第九章  想い交錯、その手に君は何を抱くか、の章

第一節  慕いし君


「ハズキ様、朝です」
「……ん」
 まどろみの中で澄んだ声がして、ハズキはぼんやりと目を開けた。
 ツヴァイが無表情ながらも、机に突っ伏しているハズキの顔を覗き込むような体勢でこちらを見ていた。
「おはようございます」
「……おはよう……」
 ぼーっとする頭を軽く振って、ゆっくりと起き上がる。
 それに合わせるようにツヴァイも上体を起こして、ピンと背筋を伸ばした状態で立つ。
「今日は午前から会議が入っています」
「……ああ……そうだった……」
 いつもしゃんとしているハズキも朝だけは苦手だった。
 頬に寝跡がついているのが感覚で分かり、軽くさする。
「……調子はどうだい?」
「は?」
「…………」
 ツヴァイがハズキの問いを理解できないように逡巡している。
 なので、ハズキはすっと視線を逸らして立ち上がった。
 着ていた白衣を脱ぎ、シャツのボタンを外す。
 とりあえず、シャワーを浴びて頭をすっきりさせなくては駄目だ。
 ツヴァイの横をすり抜けて、脱いだシャツを洗い物用のボックスに投げ入れ、白衣も同じように放り込む。
「問題ありません」
 随分と遅れて、ツヴァイはそう返してきた。
 ハズキはほんの一瞬呼吸を止めた。
「そうか」
「ご心配、ありがとうございます」
 ハズキが振り向くと、ツヴァイは真っ直ぐにハズキを見据えていた。
 特に微笑みかけもせずに、ハズキは視線を向けただけで、すぐにふぃっとそっぽを向けた。
「ハズキ様」
「命令。風呂に入るから、その間に、掃除しといてくれ」
 特に汚れてもいない部屋を示してそう言い、タオル片手にハズキはシャワールームへと入った。



