第七節  ラブラブアイシテル


「兎環……」
 兎環は誰かに呼ばれて目を開けた。
 その声の主が誰かなんて、すぐに分かる。
 ぼんやりした視界に、ミカナギの顔が浮かび上がった。
「ミカナギ……どうしたの?」
 ミカナギは困ったように目を細めて、そっとトワの頭を撫でると、立ち上がって踵を返す。
 トワはすぐにミカナギの腕を掴もうとしたが、体に力が入らず、宙を掴んだだけだった。
「ごめんな」
「どうして……謝るの?」
 背中だけが寂しそうだった。
 俯いて、しばし逡巡するようにミカナギは停止していたが、再び吐き出すように言う。
「……ごめん」
「あなた……」
 トワはなんとなく感じ取る。
 今、そこに立つ彼は……。
 トワはゆっくりとベッドから立ち上がって、彼を背中から抱き締めようとした。
 けれど、ふわりと風が吹いて、目の前から彼は消えてしまった。
 トワは目を見開く。
 そして、すぐに察した。
 ……夢……。
 すっと爪を噛んで、こぼれた髪を掻き上げる。
「どうして……」
 ごめんなんて……。むしろ……。
「謝るのは、私のほうでしょう?」
 切なげに目を細めて、トワはそっと呟く。
 そして、しばらく立ち尽くしていると、後ろから誰かに抱きすくめられて、ビクリと体を動かす。
「兎環……」
 耳元で優しい声がした。
 おかしな夢。
 トワはそんなことを心の中で呟いて、彼の手に触れた。
「どうしたの?」
「具合が悪いって聞いたから……心配してた」
「……そう……。大丈夫よ、すぐ目覚めるわ」
「ああ。でも、何かあるなら……ちゃんと……話して欲しい」
 低く優しい声。
 トワは目を閉じて、ミカナギに体を預けるように力を抜いた。
 今は、それしか出来なかった。
 ミカナギには言わない。
 これは、トワのプライドだ。
「あなただって……」
「え?」
 ミカナギの腕に埋もれるトワを、遠くからミカナギが悲しそうな目で見つめている。
 トワは真っ直ぐに遠くのミカナギを見据えた。
 夢でなければ、こんな光景など決してないだろう。
 けれど、……現在の2人の状態を、如実に表しているように感じた。
「どうして?」
「兎環?」
「そんな悲しそうな目で、私を見るの?」
 トワの声に、2人のミカナギはブワリと音を立てて消えた。


