギの部屋の前だった。 ミズキは躊躇うように俯き、しばらく、その場に立ち尽くす。 『……じゃ、この子は私の妹ね。絶対に、不幸になんてしない。私の大事な妹。それでいいでしょう?』 突然生まれた天羽の存在を誤魔化すにも、それは理屈としてとても不十分だった。 けれど、トワはそう言い切って、天羽を大切に育ててくれた。 あの時、自分は独りじゃない、と、ようやく気がついた。 そこには、たくさんの愛が溢れていたはずなのに、分かりもしなかった。 幼さというのは、無知と愚かさでできている。 だから、今から見れば仕方のないことだと思うけれど、そのせいで、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。 『約束だ。……もう、命を軽んじるようなことは、しないでくれよ。オレだって、兎環だって……いるんだからさ』 ミカナギがそっとミズキの頭を撫でて、優しい表情でそう言った。 ミズキは静かに目を細める。 あの言葉が、自分の心にこびりついて離れなかった。 だから、かもしれない。 アインスの件は……その言葉と、自分の本心の間を、右往左往している……。 立ち尽くして、思考を動かしていると、突然ドアが開いて、白衣を脱いだチアキが眠そうに目をこすりながら出てきた。 ノースリーブのブラウスが相当くたびれており、一昨日から部屋に戻っていないのは容易に想像できた。 ドアがシュンと音を立てて閉まり、チアキが心配そうに小首を傾げた。 「ミーくん……」 「や、やぁ、チアちゃん」 ミズキはできるだけいつも通りに笑顔を作った。 けれど、チアキはそれを見透かすように目を細め、カチャリと眼鏡を掛け直す仕種をした。 「……全く、似た者兄弟なんだから……」 「え……?」 「いいえ、なんでも。……姉さんなら中にいますよ」 道を譲るように動いてそう言うと、チアキはニコリと笑った。 「私はこれからもう1人の頑固者のお守りをしないといけないのでこれで」 「ハズキ?」 「……私しか、いないんです」 「…………」 チアキは静かにそう言い、その後にすぐに頭を下げてきた。 「ハーちゃんを憎まないであげて。彼も苦しんでるの。だからって、それで全て帳消しなんて勿論ないだろうけど、……私が叱っておくから……許さなくてもいいけど、憎まないであげて。……兄弟なのに、悲しすぎるもの」 チアキの声はとても澄んでおり、ミズキの耳に優しく響いた。 顔を上げる際にカチャリと眼鏡の位置を直し、そのまま、タタタッと駆けて、チアキは去っていった。 ミズキは静かに目を伏せ、決意したように視線を上げた。 ドアの前に立ち、操作盤に触れる。 「トワ、来たよ」 すぐに操作盤からトワの声。 「今開ける。入って。……あ、ミカナギ寝てるから静かにね」 その言葉の後、シュゥゥゥ……ンとゆっくりドアが開いた。 ミズキがそっと部屋に入ると、ミカナギのベッドに腰掛けているトワがすぐに視界に入ってきた。 ミカナギは頭に包帯を巻いた状態で眠っており、トワが愛しそうに彼の頭を撫ぜている。 「……ミカナギの調子は?」 「明日には完全復活、かな。もうほとんど治っているみたいだから。さっき抜糸してたのよ」 「…………そう」 「ええ」 「よかったね」 「ええ……これで、以前通りの生活が戻ってくるんだわ」 トワは優しい声でそう言って、ゆっくりとミズキに視線を向けてきた。 ミズキは立ち尽くすようにその場に立っていたが、その視線で少し動揺したように床に視線を落とした。 トワの表情があまりに綺麗だったからかもしれない。 混沌の中にいる、今の自分が会ってはいけない人のような気がした。 「まず、メモリディスク返すわ」 「え……?」 トワの言葉に驚いたようにミズキは目を見開く。 先程、コルトを引っ叩いてしまったことが頭を掠め、唇を噛み締める。 確かに、コルトの言う通り、今の自分はおかしいのかもしれない。 いつもならば、絶対にコルトに対して疑いの目を向けるなんてことはしない。 