第九節  スキスキダイスキ


 カノウは天羽に誘い出されて、プラントの外へと出た。
 アインス修理の合間の息抜きに、と、珍しく彼女から声を掛けてきたのだ。
 帰ってきてからはずっとミズキの傍にベッタリだったのにどうしたことだろうか。
 自分というのは単純だから、こういった誘いを受けると、素直に受け止めてしまうものだ。
 ……できるだけ、そうは思わないようにしようとは思っているけれど、やっぱり……。
 ビュ〜……と冷たい風が吹いて、1週間ほど快適な温度の中にいたカノウはブルリと身体を震わせて、身をすくめた。
「さ、寒いよ、天羽ちゃん……上着くらい持ってくるべきだったんじゃない?」
「なっさけないなぁ〜。カンちゃん、冒険者でしょお?」
「そ、そうだけど……」
「うふふふ〜」
「ど、どうしたの?」
「ん〜? お兄ちゃんにねー、ペンダントもらったのぉ。可愛いかったなぁ……。あ、見せようと思ったのに忘れちゃった」
「そ、そう……。……ミカナギ、何、ポイント稼いでんだよ……」
「え?」
「ん? あ、いや、なんでも」
「そう?」
「うん」
 カノウはついつい言ってしまった一言を必死で誤魔化すように何度も誤魔化し笑いをした。
 寒さで歯がカチカチ言い出す。
 ……今晩は冷え込みが酷そうだ。
「そ、それで……どうするの? 散歩する? この辺り、夜は何か出るとか、ないの?」
「んん? たぶん、何も出ないと思うけど……遭遇したことないからわかんないなぁ」
「そっか……」
 天羽は首を傾げ、考えるようにコチコチと頭を動かした。
 カノウは腕をさすりながら、周囲を見回す。
 本当に寒い。
 天羽と一緒という幸せを吹き飛ばすくらい、寒い。
「あ、そだ☆ あのねー、翼が今日直って来たのよぉ」
「へ?」
「あたしの翼♪」
「天羽ちゃんの……翼?」
「あれぇ? 言わなかったっけぇ? あたしの名前は、天使の翼を持つ者だから天羽っていうって」
「て、天使だから天羽っていうのは聞いた覚えがあるけど……」
「んふ〜……ま、おんなじおんなじ☆」
「若干違うよ」
「えはは〜」
 人差し指を突き出して、可愛らしく唇を尖らせる天羽にカノウは苦笑を返すと、天羽がおかしそうに笑った。
 風が吹き付けて、天羽のセーラー服もどきのカーラーがなびき、スカートもふわりと浮き上がる。
 カノウはスカートのユラユラに目が釘付けになりそうになったが、必死で理性を保った。
 空を見上げて、何度か呼吸を繰り返す。
 夜空はどこから見ても同じで、空にはスモッグが漂っている。
 プラントの一番高い塔からは虹が空に向かって伸びており、雨も何も降っていない上に光もほとんどない世界で虹が輝いているというのは不思議な光景だった。
 虹のたもとには宝物が眠っているという。
 その宝物が……このプラントだとでもいうのだろうか?
 それとも、この虹の先に……あるのだろうか?
「カンちゃんをねぇ、紹介しようと思って」
「え?」
「ふふ」
 虹に見惚れていたカノウに天羽はそう言うとニッコリと笑った。
 天羽はゆっくりと目を閉じて、何かを念じるように口元に力を入れる。
 すると、カーラーが揺れ、ブワリと天羽を中心にして風が起こった。
 その後に微かに白く光る。
 カノウはその眩しさに一瞬目を閉じた。
 次に目を開けると、セーラー服もどきのカーラーから翼が生えていて、まるでそこには天使が立っているかのようだった。
 天羽がそっと目を開けてふわりと微笑む。
 神秘というものが、本当にこの世界に存在するのならば、カノウにとっては、それはまさしく彼女だ。
 虹を見上げていたトワも美しかったが、時折見せる彼女の大人びた笑顔は、……たまらなくカノウを切なくさせる。
 けれど、すぐにいつものあどけない表情に戻ってしまう。
「ちょこっとだけ練習させてね? あたし、2人で飛んだことないから」
「え? ミズキさんは?」
「ん〜? ミズキは忙しい人だから〜」
「そ、そっか……」
 なんであろうと、『初めて』という単語は、とても嬉しいものだ。
 天羽がふわりと跳び上がると、翼がはばたいた。
 けれど、次の瞬間、天羽の体の重みでカーラーがみょーんとずれたように見えた。
 翼だけはそれなりの高さを維持しているが、天羽はカーラーの長さ分だけ下を飛んでいく。
