第十節  2人の約束


 透明なドームを通して見える虹はとても綺麗だった。
 その虹は、日の光の反射によって起こるプリズムといった、そういうものの存在ではなく、何かの物質が固まって構成されているような、そんなものに見えた。
 ミカナギは包帯の取れた頭を少しだけ掻き、目を細めてそれを見上げる。
 トワがヒタヒタと足音をさせて、こちらへと歩み寄ってきて、一定の距離を置いて止まった。
「何か、思い出す?」
「ん……いや。すまん」
 トワに視線を動かしてミカナギは答える。
 トワは寂しそうに目を細めて、静かに虹を見上げた。
 虹の光が彼女を照らす。
 白のワンピースが虹の色に染まった。
「……頭は、痛まない?」
「右目が……少し痛む」
「……そう」
 ミカナギは静かに右瞼に手を当て、ふー……と息を吐いた。
 眠り続けている間、夢を見ていた気がする。
 けれど、その夢の内容は思い出せなかった。
 右目が痛むことから、記憶の断片だったと思うのだが、思い出そうとすると、相変わらず右目が疼き、想起することを阻害されてしまう。
「オレが眠ってる間、ちゃんと、寝た?」
 少しの間が空いてから、ミカナギはようやく瞼から手を離し、トワにそう問いかけた。
 トワは虹を見つめたまま、静かに答えてくる。
「ええ」
「嘘でしょ?」
 ミカナギはすぐに茶化すような声で問い返した。
 すると、トワがツンと澄ます。
「……そんなことないわ。ちゃんと、寝た」
「……本当かなぁ」
「寝たわよ。なんで好き好んで起きてなくちゃいけないのよ、あなたなんかのために」
 ミカナギはそう言うトワの横顔をずっと見つめていたが、トワがその視線に気がついたのか、ふぃっと首だけそっぽを向いてしまった。
 その様子に、ミカナギの口が緩む。
「別にオレのためとは言ってねーよ。ただ、寝たかどうか聞いただけじゃん」
「…………」
「オレが起きると、必ず、アンタがいたから、少し心配になって、聞いただけですよー?」
「ああ、そうね。た・ま・た・ま、私がいる時にあなたは目を覚ましたようでしたね」
「そっか、たまたまか。ふーん……」
 すると、ミカナギは急に残念そうな声でそう言い、ゆっくり虹に視線を動かした。
 その声に敏感に反応するように、そっぽを向いていたトワがそろりとこちらに視線を寄越した。
 ミカナギはすぐに視線をトワに向けて笑いかける。
 見透かされているのがつまらないように、トワはミカナギの表情を見て、少しばかり不機嫌そうに目を細めた。
「あなた、本当に記憶ないの?」
「兎環のことならある程度感覚で分かるみたいだよ。っても、茶化してばっかのオレじゃ、アンタのイメージにはそぐわないかもしれないけどな」
「…………そんなことないわ」
 ミカナギはトワの反応が珍しく素直なことに驚いて、唇を尖らせた。
 トワはその続きは何も言わずに、そろりそろりとミカナギの隣へと歩み寄ってきて、ミカナギの手を取った。
 きゅっと握られる手。
 彼女の手は、とても細かった。
「兎環……?」
 ミカナギは握り返せずにただ不思議そうな声で問いかける。
「……どこにも行かないで」
「?」
「記憶がなくても、なんでもいいから、……もう、どこにも行かないでね?」
 その声の質こそ、彼女の本質であるかのようだった。
 まるで、寂しがりの幼子のように、その時の声だけは甘えるような柔らかさを感じた。
 ミカナギは少しだけ迷うようにトワから視線を逸らしたが、もう一度視線を戻すと、トワの手をきゅっと握り返して、
「ああ、わかった」
 と、言葉を返した。
 なぜ、その時迷ったのかは良く分からない。
「虹に登った時のこと、覚えてる?」
 ミカナギはトワの手がとくとくと脈打っているのを感じながら、そう問いかけた。
 彼女の脈は困ったことに、自分と同じテンポで打たれていて、どこか照れくささを覚える。
「覚えてるわ……あなたが今回みたいに頭を怪我した」
「……別に、頑丈だからいくら怪我したっていいけどね」
 トワが気にしているのが分かって、ミカナギはなんでもないようにそう付け足す。
「月を見たいって、アンタが言ってさ。それで、虹に登ったんだったよな?」
「ええ。……それは覚えてるのね」
「月は銀色で、オレたちの視力だと、クレーターまでくっきり見えた」
「……あなたが、私みたいって言った時は何言ってんだろうって思った」
「だって、綺麗じゃん。あの言葉には、今のオレでも納得するよ」
「……綺麗、ね」
「アンタは自意識過剰で高飛車で」
「な」
「でも、自分の本当の価値には気がついていない無自覚さがある」
「…………」
「ふわふわと奔放で、その生き方を護ってやりたいと思ったんだろうな。だから、月みたいだって言ったんだ」
「……恥ずかしくないの?」
「別に。なぁ、月見たいか?」
「と、唐突ね……」
「見たい?」
「そりゃぁ……見られるものならまた見たいけれど」
「うん」
「でも、無理よ……」
「どうして?」
「外に出たら、また私は倒れるもの」
「…………そっか」
「翼だって……もう、私の思いのままには動かない……」
「え?」
「私は……もう、飛べない」
 トワは悲しそうに目を細めてそう言うと、ミカナギから視線を外して俯いた。
 ミカナギはトワの手から力が抜けるのを感じて、代わりに握る力を強めた。
「翼なんてなくたって、虹の上に行く手段はいくつだってある」
「え?」
「アンタが外の空気を吸収しないようにするためのものだって、あるだろ、きっと」
「……本気で言ってるの……?」
「ああ」
「なんだか、おかしな感じ」
「ん?」
 トワはそう言いながらもふわりと微笑んだ。
 ミカナギは虹の光を受けて輝くトワの横顔を見つめる。
 トワがそっと顔を上げて、こちらを見る。
「そんな言葉、以前のあなただったらきっと言わなかったわ」
「どうして?」
「…………。さぁ、どうしてだろうね」
 トワは笑顔のまま首を傾げ、少しばかり目を細めた。
 ミカナギにはトワの言わんとしていることがよく分からなかった。
 ただ、トワはきゅっと唇を噛み締めて、虹に再び視線を戻して、それからは何も言葉を口にしなかった。
 ミカナギは手を繋いだ状態のまま、彼女の横顔を見つめる。
「約束しようか?」
「…………?」
「あの虹に、また登るんだよ」
「ミカナギ……」
「約束だ。な?」
「……ええ、約束ね」
 トワはその言葉だけで十分とでも言うように笑った。




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