第十六節  僕の気持ちには気づきもしない


 トワは今度はミズキの部屋に訪れた。
 勝手に椅子を引いて腰掛け、テーブルに頬杖をつく。
 ミズキがカタカタとコンソールを弄くりながら、様子を窺うように声を掛けた。
「どうしたの?」
「……別に。チアキのところにお茶飲みに行って戻ったら、部屋の前にミカナギがいたからこっちに来ただけ」
「なんだいなんだい? まだ喧嘩してるのかい? しょうのないお姫様だなぁ」
「喧嘩じゃないわよ」
 トワの不服そうな声にミズキが手を止めて、クルリと椅子を回してトワのほうを向いた。
 トワは困ったように目を細めて、中空を見据えている。
 ミズキは眼鏡を掛け直して、ゆっくりと立ち上がり、トワに歩み寄る。
 そっと覗き込むように腰を屈めて尋ねる。
「……じゃ、どうして、避けてるの?」
「ミズキ嫌い」
「こらこら、子供みたいなこと言わないの」
「……子供でいいわ……」
「仮にも、お姉さんでしょう? あなたは」
「…………」
 トワの拗ねた様子に困ったように笑いながらミズキはそう言った。
 彼女にこういう面があるということは知ってはいたが、こんな風に態度で出されたことはほぼ初めてのような気がして、ミズキも扱いに困る。
「1週間ほっとかれたのよ」
「ん?」
「1週間来てくれなかった。前だったら、すぐ来てくれたのに」
「……トワ。まさか、1週間部屋で拗ねてたわけじゃないだろうね?」
「い、一応、行くか行かないか考えました。それで勇気出して部屋に行っても、今度は彼がいないんだもの」
「うん、まぁ……ミカナギも色々と忙しいみたいだから」
「何か知ってるの?」
「え? あ、いや。それよりもトワ」
 ミズキは失言してしまったと慌てて取り繕い、すぐに繋ぎの言葉を出す。
 先日、ミカナギに相談を受けたのだ。
 マリークの街で利用されていたフィルタをもっと小単位で使用することは可能なのかとか、出来ないのであれば、性能を上げたものが欲しいとか、そういうことを色々聞かれた。
 そして、飛行機の設計図を見せられて、彼が何をどうしたいのか、なんとなく自分なりに察した。
 技術を持つミズキが察しながらもしようとしなかったことを、技術すら曖昧なミカナギがやろうとしているのだ。
 それは男としての気概だ。
 決してここで言うようなことはしない。
「何が原因?」
「……言いたくない」
「ふーん……ま、察しはつくけどね」
「な、何よ」
「また、ミカナギを困らせるようなこと言ったんだろう? それで、自分の納得する答えじゃなかったから拗ねてるんだ」
「…………」
「お姫様は、自分が中心じゃないと気が済まないんだから」
「そんなことないわ……」
「いいや、大いにあるさ」
 ミズキはトワが唇を尖らせるのを見て、クスクスと笑いながら、わざと大仰に両手を肩の高さまで上げてやれやれというポーズを取った。
「まぁ、仕方ないんじゃないの?」
「…………」
「ミカナギは記憶喪失なんだし。そのくせ、頑張ってると僕は思うけどね」
「記憶喪失なのに出てきた結論があれだから……悔しかったんじゃない……」
「出てきた結論?」
 ミズキが疑問に思って尋ね返すように言うと、トワはきゅっと口を噤んだ。
 それを見つめて、どうにもこうにも出来ず、ミズキはうぅん……と考え込むことしか出来ない。
 情報が少なすぎる。
 何より、このお姫様が自分の傷ついた状況を事細かに説明してくれるような人な訳はないわけだ。
 しかし、何もここに来なくたってと思っている自分がいること、彼女は気が付いているのだろうか?