 トワは勢いよく目を開ける。
 目が覚めた瞬間、目からポロポロと涙が零れた。
 きゅっと唇を噛み締め、前髪を掻き上げてから上体を起こす。
 確か、実験中に意識を失ってしまったのだ。
 一体、どのくらい眠っていたのだろうか?
 おそらく治療後に着せられたであろうパジャマは、袖が余るくらいの大きさだった。
 服を着せるところまで気が回るのなんて……ミズキでは決してありえない。
「チアキ……かな」
 トワは目を細めて呟き、ゆっくりと立ち上がった。
 青いホログラフボールが天井をふよふよと舞っていたが、トワが立ち上がると、すぐに寄ってきた。
 時刻の表示を確認し、ふぅ……とため息を吐く。
「嘘……3日も経ってる……」
 日付が変わったばかりだから、厳密に言えば、まだ2日と10時間ほどだろうか。
 パジャマ姿のままで、すぐに部屋を出た。
 隣の部屋の前まで行き、操作盤のボタンを押す。
「はい」
「起きてる?」
「兎環? 起きたの?」
「ええ」
 トワの返事に対して、ドアがすぐに開く。
 部屋に入ろうとしたけれど、ドアのところにミカナギが立っていた。
「ごめんなさい、暇だったでしょう?」
「いや……疲れは取れた?」
「……うん……」
 そういうことになっているのか。
 トワはそっと目を細めて、ミカナギの脇をすり抜け、ベッドにボフンと腰を下ろした。
「寝るとこ……じゃないみたいね」
 調べ物途中の画面が多くあり、トワはすぐにそう呟いた。
 ミカナギは慌てて椅子に腰掛け、ディスプレイを全て消す。
「何調べてたの?」
「いや……色々と」
「……記憶があるならまだしも、今のあなたじゃ無理よ。極秘事項の調査は」
 サラリと見た感じの情報から見透かすようにトワはそう言い切った。
 ミカナギがその言葉に動揺するように目を細める。
「また、記憶か……」
「え?」
「いや、なんでも。……じゃ、兎環なら答えてくれる?」
「ええ、わかることなら」
 笑顔でミカナギを見据えて答える。
 ミカナギは立ち上がると、トワと同じようにベッドに腰掛け、ジャケットのポケットから包みを取り出す。
「質問の前に、これ」
「何?」
「……プレゼント。安物だけど」
「…………」
 トワは突然のことで何も言えずに、ただミカナギから包みを受け取る。
 カサリと包みを開くと、そこには薔薇を連想させるようなデザインのイヤリングがあった。
「どこか、行ってきたの?」
「クラメリアに」
「何しに?」
「観光」
「……そう」
 ミカナギの言葉にトワは疑惑を持ちながらも、特に何も言わずに頷く。
 こういう時、どういう態度を取ればいいのかが分からない。
「…………」
「嬉しくない?」
「嬉しいわ」
「そっか」
 ミカナギはトワの様子を窺うように横目で見ていたが、トワの言葉に嬉しそうに笑みを浮かべる。
「……変な人」
「ふっ。ああ、そう? オレは、単にお前さんの喜ぶ顔想像して買って来たわけだけど」
「……私、喜んだ顔1つもしてないわよ?」
「嬉しいって言ってくれたじゃん」
「…………」
「アンタには嘘がないって思ってるもん、オレ」
 ミカナギの言葉に、トワはそっと目を伏せる。
 頬が熱い。
 トワはジッとイヤリングを見つめ、ゆっくりと耳に着ける。
 イヤリングなんて、あまり身に着けないタイプだから、少々手こずったが、なんとか両方着け終え、髪が耳に掛からないようにシャラリとどかした。
「どう?」
「…………」
 トワの問いかけに、ミカナギが呆然としたまま、何も答えない。
 なので、トワはすぐに外そうと耳に手を当てた。
 けれど、その手をミカナギが握って止める。
「……も少し、見して」
 カァッと顔が赤くなるのがわかった。
 よく見ると、ミカナギの顔も赤い。
「似合ってる。すごく。……安物に見えない」
「……自分で何言ってるかわかってる?」
「え、あ、いや、不快だったら、すまん……」
「いつもなら……馬鹿って突っ込むところだけど……」
「けど?」
「ありがとう」
 トワはそっと目を細め、穏やかに微笑む。
 ミカナギがその言葉に切なそうに息を止めた。
「ん、あ、いや……こほん」
「どうしたの?」
「……いや。なんでもない。やましいことなんて何も!」
「? そう」
 顔を真っ赤にしてブンブン頭を振るミカナギ。
 トワは意味が分からず、ただ静かにミカナギの肩に頭を乗せた。
 ミカナギがビクリと肩を震わせたが、特に気にせずにもたれかかる。
「それで?」
「ん?」
「聞きたいことって何?」
「え、あ、ああ……あの……」
 ミカナギはいくらか考えるように天井を見上げる。
「うん?」
「兎環ちゃん、体重いくつ?」
「…………」
 トワはその言葉に唇を尖らせる。
「何の趣味?」
「はは……やっぱ、言いたくないよな。それじゃ、60キロくらいにして……」
「50よ! あ……」
 うっかり言ってしまった自分の口をすぐに押さえる。
 いや、でも多めに判断されるのは何というか嫌だったのだ……。
「……わかった。悪い。サンキュ」
「…………ホントに、何の趣味よ…………」
 トワは髪を掻き上げ、ふぅ……と息を吐き出した。
「それと」
「うん?」
「あ、いや、やっぱ、なんでもない……」
 ミカナギは何か言いたげだったが、結局何も言わずに俯いた。
 トワはミカナギの肩にもたれたまま、そんな彼の様子を窺う。
「ねぇ」
「ん?」
「聞きたいこと、まさか、私の体重のことじゃないでしょ?」
「ん……あ、いや」
 ミカナギは慌てたように口を動かすが、言葉が見つからないのか、ただ笑って誤魔化されてしまった。



