第十章  全ての想いを取り戻して、そして、君に会いに行こう、の章

第一節  翼の姫君の心満つる時


「あの小僧、そんなにいいものか?」
「え?」
 部屋に入る寸前、ボソリとタゴルが言った。
 トワは何を言っているのか分からずに、タゴルを見上げた。が、彼は全く表情を変えずに、トワを横目で見ているだけだった。
 トワは何も答えずに部屋に入り、ガラスのドアを開けて、更衣室へと入っていく。
 二週間に一度繰り返されるこの行動は、どこかトワの感覚を麻痺させていた。
 15年繰り返されていたのだから、それも当然のことなのかもしれない。
 そして、それがタゴルの狙いでもあったのだろう。
 気丈なトワの心を冒すには、徐々に屈辱を与えること。
 気高き姫君の心を弱らせるには、それが何よりも効果的だった。
 とはいったものの、これほど時がかかると、タゴルが予想していたかは不明であるが。
 トワはカーディガンを脱ぎ、脇についたチャックを下ろし、ストンと簡単にワンピースを脱ぐ。
 目の前には鏡があり、腕の傷を克明に映し出す。
 すっと目を細め、それを見つめて唇を噛み、そして下着を外す。
 ブルリと身体が震えた。
「 ? 」
 トワはその震えを不思議に感じ、一瞬呼吸を止めた。
 恥辱としての感覚はどこか麻痺していた……はずなのに、これは……15年前、再びこの実験をしなくてはいけなくなったあの時と、同じ恐怖だ。
 ミカナギが白い歯を見せて笑う。
 それを思い返して、きゅっと目を閉じた。
「怖いの? 私……。大丈夫よ……慣れたでしょう? もう、慣れたでしょう?」
 楽しさを、思い出してしまった自分。
 だからか? 怖いと感じるのは?
 15年前の約束から、ミカナギとトワの未来は深き水底に落ちていった。
 それでも、それから5年間は彼がまだ傍にいてくれたから、自分は必死に繋ぎとめていたものがあった。
 それが……すぐに失せたのは彼が旅に出てから。
 天羽はトワの中で確かな価値を放った。
 それでも……ミカナギの代わりになれるはずはなかった。
 いや、そんな風に考えたくなかったからこそ、天羽は、トワの別の心の拠り所となった。
 結局、ミカナギが占める心の中にはポッカリと空間が空いたまま、時は過ぎた。
 時は……トワの感覚を麻痺させ、元から自虐性の高かったトワはそれを気にも留めなくなっていった。
 トワはぼんやりと自分の手を見つめ、ギュッと拳を握り締めた。
 自分自身に気合を入れて、更衣室を出るのは……随分久しぶりのことのように思う。
 実験結果は想像以上に悪かった。
 この前も、結局気を失った後に翼が出現しただけ。
 そして、今回は全く身体が反応を示さなかった。
 翼が反応を示す原因のようなものも、トワ自身は把握していなかった。
 子供の頃は何も考えずとも使えていたから、余計だった。
 3時間も時を費やしたが、トワの体に疲労が溜まっていくだけで、この前以上に反応が悪かった。
 ポタポタと汗が滴り、息を切らしているトワに対して、タゴルはスピーカー越しに言った。
『今日は終わりだ。気を失われても厄介だからな』
 その言葉で学者達は次々と外へと出て行き、トワもゆっくりと椅子から立ち上がって、更衣室へフラフラしながら向かう。
 傷が酷い場合や気を失ってしまった場合には担架で送られることもあるが、今回はそのどちらにも当てはまらないため、自分で歩くしかない。
 気だるいものが喉をせり上がってくるが、トワはそれを必死に飲み込んだ。
 汗で長い髪が身体に貼りつく。
 もう、部屋には誰もいないだろうと思っていたが、珍しくタゴルが中へと入ってくる。
 カツカツと革靴の踵を鳴らし、トワの傍まで来るとすぐに手を振り上げた。
 消耗しきっているトワはそれをかわしきれずに、パシンと頬が鳴り、もんどりうって床に倒れこんだ。
「ッ……!」
「全く。小僧が戻ってきたことがそんなに嬉しいか。どうせ、その先に待つのは死しかない」
「……それでも……私の心は彼を求めている。それは、仕方のないこと。死しかないかどうかは……まだわからない」
 トワは気丈な眼差しでタゴルを見上げる。
 タゴルの目には何の感情もないように見える。
 性欲がそこにあるわけでも、蔑みがそこにあるわけでもない。
 だからこそ、不気味で気持ちが悪い。
「死しかないだろう。お前達は、そのためだけに造られたのだから。人間紛いが、何を粋がる」