それ以上に、いつもの自分ならば……人のことを疑うなんて……しないのだ。 トワは長い髪をサラリと掻き上げ、枕元に置いておいたケースを持って立ち上がった。 ペタペタと素足で歩み寄ってきて、ミズキに手渡してくる。 「ごめんなさいね。ミカナギの画像が欲しくて、天羽に頼んで持ってきてもらってたの。……あなたなら、もうバックアップを取っているかと思って」 「あ……う、うん。……そうだ、ね。そう、思うよね……。ぜ、全部、僕が悪いんだ……それなのに……」 「まぁ、叩いてしまったものはしょうがないけどね。でも、個人的には減点かなぁ。女の子叩いちゃ駄目よねー」 「ああ……」 ミズキは悲しそうに目を細めて反省するように俯いた。 すると、トワがフゥ……とため息を吐いて、すぐにミズキの頬に触れてきた。 ミズキはあまりに急なことでビクリと体を震わせ、後ろへと下がった。 トワがそれを不思議そうな目で見ている。 「あ、す、すまない……驚いただけ、さ……」 「調子狂うなぁ……ミズキらしくないわよ。もっと飄々としてらっしゃい」 「…………」 「パニックに陥る余裕もないみたいね」 トワはおかしそうに笑って踵を返し、ベッドに歩み寄ってミカナギの顔を覗き込んだ。 ミカナギは起きることもなく、静かに目を閉じているだけ。 トワはその様子を見てそっと目を細めて懐かしそうに声を漏らした。 「あなたが生まれた時も、ミカナギは頭を怪我して、眠っていたのよ」 「え……?」 「なんとなく、思い出しちゃった。だから、何って言われると困るのだけど……、目を覚まして、私とこの人の間にあなたがいた時は、とても和んだのを覚えているわ」 「……そうだったんだ……」 「私もミカナギも、子供の出来にくかった2人のために造られた。……だから、ママのお腹にあなたがいると聞いた時、私は真っ先に不機嫌になったの」 「…………」 「これで、必要なくなるのね……って、思ったのね。私はひねくれてるから、そういう考えが一番最初に来た」 「うん……」 「でも、ミカナギは違ってた。凄く喜んでたわ。ママが嬉しそうにしてたからか、それとも、私たちが気にすることをママが気にしているのを敏感に察したから笑ったのかは分からないけれど」 トワはそっとベッドに腰掛け、ミカナギの頬にふわりと触れた。 「この人がいなかったら、要らなくなるんだって思ったままだったかもしれない」 「…………」 「私はね」 「え?」 「どっちでもいいと思う」 「……?」 「アインス。直しても、直さなくても。どっちでもいいと思うわ」 ふと顔を上げて、しっかりとミズキを見据えてくる。 「トワ……」 「命が消えるのは辛いもの。たとえ、ここで直せたとしても、きっと、また同じ痛みがいつかやってくる」 「……そう、だね」 「死は抗えないものよ。いつかは来る。それは今かもしれないし、明日かもしれない。ただ、まだ来ないってだけのものでしょう?」 トワは静かにそう言い、きゅっと唇を噛んだ。 「……でもね、後悔はない?」 「え?」 「ミズキはそれでいいの?」 「…………」 「創り手にはいつだって選択肢が用意されている。生かすも殺すも、それはあなた次第なのよ。ツムギやママのように……救えないものじゃない。アインスは、あなたの意志さえあれば、また生きることが出来る」 「……でも」 「でも、ミズキがそれは違うって言うのなら、きっとそれは違うのね」 「…………。……わからないんだ……」 ミズキは苦しそうに頭を抑え、そう言葉を漏らした。 トワはその言葉を耳にして、ゆっくりと立ち上がる。 「僕は……只の人間さ……。こんな判断は、あまりに大きすぎて……何が正しいかなんて、わからない……」 ミズキは弱音を吐き出すようにそう言って、グッと奥歯を噛み締めた。 トワが静かに目を細めて、こちらへと歩み寄ってくる。 「正しさなんて、どこにもないわ」 「え?」 「私やミカナギが生まれることは、人類としては罪だった。生み出すことは罪。存在が罪。……それでも、では、それを殺していいかと言えば、それは殺そうとするほうが罪……。