第八節  ハズキ、画策


 ハズキの部屋で、昼間展開された内容が画面に映し出されていた。
 そんな中、ツヴァイは静かにハズキの背中を見つめて立っていた。
 ハズキはゆったりと椅子に腰掛けて、テラを抱いている伊織を膝に乗せている。
 ツヴァイの記録を見つめながら、伊織の頭を撫で、静かに口を開く。
「……不味いな……」
「パパ?」
「ん、なんでもないよ、伊織」
 ハズキはニッコリと笑顔を見せて、伊織に答えると、すぐに目を細めて画面に目を向けた。
 ミカナギが帰ってきたことで、いつ彼が行動に移るのか、いくらか懸念していた。
 けれど、彼は何ひとつ行動を起こすことなく、トワの不在時に外出をした。
 何ひとつ行動を起こさなかった理由は今朝の会話でようやくわかった。

 記憶喪失。

 つまり、彼は大事なことについては全く覚えていないということだ。
 ……それは、好都合この上ない……。
 トワも、思い出さなくていいと言ったようだ。
 あとは、彼自身も思い出さないことにしてくれれば、何も問題は起こらない。
 彼の記憶が戻る前に、何とかすればいいだけだ。
 だが……、そうもいかない事態のようだ。
 ミカナギは違和に気がついた。
 おそらく、彼の頭の中に残っていた僅かな記憶の断片。
 それが彼に教えたのだろう。
 だがしかし、それ以上先を思い出されては困る。
 綻びというのは脆い。
 1つ思い出せば、次々と彼の頭の中に戻っていくかもしれない。
 記憶が戻ったら、彼はすぐに行動に出る。
 昔からそういう人だ。
 ミカナギは行動することに疑問を抱かない。
 人をたしなめることに長けながら、自分のことには恐ろしいほどに執着がないのだ。
 時が来れば、ハズキの懸念は現実となるだろう。
 けれど、そんなことは認めない。
 そんなことは許されない。
 ハズキは目を細め、すっと視線を動かした。
 ……時間がない……。
 ハズキは優しく伊織の体を押して立たせ、そして立ち上がった。
 眉根を寄せて、天井を見上げ、唇を噛む。
 ゆっくりと振り返ると、そこにはツヴァイが物静かな眼差しで立っているだけ。
 ツヴァイの手首のブレスレットを見て、穏やかに言う。
「ミカナギからもらったのかい?」
「はい」
「よかったね」
「はい」
「ミカナギが気になるかい?」
 その問いにツヴァイが戸惑うように口を閉ざした。
 ハズキは歩み寄ると、ツヴァイの視線の高さまで背を屈める。
 ペリドット色の目が迷うように光を放つ。
 間がだいぶ空いて、ようやく答えが返って来た。
「意味を図りかねます。……ですが」
「ですが?」
「ワタシがおかしいのは自覚しています」
「おかしいとは?」
 ツヴァイはシャラリと音を鳴らして、右手をそっとかざした。
 青い石が光を放つ。
「あの男のせいで、時々思考回路が狂います。バグでしょうか?」
「……バグではないだろうね」
「? では、何ですか?」
 ハズキの返答に、ツヴァイは戸惑ったように手をゆっくり下ろして、こちらを見つめてくる。
 シャラリとブレスレットが可愛い音を立てる。
 まるで、ネコの首輪についている鈴の音のようだ。
「ツヴァイ」
「はい?」
「もしも、あの人がお前の前から消えたらどうなると思う?」
「ワタシの前には、ハズキ様と伊織しかいませんが」
「そういう意味ではないよ」
「ヤツが死ぬという事ですか?」
「……ああ」
 ツヴァイの直接的な表現にハズキは奥歯を噛み締める。
 言い方というものがわからないように造ったのは自分だから、こればかりは仕方ないのだが、その言葉はあまり心地のいいものではない。
「そうですね……。バグの原因が無くなるのであれば、それはこの上ないことです」
「そうではなく」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