 ……いや、そんなことを思うことも虚しいか。
 彼女が気が付く訳もない。
「他の人が好きとでも言われましたかぁ?」
 ミズキは冗談っぽくそんなことを言ってみる。
 どうせ当たらないのだから当てずっぽうで構わないと思ってのことだった。
 けれど、まるでドンピシャだったかのようにトワがピクリと肩を震わす。
 ミズキは冗談のつもりだったので、その様子に戸惑った。
「そ、それはないでしょう」
「あるわよ」
「いやぁ、だって、ミカナギは君のことが……」
「あなたは子供の頃然して気にも留めていなかったようだからわからないでしょうけど、彼はママが好きだったの」
「……それは、ミカナギが言ってたの?」
「対だからわかるの」
「い、いや、対だって万能じゃないでしょ。ミカナギに聞いたの? あ、今は記憶喪失か……」
 トワが悲しそうに目を細め、ミズキも次の言葉が出なくて、室内に少々の沈黙が流れた。
 気に留めなかったのではなく、気に留める必要も無かったのだなどと、言える訳もなく。
 いつも仲の良い2人を、静かに見つめていた子供の自分がいた。
 自分に対してはお姉さんぶるのに、いつでもミカナギに対しては我儘し放題。
 ミズキが年を追うごとに、彼女の態度も多少は変わったけれど、それでも、自分の中で見ていた理想の2人のやり取りなんて、再現できるわけもない。
 ……それが理由だなどと言っても、きっと彼女は納得しないのだろうけど。
「僕は……」
「 ? 」
「お似合いでもない人をからかったりはしないけど」
 真っ直ぐにトワを見つめて、ミズキは優しい声でそう言った。
 トワがその言葉にようやくミズキへ視線を寄越す。
 いつでも思っていた。こんな風に綺麗な人は……いつまでも綺麗であればいいと。
 それは容姿とかそういうのではなく、心の部分で穢れることのないように、という意味でだ。
 世の中にある確かなものなど、幻想に近い。
 入れ違って、移り変わって、いつかは不確かなものに変わってゆく。
 それでも……目の前にいるこの人と、ミカナギだけは確かな存在であり続けるような……そんな幻想を抱いていた自分がいる。
「母さんは、もうこの世にはいないよ」
「…………」
「母さんの亡霊を追っているのは、トワだけだ」
「そんなこと……」
「ミカナギは、そこで立ち止まっているようなヤツじゃない。たとえ、過去に母さんのことが好きだったとして、でも、それはもうここにはないものだよ。……それを、ミカナギは誰よりも一番わかっているのではないかと、僕は思うけれど」
 ミズキは真面目な声でそう言い、そっとトワの綺麗な髪を撫でてあげる。
「記憶喪失だから、確認のしようもないけどね」
 トワは黙り込んだまま、目を細めて、唇を噛む。
「今を大切にしないと駄目だよ。勿体無いじゃない。せっかく、彼が無事に今ここにいるのに」
「…………」
「そのことの価値を、トワも僕も……知っているはずだよ?」
 トワは少しばかり考えてから口を開いた。
「……やっぱり、男の人ってそうなのね」
「え?」
「氷ってヤツも言ってたわ。男は過去も大切にするんだって。私はそれを持っていられると、苦しい……でも、そのくらいは受け入れられなくちゃ、彼と生きていくという道は選び取れないみたい」
「お姫様は、自分が中心じゃないと気が済まないものなのさ。仕方ないねー」
「すぐそう言って茶化すんだから」
「いやいや、世の女の子全て、そうで構わないと思うよ。でも、1つだけ理解していて欲しいのはね」
「 ? 」
「男はたくさん持ったままでいるけど、『今』っていうのが一番大事なのも分かっている生き物なんだ。ねぇ、トワ、その価値をわかるかい?」
「…………」
「ミカナギにとって、『今』は君だよ。僕が保証する」
 トワはポンポンとミズキの口から吐き出される言葉に困ったように目を伏せた。
 何か気に入らないことでも言ってしまったかと思い、ミズキは床に膝をついて、トワの顔を覗き込む。
 トワの顔は真っ赤だった。
「トワ?」
「……恥ずかしいことばっかり言わないで……。これだから、あなたは……」
「はは、少しはトワっぽくなったね。さて、と……帰った帰った。僕も仕事があるんでね」
 ミズキは優しい声でそう言うと、すぐに椅子に腰掛けてコンソールに手を置いた。
 全く、こちらの身が持たない。
 早く、くっつくならくっついてくれればいいのに。



第十七節  どっちの愛が勝ってる? もちろん、オレだね。いいえ、私よ。


『ご、ごめんね。謝るから許してね。兎環ちゃん、そんなに怒らないで!』
 本当に幼い頃、彼は困ったように眉を寄せて一生懸命そう言ったものだ。
 自分はといえば、つんと澄まして当然のようにその言葉を聞いていた。
 彼が自分のために何かをすること。無知と幼さというものは本当に恐ろしいもので、それ全て、当然だと思っていた時期があったのだ。
