第十四節  女って生き物


 チアキはティーポットで紅茶を注ぎながら、テーブルの向こう側に居るトワに笑いかけた。
 今日は非番で髪も結わえていないし、白衣も着ていない。
 いつもより少しラフなシャツとジーンズ姿。
 綺麗な黒髪がサラサラとこぼれる。
 注ぎ終えて、すぐに腰を下ろし、ティーカップをトワのほうへと押し出す。
 テーブルに肘を乗せて指を組み、顎を乗せた。
 トワの膝には、ハズキから預かったテラが気持ち良さそうに丸くなっている。
 どんなにチアキが呼んでも近づいてこないくせに、トワが訪ねてきたら、すぐに彼女の足元に駆けていったのだ。
 ……なんとも、傷つく。
「珍しいなぁ……姉さんから来てくれるなんて」
 トワは静かにチアキの淹れた紅茶を飲み、ふぅ……とため息を吐いた。
 トワはカップの中を見つめたまま、チアキには視線も寄越さない。
 チアキはそんなことなど気にも留めずに、紅茶にうっすら映った天井を見つめて目を細める。
「……怪我の調子はどう?」
「……ええ、だいぶ良いわ。でも、大仰過ぎる。包帯なんて」
「そうでもなかったわよ。結構酷い傷だったし」
「…………」
 チアキの言葉にトワは困ったように目を細めて視線を上げた。
 トワはカーディガンの上から腕をそっとなぞる。
 そして、しばらく考え込むように黙り込んだ。
 チアキはそれを待つ。
 元より、この人は気ままな人だから、話したければ話すのだ。
 チアキは紅茶に1つ角砂糖を入れてスプーンをクルクル回す。
 溶けるのには時間が掛かったが、少しずつほぐれていって、粒が水面に浮き、それが渦になったかと思うと、消えていった。
「……1週間経つの」
「え?」
「ミカナギと口聞かなくなってから、1週間……」
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩だったら、どんなにいいか」
 トワは困ったように目を細めて、そう呟き、テラの頭をそっと撫でる。
 またしばらくだんまり。
 けれど、彼女なりに思い起こしていたのか、急に感情が湧き出してきたかのように口を開いた。
「大体……嘘でもいいから言うじゃない。ああいう場面で、どうして嘘でもいいから……私を選ぶって言ってくれないの……」
「う……なんだか、話が見えない上に、すごい展開だね……」
「だって……」
「ぅ……うーん……」
 せめて、状況の説明をするか、それが出来ないならそういった話をこちらに持ち掛けてくるのは勘弁してくれないかなぁ……。
 チアキはそんなことを心の中で呟きながら、必死に顔だけは笑顔を作る。
「よ、よく分からないけど、姉さんは、嘘でもいいの?」
「…………」
「私だったら、嘘でそんなこと言われたって、嬉しくないよ……違うかな?」
 ハズキの笑顔を思い返しながら、チアキはそっと目を細めてトワを見据える。
 トワは唇を尖らせて、ボソリと返してくる。
「そんなの、わかってるわよ」
「うん」
「もしも、彼が嘘でそう言ってくれたとして、私の心はすっきりしないんだわ……」
「うん」
「何を言われても、何をされても……心は一瞬喜ぶけど、結局冷めてしまう」
「……うん」
「結局、私が疑ってるからよ……」
「そ、それは違うんじゃ……」
「あの人の大好きな人のこと、私だけは覚えてるから、それを思い出して、不安になるのよ」
 トワは苦しそうに眉根を寄せて吐き出すように、搾り出すようにそう言う。
 チアキもその言葉で呼吸を忘れた。
 この人は、自分とは次元の違う恋愛の話をしているのだと、思った。
 くっつくかそうでないかとか、相手が誰を好きなのかとか、そういう話ではないのだ。
「…………。ねぇ、姉さん」
「ん?」
「私は、それをどう受け止めればいいでしょうか? な、何か……言ったほうがいいのかな」
 チアキが困ったようにそう言うと、トワはしっかりとチアキを見据えて、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。……誰かに、聞いて欲しかっただけ」
「……そう……」
「きっと、チアキならば、もっと素直な反応できたんでしょうね……。私はあなたのように素直でもなければ、天羽のように可愛らしくもない。そのくせ、一丁前に女の部分だけは持ってるのよ……」
「……そう、でしょうか?」
 姉さんほど気ままで素直な人もそうそういないと思うけどなぁ……と心の中で呟き、それでも、なんとか顔には出ないように誤魔化す。
 トワは指をきゅっと組み合わせて、はぁぁ……とため息を吐いた。
「大体、あなたさえいればいいなんて言っておきながら……結局人に愚痴聞いてもらいに来てる私は何よ……」
「ね、姉さん、大胆だね……」
 チアキはトワの言葉から出てくる台詞にさすがに目を泳がせて、顔を赤らめる。