 そんなものなのかと思って見ていたが、あっという間に地面に天羽の足がぶつかって、ズルズル……と音を立てた時に、それは違ったのだと気付かされた。
「あぅあぅ〜……痛い〜」
「天羽ちゃん、はばたきを止めないと止まらないよ!」
 その言葉に天羽もようやくはばたきを止め、その場に屈みこむ。
 カノウは慌てて駆け寄り、気遣うように天羽の顔を覗き込んだ。
 天羽は目をウルウルさせて、唇をつっとがらせていた。
「天羽ちゃん? 大丈夫?」
「だ、だいじょぶだけどぉ…………うぅ……この事実とは向き合いたくない」
「え? え?」
「うぅぅぅ、カンちゃんの意地悪ぅぅ」
「え?! ボク、何にも言ってないよ??!」
 天羽は顔を赤らめて、そのまま頭を抱えるようにして、その場にしゃがみこんだ。
 カノウは首を傾げてその様子を見つめるだけ。
「わ、わかんないなら、いい……お願い、考えないで」
「? う、うん」
「いいよなぁ……みんな、たくさん食べても……」
「え?」
「ううん、なんでもない。とりあえず、さじ加減はなんとなくわかったから、なんとかする」
 舌っ足らずな言い方でそう言うと、気合を入れるようにして天羽は立ち上がる。
 カノウは先程のズルズル加減を思い出して腰が引けた。
「……だ、大丈夫なの?」
「だいじょぶよぉ」
 天羽はにゃっぱりと笑うと、躊躇いなくカノウの手をしっかりと握り締めてきた。
 あまりに急なことで、カノウの心臓がビクリと跳ねる。
 天羽の手がトクトクと脈打っているのがわかった。
 カノウの耳を心臓の音が支配する。
 天羽が何か言っているけれど、それは聞こえていなかった。
 ねぇ? ドキドキしてるんだけど、天羽ちゃんはどうなの?
 そんなことを尋ねたくなって、けれど、出来なかった。
 天羽が跳ねた瞬間、カノウの身体もふわりと浮き上がった。
 はじめは不安定だったけれど、飛び出すとあっという間だった。
 風が首を掠めてゆく。
「飛んでる……」
 カノウはドキドキよりもその感動に目を輝かせる。
 天羽は楽しそうにふわりと弧を描き、スモッグすれすれで切り返す。
「気持ちいい〜?」
「うん……すごいね、天羽ちゃんは」
 その言葉に天羽が嬉しそうにキャロンと目を輝かせる。
 天羽は虹に沿って上へと上昇してゆく。
 カノウはスモッグの内部なんてそうそう見られるものじゃないから、ついついそちらに視線を送ってしまった。
 特に何もなかった。
 ただ、色がくすんでいて、とても身体に悪そうなことだけは分かった。
 スモッグから抜けると、天羽は慣れた調子で虹の上に着地しようとした。
 カノウは慌てて制止しようとしたが、その時にはもう遅かった。
 タンと天羽の靴音が鳴る。
 それに驚いた。
 カノウも虹に着地し、これは夢か何かかと逡巡した。
「虹の橋渡って、どーこまで行こ〜?
 君の元まで〜
 虹の橋はどーこまでつーづく〜?
 君の国まで〜
 この虹のかがーやきーは何で出来てる〜?
 それは、神様の宝物たくさん〜
 この虹で作れーるもーのなぁんだ?
 それは、きっと、君の笑顔さ〜」
 天羽は即興か何か分からないが、軽い調子でそんな歌を歌い、両腕でバランスを取るような仕種をしながら、歩いてゆく。
 進む度に翼が小さくなっていき、ふわりと消えた。
 カノウは小さな背中を見守りながら、ゆっくりとついていく。
 何度かコンコンと足で叩き、材質を確かめようとしたが、どうにも今まで触れたことのある材質の物と明らかに異なる性質のものであることしか分からなかった。
「カンちゃんを紹介したいのはね」
 天羽が口ずさんでいた歌を止めて、クルリ! と振り返った。
 スカートがふわりと回る。
 カノウは虹の光に照らし出される彼女を見て、目を細める。
「お月様☆」
 天羽は元気いっぱいに言って、ぱっと両手を広げた。
 カノウはその言葉に反応して、すっと視線を上げる。
 そこにあるのは天羽の言葉通り、月だった。
 地上では絶対に見ることの叶わないもの。
 それが、目の前に浮かんでいる。
 突然、周囲がザワリと騒いで、景色が変わった。
 桜色の髪の女性がゆったりと微笑んで、虹の上から月を見上げている。
 年の頃は30半ばから40くらいだろうか?