 といっても……5、6歳の頃までの話だが。
 考え方は改まっても、態度が改まっていない自分は……結局あの頃の自分と何ひとつ変わってはいないのかもしれない。







 ヒタヒタと音をさせて、トワは自分の部屋へと戻る。
 思えば、廊下1つ取っても、彼との思い出は数え切れないほどにある気がする。
 当然か。2人は20年……ここで共に育ったのだから。
 ふぅ……とため息を吐いて髪を掻き上げる。
 どうにも……戻ることを憂鬱に思ってしまう自分がいる。
 こんなでは駄目なのに。変わると決めたのではないのか。
 ほんの少しでいい。生きる姿勢を1ミリずらすだけで、自分はもっと楽に生きられる。
 トワは自分自身に言い聞かせ、目を細める。
 その1ミリがどれほどなのか、自分には分からない。
 無意識で変化していったことはいくつもあったろう。
 けれど、意識して直したものなど何ひとつない。
 そんな言葉を聞いたら、きっと多くの人から大ブーイングを喰らうであろうことすら、彼女は分かっていないかもしれない。
「それでねそれでね!」
「はい」
「アイちゃんが復活したら、お料理教わろうと思ってたのよぉ♪」
「おれは教えるのには向きませんが」
「アインスなら大丈夫だと思うなぁ。あ、でも、目分量っていうのが出来ないから、天羽ちゃんはそこが大変かもね。大さじはきっちり15グラム! みたいな感じで」
「そっかぁ、アイちゃん目分量できないのかぁ」
「……要は食べられる味になればいいのです。おれの言う通りの量でなければいけないなんてことはありません」
「おっ! アインス、更に進化してやがんなぁ。ミズキ、本当にプログラム自体には大して手加えてないのかよ?」
「はい、加えてません。おれは学習型ですから、勝手に構築していくだけです」
 トワはそこでピタリと足を止めた。
 もう遅かったけれど。
 廊下の向こう側からやってくるのは、天羽とカノウとアインスとミカナギ。
 楽しそうに会話しながら、こちらへと歩いてくる。
 ミカナギがすぐにトワに気が付いて、困ったように目を細めた。
 子供の頃の無邪気さはなかったけれど、そこにある困った目は……そのままあの頃の色をしていた。
 天羽がトワを一瞥して、すぐに察したようにニコッとだけ微笑んで、ミカナギに耳打ちをする。
「あ、トワさん、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
「今晩、ボク、あのドーム室借りたいんですけどいいですか?」
「……あのドーム室はみんなのものよ。私の許可は必要ないわ」
「はい。でも、やっぱり、あそこはトワさんのものかなぁと思うので」
 カノウは優しく笑ってそう言うと、ペコリと頭を下げてトワの脇をすり抜けていった。
 アインスもトワに少しばかり視線を寄越しただけで何も話さずにすれ違っていく。
 トワも少しだけアインスに視線を返しただけで、すぐにミカナギに視線を戻した。
 天羽がタンタンと軽やかな足取りでトワの横を駆けて行く。
 すれ違った瞬間に天羽は一言だけポソリと言った。
「頑張って」
 トワはその言葉にカァッと顔が赤らんだ。
 何も頑張りようなどないのに……。
 いや、頑張らなくてはいけないのだろうか。
 トワは一瞬でそんなことを考える。
 ミカナギがゆっくり歩み寄ってきて、気まずそうに視線を壁のほうに向けている。
「よぉ」
「……よぉ」
「こんなとこでする話でもねーし、どっか入る?」
 ミカナギがそう言って、すっと親指で後ろを示した。
 なんとなく、トワはドーム室のことだと察して、コクリと頷く。
 あまり落ち着かないため、トワは少々早足で歩いてゆくが、ミカナギも大股でそれについてくる。
 トワはすっと髪を掻き上げ、ただ呼吸だけを繰り返す。
 話すにしても、何を話せばいいのだろうか。
 ママのことを話せとでもいうのか。
 それとも、あれは冗談だと笑い飛ばしてしまえばいいのだろうか。
 自分の行動を後悔することは結構あるが、これほどまでに繕いようのない状況になってしまっているとどのような反応をすればよいのか、さっぱり分からない。
 すると、先に口を開いたのはミカナギだった。
 前を向いたまま、少々小声だった。
「いきなり、あんな風に拗ねられると……困るんだよね」
「…………」
「オレ、アンタの感情は見透かせても、考えてることは見透かせないんだから」
「…………」
「でも、オレが悪いんだろうね。オレが迷ったから、アンタは傷ついたんだ」
 ドーム室に入り、内側からロックを掛けて、トワは壁にもたれかかった。
 ミカナギは明るい空に輝いている虹をガラス越しに見上げて、すぐにトワに視線を寄越す。