 そんな台詞を聞いてしまったら、一体どんな状況でそういう会話をしたのだろうと、想像してしまうではないか。
 チアキの言葉に、トワもはっとして口元を押さえた。
 見る見る間に顔が赤くなっていく。
「わ、忘れて」
「えぇ? そ、それは無理ですねぇ……」
 紅潮しきった顔のトワを見て、チアキは眼鏡を掛け直すフリをして目線を逸らす。
 こんな綺麗な人を、ここまで動揺させるなんて……やはり、ミカナギは只者じゃない。
 チアキは少し落ち着きを取り戻してから、再び組んだ手に顎を乗せ、優しい声で言った。
「……姉さんは、可愛いと思いますよ。たぶん、あなたが思っている以上に」
「ち、チアキ」
 トワは困ったように目を泳がせるばかり。
「ねぇ、姉さん。もしも、気になるのなら、医者に診せたらどうかな?」
「え?」
「兄さんの記憶喪失って……身体的ショックっていうよりかは、心因性のものなんじゃないかと……思うのね」
「…………」
「こう……なんというか、心が思い出したくない思い出したくないって言ってるから、思い出せない……みたいな。そうでなかったら、こんなに長い間記憶が欠如しているのに、あんなにピンピンしているのは……さすがにおかしいと思うし。この前、念のため検査した時も、特に異常は見られなかったから。私は精神的外傷なんかはあんまり勉強していない面だから、力にはなれないけど……知り合いの医者を紹介するくらいならできるし」
「……思い出さないなら、それでもいいのよ、私は」
「え?」
「ごめんなさい……きっと、私、言ってること支離滅裂よね……」
「ううん。たぶん、姉さんの中では理屈に適ってるのでしょう? それなら、問題ないと思うわ」
 トワが悲しそうに俯いているので、チアキは出来るだけ優しい声でそう言って、冷めたティーカップに手を伸ばした。
「紅茶、淹れ直すわ。私は次は緑茶にしようなぁ」
 朗らかにそう言って、立ち上がる。
 ポットからティーポットにお湯を注ぎ直し、棚から急須とお茶っ葉の入った袋を取り出す。
 すると、トワが後ろでポツリと呟いた。
「チアキ、心理学勉強すればよかったのに」
「どうして?」
「……きっと、才能あるわよ」
「う……一応、医療技術も父の折り紙つきなんですけど……」
「そういう意味じゃなくて……天性だわ」
「……そう? 少しは和んでくださったのなら、光栄です。姉さん」
 チアキはクルリと振り向いて、ニッコリとトワに対して笑顔を向けた。
 テラを撫でながら、トワは考え事をするようにテーブルを見つめていた。



第十五節  考えても仕方ないし


 あの人は……記憶がなくても尚、自分を選んではくれなかった。
 そう思えば思うほど、どんなにいつも通りに接しようと覚悟を決めても……顔を見た瞬間、それが出来なくなってしまう。
 自分がこんなに大人気ないとは思わなかった。
 少なくとも、自分自身では、大人のつもりでいたのだから。
 世界か、私か。
 随分なものを秤にかけたものだ。
 けれど、ママか、私か……などと、言えなかったのだ。
 ママの願いこそ、平和な世界だったから。彼がそれを大切にしようとするのは当然だった。
 彼は外に出たことによって、トワの知らない世界を見た。
 トワの知らない人間と出会った。
 自分が鳥籠の中から見る世界は……とても狭く、残酷で、そして何より……退屈なものだ。
 けれど、彼は見てきたのだ。
 広い世界を見てきた。
 アインスの記録は、それをまざまざと見せつける。
 対でありながら、刻み込まれた10年がこんなにも違う。
 対であることが、彼の隣に居られる理由だからこそ、そんなのは嫌だった。
 ……可愛らしい人。
 イリスを見て湧いた感想はそれだった。
 どうせ、自分はあんなに素直でも、あんなに洒落が利く訳でもない。
 随分な話だが、劣等感というものは……自分の中にはないと思っていた。
 いや、ないと思おうと思っていただけだろうか。
 昔から、自分はママをそういう目で見ていた。
 才色兼備というなれば、それはまさしく自分のことだと思う。
 自意識過剰と言われようとなんだろうと、自分はそう思っている。
 けれど……愛嬌という面だけはどうにもならないのだ。
 だからこそ、天羽の可愛らしさが大好きで、失って欲しくないと思う。
 天羽は……ママに似ている部分を多く引き継いでいるから。
 チアキの部屋を出て、廊下をヒタヒタと歩いていると、角を曲がるところで人の気配がした。
 それでも構わずにトワは角を曲がる。
 氷が白衣の女性に口付けて、服を脱がそうとしているところだった。
「ちょ、せめて……部屋で……」
 迫られている(?)女性がそんな言葉を艶っぽく吐き出すが、氷はそんなことは全くお構いなしだった。
 首筋に舌を這わせて女性を黙らせると、すぐに服の中に手を差し入れる。