ね? 絶対的な正しさの定義は本当はどこにもないのよ」 トワは長い睫をそっと伏せて、思いを馳せるように宙を見上げた。 ミズキはその美しさにゴクリと唾を飲み込む。 本当に、この人は綺麗過ぎるのだ。 勝手気ままに生きているから、そう見えるのか。奔放に生きているように見えて、実は周囲に気を遣っているから、こんなにも綺麗に見えるのかは分からないけれど。 「必要なのは、正しいか正しくないかではなく、自分の心が何を欲しているか、ではない?」 ふわりとミズキの体を抱き寄せ、トワは姉のように優しくミズキの髪を撫でた。 甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「あなたはとても我儘なくせに、変なところが聞き分けがいいから……。みんなは心で選び出すのに、こんな時に限って、どうして理屈を持ち出しちゃうかなぁ」 「だって……」 「うん?」 「……アインスに言ったんだ。一度だけのものだから、大切にしてくれって……」 ほろりと涙が零れる。 そう。自分で決めて、自分で言って……、そして、アインスはそれを受け入れた。 ミズキの意志を伝えた時も、プログラムが消失する瞬間も、彼は当たり前のようにそれを受け入れていた。 それなのに、自分の心の均衡が保てないからと言って、意見を覆すことは、1つの命を弄んでいることと一緒じゃないのか。 そう……思ってしまうんだ。 言い訳はしたくない。 アインスが大好きだからこそ、中途半端は嫌だ。 そう思えば思うほど、答えは自分の心から遠のいてゆく。 ミズキは膝から崩れ落ち、ずっと堪えていた感情を吐き出すように、ボロボロと涙を溢れさせた。 それをトワが優しく抱き締める。 なので、ミズキはまるで子供のようにトワの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。 思えば、こんな風に甘えたのは何年ぶりだろうか。 ハズキが生まれてからずっと……こんなことはなかった気がする。 「必要なんでしょう?」 「……え?」 「アインスが必要なんでしょう?」 「…………」 「必要だから、直したよ。それだけでいいじゃない」 「トワ……」 トワの手が幼子をあやすように動いた。 ミズキはグシリと涙を拭って、静かに考える。 いつかの、アインスとの会話が頭を過ぎった。 『人型ロボは、人類のロマンなのさ』 『ろまん』 『ロマンは素晴らしいよ。僕は、そのロマンのためなら、この命差し出してもいいね』 『それは駄目です』 『あはは、例えて言うならの話さ』 アインスはとても不思議なロボットだった。 まるで、弟が出来たかのように、彼が自分の許に来てからの2年間はとても楽しいものだった。 ハズキがもしもタゴルの元に行かなかったら、こんなやり取りを普通にすることができたのだろうかと、そんなことを考えたこともあった。 ミズキはぐっと込み上げてくるものを飲み込む。 トワから体を離し、涙を拭った。 「ミズキ……?」 「うん、大丈夫」 「え?」 「また、忙しくなるよ」 「……ふふ、そう」 「ああ」 ミズキのすっきりしたような顔を見て、すぐに察したようにトワは笑った。 静かに立ち上がり、気合を入れるように息を吐き出す。 トワは長い髪を掻き上げて、ゆっくりと立ち上がった。 ミズキはいつものようにニッコリと笑い、トワに言う。 「トワも、好きなようにミカナギといちゃつくといいよ」 「な……」 「でも、お願いだから、僕の前ではやめてね。体に毒だから」 「ミズキ……!」 「おぉ、こわ……。駄目だよ、静かにしないと。ミカナギが起きちゃうじゃないか」 ミズキはからかうようにそう言って、眉を吊り上げたトワから逃げるように部屋を出た。 トワがそんなミズキの背中をキッと見据えているのが分かったけれど、ミズキは振り返りもせずに、そのまま廊下を駆け出した。 |
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