 ツヴァイを従えて、ハズキはいつも通り颯爽と廊下を歩いてゆく。
 ツヴァイの体が時折カチャカチャと音を立てる。
 ハズキは全く興味を示さないように前だけを見据えている。
 角を曲がると、前からミカナギが歩いてくるのが見えた。
 ハズキはピタリと足を止め、ツヴァイもそれに合わせるように立ち止まった。
 殴られて出来た口元の傷がズキリと痛んだ。
 以前見たことのある黒のシャツに赤のジャケットを羽織っているミカナギ。
 少々何かを考えるように目を細め、周囲を見回しながら歩いている。
 そして、ふとこちらを向いて、ハズキよりもツヴァイが視界に入った様子で、声を掛けてきた。
「よぉ。足、大丈夫か?」
 シュビッと手をかざして挨拶し、すぐに心配そうな表情でそう言った。
 ツヴァイは何も答えずにミカナギを見つめている。
 ハズキといる時は、許可がなければ他人とは話さないのだ。
 ハズキは先にツヴァイに声を掛けられたのがつまらないように目を細めつつ、すぐにツヴァイを促す。
「ツヴァイ」
「はい。……大丈夫」
 ミカナギはその返答に対して、安心したように息を吐く。
「そっか……ならいいや」
「そちらは?」
 ハズキがすぐにそう尋ねた。
 ミカナギはその意味が分からないように目を丸くした。
 なので、ハズキは若干下を向いて言う。
「ミカナギは? 頭大丈夫?」
「頭大丈夫って聞かれると、なんだかオレがおかしいヤツみたいだな……」
「あ、いや、そんなつもりは……」
 ハズキはいつになく慌てて手を振った。
 それをツヴァイが静かに見つめている。
 ハズキは次の言葉に苦労するように首をさすった。
 ミカナギが目の前に来た途端、脈拍が上がったのがわかる……。
 捻くれてしまった自分を恥じるかのように、ミカナギの前は落ち着かない。
「お前、何してるんだ?」
 ハズキのそんな様子を見かねたわけではないと思うが、ツヴァイが静かにミカナギに尋ねた。
 確かに、プラント内とはいえ、ここはミズキの居住区からだいぶ離れている。
 タゴルの居住区周辺なのだ。
 タゴルを嫌っているミカナギがこんなところまで来るなんてことがあるはずはなかった。
「ああ、歩き回っていれば、記憶も戻るかと思ったんだけどな」
「記憶?」
「中途半端に記憶喪失中でね。別にそれでもいいって言われはするんだけど、やっぱ、こっちとしてはなぁ……記憶喪失前に知り合いだったヤツらがたくさんいるのに思い出さなくていいなんてまでは……思えないしな」
 ミカナギが目を細めて悔しそうに唇を噛んだ。
 ハズキはミカナギを見上げる。
「記憶喪失ってなぜ? 俺のことは覚えてないの……かい?」
 頭から血を流しながらも、思い切り殴りつけてきたあの時のミカナギは……確かにハズキの慕ったミカナギだったように思えた。
 口調が子供っぽくなりそうなのをなんとか修正しながら尋ねるハズキ。
 ミカナギは眉根を寄せて困ったようにハズキを見つめてくる。
「……すまない」
「…………そう、か……。いや、いいんだ」
 ハズキはその言葉に納得したように頷き、ふわりと笑顔を乗せた。
 むしろ、思い出さないでいて欲しい。
 きっと、思い出さなくてもいいと言ったのはトワだろう。
 彼女の気持ちはよく分かる。
 思い出さなければ……為される約束もないのだから。
「お前、名前は?」
「ハズキ」
「お前がハズキ……」
「兄さん側の人間には嫌われてるけれどね」
「……いや、そんなことはねーんじゃねぇ?」
 ハズキの自嘲気味な言葉に、ミカナギは真っ直ぐな言葉を返してきた。
 目が合う。
 記憶がないにも関わらず……そこには確かに、子供のハズキが心に刻んだとおりの彼がそこにいるように思う。
 アインスを壊し、天羽を監禁した事実があるにも関わらず、こんな風に自分と話す人がいるとは思わなかった。
「あ、そうだ」
「何?」
「出口知らん? クラメリアに行ってみたいんだが……」
「クラメリア? どうしてまた……」
「野暮用」
 ミカナギはポリポリと照れくさそうに頭を掻いてそう答えてくる。
 ミカナギが照れた表情を見せることなど、サラと話している時くらいだったように記憶しているので、新鮮だった。
「ハズキ様、そろそろ時間が……」
 ツヴァイがハズキにだけ聞こえるように言った。
 それに対して頷き、すぐにミカナギに視線を戻した。
「ツヴァイ、命令だ」
 慣れたようにハズキは言った。
 この言葉が、いつでも合図になる。
「はい」
「彼を案内してきなさい」
 その言葉にツヴァイはたじろぐように停止した。
 表情は無表情のまま、ハズキの言葉を理解するためにキュィィィンと回路を回転させているのが分かる。
「……コイツを、ですか?」
「そう。ミカナギを」
「…………。しかし、ワタシにはハズキ様の護衛が」
「ああ、だから、現在の命令を解除して次の命令というように言っただろう?」
「はい」
「じゃ、そういうことだ」
 ハズキはツヴァイに一瞥してそう言い、ミカナギの脇をすり抜ける。
「お、おい、なんだよ、いきなり」
「俺は忙しくて案内して差し上げられないので、ツヴァイを代わりに」
「いや、そこまでしてもらう義理がねぇ」
「義理ならこちらにいくらでもある。ツヴァイ、プラントに帰ってくるまではミカナギの言うことを聞くように」
「了解しました」
 ハズキに対して頭を下げているのがわかったが、ハズキは特に振り返りもせずに早足で歩く。
 白衣の下に隠れていた腕時計を見ると、確かにツヴァイの言う通りギリギリの時間だった。
 トワの実験がその後に控えている。
 そちらはあまりに悪趣味すぎてハズキは参加したこともなかったけれど。
 ……ああ、そうか。
 トワがいないから……か。
 ハズキが振り返ると、まだそこでは困ったように顎を撫でてツヴァイのことを見つめているミカナギがいた。




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