 トワはそれを一瞬見たが、どうでもいいようにすぐに視線を逸らして、彼の後ろを通り過ぎる。
 だが、通り過ぎようとした瞬間、ガシリと腕を掴まれて、トワはうざったく感じながら振り返った。
 横目でこちらを見てニヤリと口元を吊り上げる氷。
「よぉ。こんなところで何やってんの?」
 その声で女性がトワを見て、カァッと顔を赤らめ、服を正して逃げていってしまった。
 トワは翻る白衣を見つめて、はぁとため息を吐いた。
「今までずっと見かけなかったのに、こんなところにいるなんて珍しいじゃん」
 トワの手首を掴んだ状態で、そっと指に口付けてくる。
 すぐにトワはそれをピシッと振り払った。
「汚らわしい」
 爪が掠ったのか、頬に赤い跡がついて、氷がおかしそうに笑いながらそれをさする。
「どうせなら、背中につけてよ」
「何のこと?」
「? おいおい、アンタ、オレより年上だろ」
「…………。それが何?」
 トワは唇を尖らせて、氷を睨みつける。
 氷は本当に意味を解さないトワを見て、クッと喉を鳴らした。
「なぁんだ。まだ、アイツのもんじゃないんだ? へぇ……ふーん。まぁ、どっちであろうと、アンタはオレがもらうけどね」
「大きな口叩いておきながら、随分と遊んでるようじゃない」
「あ? ああ、遊んでるよ、それが何か?」
 氷はトワの嫌味などなんでもないかのようにケロッとした表情で答え、唇をそっと撫でた。
 トワは腕をさすりながら、不満そうに目を細める。
「最低……」
「遊びは遊び。本気は本気。なんでもそうだろ?」
「…………」
「ああ、まぁ……あんたみたいな清らかーな人にはさっぱりわからない次元のお話なんでしょうが」
「わかりたくもないわ」
 トワは髪を掻き上げてキッパリとそう言い切る。
 氷はその言葉を聞いて、クッと再び喉を鳴らす。
 全く、彼はトワの何に惚れたのだろう?
 これほどまでにつっけんどんな態度を取られても、面白くないような顔ひとつしない。
「ふーん……性欲処理は性欲処理で割り切ってるからな、オレは。そこに感情はねーよ」
 トワがその言葉で僅かに眉を動かした。
「最低ね」
「いやいや、男なら誰でもそうでしょう?」
「…………」
「本気は勿論アンタ。だから、他は全部遊び」
「最低」
「そう? 心は立てても、身までは立てられないな、オレは。男だし。ところで」
「 ? 」
 トワを逃がさないように壁に追い詰め、両腕で逃げ道を塞ぐように壁に手をつく。
 トワは嫌悪の表情で睨みつけ、ホログラフボールを呼び寄せるように右手を振った。
「……感情昂ぶった状態で、女が逃げちゃったんだ。どうにかしてよ」
「そんなの知らないわよ。私は素通りしようとしたでしょ?」
「素通りなんてされても、ねぇ」
「……離れなさい。離れないと、撃つわ」
 青い光を放って出現したホログラフボールを見つめながら、トワはそう言い切る。
 氷はその言葉には全く動じずに、トワの顔を見つめてはぁぁとため息を吐いた。
「だったら、弱った顔してオレの前来ないでくれる?」
「え……?」
「つか、このプラント自体ふらつくな。アンタ美人なんだから、襲われるぜ?」
「…………」
「オレだったら、閉じ込めてどこにも出さねーよ」
「何よ、それ」
「特別すぎて気が付いてないのかもしんねーけど。男をあんまし嘗めないほうがいいよ」
「どういう……」
「あーあ……嫌だ嫌だ。オレ、何言ってんだろ」
 自分自身の言動に呆れるように目を細めて、はぁぁとため息を吐く。
 そっと壁から手を離し、ふぃっとそっぽを向く氷。
 トワは素早くステップを踏んで、氷から離れる。
「……1つ聞いてもいいかしら?」
「あ?」
「男の人って、昔好きだった人のこと、忘れられる?」
「……忘れられないからここにいるオレにそれ聞くの?」
「…………」
「まぁ、場合によるだろうけど。忘れはしないんじゃん? 忘れないで、きちんと心に持ってんじゃないの? オレはアンタしか愛してないからわからんけど」
「…………」
「でも、持ってたとしても、次に好きになった奴のことも大好きだ。男って、きっとそういうもんじゃね?」
「……なんだか、わからない次元の話ね」
「女は忘れることで次に進むみたいだから、仕方ねーかもなぁ」
「そう……」
「ま、忘れる忘れないだって、思い出振り返ったらそこにあるんだから、感情全てなくなるなんてことはねーんだろうけど」
 トワは氷の言葉に目を細め、氷は自分言っておいて、言った言葉があまりに青臭かったことが恥ずかしかったのか、コホンと咳き込んだ。
 落ち着かないように首をさすり、踵を返して去っていく。
 トワはそれを見つめた状態で立ち尽くしていた。




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