「ハズキ様?」
「お前に想像しろというほうが酷だな」
 ハズキはそっと目を細めて、静かにツヴァイの長い髪に触れた。
 ツヴァイは眉1つ動かさずにその愛撫を受ける。
 テラがニャーと鳴き、伊織は2人の会話を出来るだけ聞かないようにそっぽを向いていた。
 ハズキは少しばかり、迷うように床を見つめた状態で、ツヴァイの頭を撫でる。
「ハズキ様?」
「部屋に戻りなさい」
「…………。はい。明日は?」
「用があれば、俺のほうから行く」
「了解しました」
「……伊織も、そろそろ寝なさい」
 ハズキはツヴァイの頭から手を離し、クルリと振り返ると笑顔でそう言った。
 ツヴァイが踵を返して、静かに部屋を出て行く。
 伊織がハズキの言葉を聞いて少々つまらなそうに唇を尖らせる。
「さ、最近、パパ、遊んでくれない……ね」
「……ああ、ごめんね。今、パパ忙しいんだよ」
「…………。お忙しいのはわかる……けど……」
 伊織は寂しそうに目を細めて、テラの頭を撫でる。
「忙しくても……ち、チアキお姉ちゃんは相手してくれる……のに」
「……そう。じゃ、チアキに相手してもらいなさい」
「え……?」
 珍しく、伊織相手に言葉尻がきつくなった。
 甘やかして育ててしまったのは自覚している。
 だから、こんな時くらいはピシャリと言わなくてはいけないだろう。
 伊織が眉根を寄せて、本当に悲しそうな目をした。
 テラを抱き締める手に力がこもる。
「そ、そういうんじゃ……ないも……」
「伊織?」
「ぼ、ぼくは……」
 俯いて唇を尖らせる伊織。
 ハズキは歩み寄って、膝をついた。
 どうにも……無駄な部分ばかり、自分に似たようだ。
 何度こうやってミカナギを困らせたことだろう。
 過去の自分が、すぐそこにいるように感じてしまう。
「忙しいのもそのうち過ぎるから。そうしたら、また遊ぼうね? 伊織は男の子だろう? こんなことで泣いたら、パパ、もう相手しないよ?」
「え? や、ヤダ、それはダメ」
「分かってくれる?」
「う……うん……」
「チアキもね、忙しい人だからあんまり困らせないでやるんだよ」
「…………うん」
「伊織はいい子だね」
 ハズキはニッコリと微笑んで伊織の頭を撫でてやる。
 伊織が困ったように目を細め、テラの頭を撫でた。
「それじゃ、お休み」
「お休みなさい」
 トボトボとしょげた足取りで、ハズキの脇をすり抜ける伊織。
 シューーーン……とドアが開く音がして、ハズキはゆっくりと振り返り、伊織の背中を見送る。
 伊織は部屋を出る前に立ち止まり、背中を向けたままでポツリと言った。
「か、身体には気をつけてね……パパ……」
「ああ、大丈夫だよ。パパは丈夫だから」
「……うん……」
 伊織はコクリと頷き、ゆっくりと部屋を出て行った。
 ハズキはそれを見送ってすぐにドアにロックを掛ける。
 さて、どうしたものか……。
 念のため、この時のために準備だけは進めてきた。
 けれど、虹の塔を昇りきることは可能だろうか?
 あそこだけは未知の領域だ。
 あの養父が何も用意していないとは考えにくい。
 急がなければならないが、迂闊に動いては、折角用意した駒が駄目になってしまう。
 どう動くか……。
 それが問題だ。
 ……兄と手を組む?
 無理だ。今の自分ではまだそんなことはできない。
 それに、もしも失敗した時、どちらも動けなくなってしまったら、意味がない。
 ……これは、ミカナギとトワというかけがえのない人を護るための、戦いなのだ。
 全ての可能性が費えるような作戦は取れない。
 十分に吟味して、出来るだけ成功予測値を向上させてから動かなくては……。
 ハズキはふー……と息を吐き出し、椅子に腰掛けると、コンソールをカチカチと鳴らした。




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