 その背には翼があって、彼女はふわふわの髪をなびかせながら、抱いている赤ん坊に月を見せようと優しく声を掛けている。
『ほら、ケーくん、見える?』
 年の割に可愛らしい声だった。
 カノウは赤ん坊の視点から、示された月を見上げる。
 懐かしさに、涙がこぼれそうになったが、なんとか堪えようと目を閉じた。
 改めて目を開けると、元通り、自分が月を見上げていた。
 カノウは目を見開いて、状況を理解しようとしたが、全く分からない。
「ちょうど満月〜。よかったぁ。お月様、おひさ〜。お兄ちゃんは無事だったよ〜、ありがとね〜。それで……」
 タンタンと靴音を鳴らして、カノウの脇まで来ると、天羽はカノウの肩をポンと叩いた。
「この人、新しく出来たお友達のカンちゃんだよぉ☆」
 天羽は笑顔でそう言い、ふわりとその場に腰を下ろした。
 そして、ポンポンと横を示すように虹を叩く天羽。
 カノウは促されるままに腰を下ろす。
「気晴らしになった?」
「うん。ねぇ、天羽ちゃん」
「なぁに?」
「どうして、ボクを連れてきてくれたの?」
「え? ん〜……恩人だからかな?」
「ボクが、天羽ちゃんのこと好きなの、知ってるよね? 思い上がっちゃうよ?」
「…………」
「冗談だよ」
「ぅん……。もし、勘違いさせてるなら、ごめんなさい……」
 天羽が眉根を寄せて反省したように拳を握り締めた。
 カノウはその様子を見つめて、キュッと胃が締め付けられるような心地がした。
 意地悪なのは自分だ……。
 そうやって、彼女に負い目を与えて、自分が被害者なんだと公然として告げようとしているようなものだ。
 ……せっかく、彼女はとっておきの場所に連れてきてくれたというのに。
 最低なことを言ってしまったことを反省するように、カノウは眉を歪める。
「ごめん」
「ぇ?」
「こんなこと言いたいわけじゃない……ごめん、天羽ちゃん……」
「んーん。あたしも、いけないんだ……中途半端だから」
 天羽は目を細めて静かにそう言うと、ふぅ……と白い息を吐き出した。
 カノウはその横顔に視線をやった。
 すると、先程見た女性と天羽の姿が重なって見えた。
 カノウの目から涙がこぼれる。
 慌てて拭うが、天羽は敏感に気がついて、心配そうに眉根を寄せた。
「ちが……これは、違うから……」
 カノウはブンブンと首を横に振った。
 そんなことを言ったって、このタイミングで涙なんか流したら……勘違いされても仕方がない。
 どこまで……自分は情けない男なんだろう。
 カノウは口元を押さえて、必死に涙を止めようとしたが、突然生じた感情はなかなか収まってくれなくて、ポロポロと頬を伝ってゆく。
 ふわりと、天羽の香りが漂う。
 天羽の手がカノウの頭を引き寄せて、優しく抱き締めてくれた。
 カノウは驚きで声も出ない。
 彼女が耳元で囁く。
「ねぇ……カンちゃん……。駄目なの、分かってるんだけど……それでも、放っておけないっていう事実がそこにあるのは、どうすればいいのかな?」
「…………」
「あ、あたし、駄目なんだ……。割り切るとか、苦手で……。それに、隣で泣いてるの、見ないフリなんて……無理だよ……。いっぱい、いっぱい助けてもらったのに」
 カノウはその言葉に目を細める。
 天羽は何度かよしよしとカノウの頭を撫でる。
 違うのに……。別に想いが届かないのが悔しくて泣いたわけじゃないのに。
 それに、仮にそうだとしても、本人に慰められたって、何の効果もないのに。
 ……この子は……本当にどうしようもない人なんだと、カノウは心の中で呟いた。
 でも、だからこそ、好きになった。
 分かってる。分かりきってる。
 カノウはそっと天羽の肩に触れ、身体をそっと離した。
「天羽ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
「え? あ、うん! きっとね、疲れてるんだよ。だからね、今日はゆっくり休んで、また、明日からアイちゃんの修理すればいいよ! 最近、全然見掛けないから心配だったんだ」
 天羽はカノウの言葉に嬉しそうに手をブンブン振って、そんなことを言う。
 なるほど。息抜きというのは、そういう意味か。
 根を詰めすぎるのは自分の悪いクセだ。
 なんだかんだ言って、そのことを彼女が気に掛けてくれたのだと思うと、素直に嬉しい。
 単純すぎるかもしれないけど。
「虹の橋の上でおしゃべりなんて、まるで絵本の中みたいだ」
「ふふ〜。とっておきですから〜。また来たかったら、あたしに言ってね?」
「うん。でも、ここって1人じゃ……あ、無理か。昇る手段がないや」
「うん、そう。それにねー」
「うん?」
 天羽はそっとカノウに顔を寄せて人差し指を立てる。
「虹はねー、あたしと一緒じゃないと出現しないんだ」
 少しだけ小声で彼女は得意そうにそう言った。
 カノウはその言葉の意味がよくわからなかったけれど、言葉のままに受け止めて、そうなんだと相槌を打った。
 銀の月が、夜空に浮かんで、2人を見守っている。




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