 なんとなく察して、トワはミカナギの次の言葉を止めた。
「謝らないで」
「え?」
「待って。謝らないで」
「…………」
 ミカナギはトワにそう言われて戸惑うように口を半開きの状態で止まっている。
 トワは静かにミカナギを見つめ、壁から背中を離した。
 虹の光が2人を照らす。
 その光には熱などなくて、ただただドーム室は涼しかった。
「今回、悪かったのは私。記憶のないあなたに強いたのは間違いだったし、世界を見てきたあなたに強いるようなことでもなかった」
「……でも、アンタの言ったことなら、意味があったんじゃないの?」
「…………。ただの嫉妬よ。気にしないで」
 本当はあったけれど、思い出して欲しくないことだからこちらから言うという選択は取れなかった。
 もしも、それで触発されて、彼が全てを思い出してしまったら、今ここにある幸せは全てなくなってしまうからだ。
 全てが消えてしまうからだ。
 ……彼がたとえ今は自分のことを好きだとしても、その選択と、ツムギとママとの約束のための選択は全く別物だから。
「ごめんなさい。あんな問いをする女は鬱陶しいだけだわ」
 トワは生まれて初めてと言える程、真剣に謝りの言葉を発した。
 ごめんなさいって、こんなに真摯な響きをするものなのだと、自分が口にして初めて思う。
「……そんなことはねーよ」
「あるわよ。私、心では思っても、そんなこと口にするような女にはなるつもりなかった」
「そしたら、そんな問いを、恋愛感情抱いてない女にしたオレはどうなるんだよ」
「え?」
「……ぽろっと出たんだ。イリスに、好きな人と世界、どちらかしか選べなかったらどうする? って」
「…………」
 それは無意識の言葉だったのだろう。
 察しはつく。
 ミカナギはずっと平気そうな顔をしていたけれど、確かな拠り所を求めていたとしても不思議ではない。
 トワがミカナギを拠り所としていたのと同じように、ミカナギは誰かに言って欲しかったのだ。
 あなたはこの世界に居てもいいのだと。
 それは、トワの責められるようなことではない。
 態度には出ても、トワは一言だって、彼にそんな優しい言葉を掛けたことはなかったのだから。
「アイツ、オレの居ない世界なんてクソクラエだってさ」
「……そう」
「オレも、そう言えりゃ良かったんだよなって思ってさ」
「私の居ない世界に意味なんてない?」
「……ああ。でも、それはそうなんだ。そうだと思うんだ」
「…………」
「きっと、失ってしまったら生きていけない。イリスは、あんなこと言ってたけど、それでも、別れ際の表情はしっかりしてた。アイツは、オレが居なくても、次に進める奴だと思う」
「ミカナギは?」
「想像つかねー。だって、結局どんなに考えたって、オレの手がかりになってくれたのは、兎環だったから」
「…………」
「でも、どっちか選ぶなんて、なんでかオレの中では無理でさ。だから、こう考えたんだ。もしも、世界に生きてる人全て、敵に回ったとしたらって」
「…………」
「こうだったら、答えられるなって。オレはお前の味方だ。絶対に。ずっと」
「あなたは……きっと天羽やカノウくんや、アインスに対してもそう言うわね」
「……ああ。でも、トワとは絶対に敵対しないと思う。間違っていたとしたらたしなめるし、きちんと意見する。決して離れない」
「……それも、あの子たちにもできそうなことよね」
「意地悪すんなよ。これでも、必死こいて考えたんだから」
「ふふ……別に私が言ったあの言葉は、そこまで深い意味なんてなかったのに、頭使うの嫌いなあなたが良く頑張ったわね」
「相変わらず、引っ掛かる」
「ええ。そうね。でも、これが私だから」
 トワはふわりと笑って、ゆっくりとミカナギに歩み寄っていく。
 ミカナギは切なそうな目をして、トワにそっと手を差し伸べてくる。
 だから、トワはその手を取った。
 優しく引っ張られ、ミカナギの腕が力強く抱き締めてくる。
 少しだけ汗のにおい。
 けれど、安心する。
 鼓動がシンクロしている。
 ミカナギの胸に顔を埋めて、静かに呟いた。
「……好きよ」
 その声の後、ミカナギがそっとトワの身体を離し、視線が合った。
 すぐに意図を察する。
 ゆっくりと目を閉じて、トワは彼の唇の感触だけ、感じた。
 それはとても長いキスだった。
 しばらくそうしていて、ミカナギがようやく離れる。
 トワは自分の唇に触れて、嬉しさでふわりと微笑んだ。
「これで……仲直り、ね」
 その言葉に、ミカナギが顔を赤らめる。
 不思議に思い首を傾げると、ミカナギは一言だけこぼす。
「……可愛すぎんだよ……」
 と。




*** 第九章 第十四節・第十五節 第九章 第十八節 ***
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