「たとえ、紛いでも、私にも彼にも感情がある……。それだけは、紛れのない事実よ」
「ふっ……感情があるのであれば、我が弟の遺志を継いだ後、あの小僧が出した結論は何だ? そんな選択、人間ならば決してしないだろう。お前の気持ちなど無視をして、あの小僧は……」
「ミカナギは、誰よりも優しくて……ママが好きだったから、それは、仕方ないわ……」
 トワはそう言いながら、自分の言葉が悲しくなって、ポロリと涙を零した。
 泣くつもりなどなかったのに、嗚咽が少しばかり混じり、慌ててトワは口元を覆った。
 すると、タゴルはゆっくりと屈み、そのまま膝をついてトワの目を覗き込んできた。
 深海を思わせる青。
 確かに、その色は綺麗なのに、彼の眼差しには澄んだ感情を感じることが出来ない。
 すっとトワの顔を両手で挟むように触れてくる。
 触れられた瞬間、肌がささくれ立った。
「闇に沈め。光など見るな。お前は絶望に伏していればいい。お前の価値など翼だけだ。お前を欲しがる者などいない」
 まるで、トワを暗示にでも掛けようとするかのように、ボソボソと囁く。
「どうせ、お前の欲しいものなど、手に入りなどしない。知っているか? 希望など、持ったところで無駄だということを。現にお前の翼も告げているぞ。絶望に寄り添うように……お前の翼は出現するではないか」
「私の翼は、絶望の翼だと?」
「ああ」
「恋の翼ではありえない? ……そうね。そんなこと、ずっと前から分かってたわ」
 この翼が恋の翼であったなら、自分がこのプラントという鳥籠に閉じ込められることなどない。
 そんなことを考えた頃があった。
 翼は、自分の心が成長すればするほど、言うことを聞かなくなった。
 恋心が育つと同時に、狂っていく翼のバランス。
 ……けれど、タゴルの言葉でなんとなく納得してしまう。
 翼が出現する条件……トワが、絶望を心に秘めてしまうこと。
 ……なんとなく、めぼしい機会を思い出すと、確かにその条件は見事に当てはまってゆく。
 そして、タゴルは……自分を追い詰めて、翼のサンプルデータを取るために、これほどじわじわと責め立てたのかと、そのことにすら納得する。
 それなのに、想いが叶ったことで、自分の中の絶望感は完全に払拭されてしまった。
 だから、翼は現れない。
 けれど、翼が現れなければ、タゴルの思惑は外れてしまう。
 そのためか? このようなことをトワに言い含め、暗示の中へと落とそうとするのは。
 だが、トワの価値を翼だけだなどと思っている人間など、……この男しかしかいないのだ。
 トワは心の中で言い聞かせ、ゆっくりと口を開く。
「たとえそうであっても、私の欲している人が近くにいると、私の力は安定する。翼はなくても、残るものはある。たとえ、この翼を失っても、護れるものは……きっと、ある」
 たとえ、翼はなくても、ミカナギはトワの手を引いてくれる。
 だから、自分も彼の導となるのだと、心に決めた。
 1歩は、小さくてもいい。1歩ずつ歩み、1つずつ分かり合っていこうと。
 まだ、約束についての話は出せないが、そのうち……そのうちできるようになっていこうと、自分なりに考えているのだ。
 そんな決意を改めて心の中で形にしたら、涙がこぼれた。
 こんな男に泣かされているような構図になっているのが悔しいが、湧き上がってくるのだから仕方がない。
「そうか。じゃ、お前は、どうすれば嫌になる? 生きるのさえ嫌にしてやろうか?」
 トワはその言葉に目を見開き、バシンとタゴルの手を振り払った。
 そんな言葉を口にしながらも尚、彼の眼差しには感情が現れない。
 まるで、ロボットのようだ。
 機械に愛されながら、トワがロボットをあまり好きになれないのは、この男が原因だった。
 涙を拭い、必死の思いで立ち上がる。
 けれど、足には力が入らず、ヨロリと傾き、その場にへたり込んでしまう。
 トワの背中と腹部をタゴルの手が這った。
 目には何の感情の色もないのに、その手だけは妙にいやらしく、トワの身体がカタカタと震える。
「肉体的に冒すのが、一番早いようだな……。これだけ恥辱責めにしても、小僧1人戻ってきたくらいで、はじめに戻ってしまうのでは」
 手の動きとその言葉に、トワの身体が敏感に反応するように光った。
「データがあと少し必要なんだ……サラの遺伝子を持つのなら、少しは役立て」
 その声が耳元でしたかと思うと、うなじをザラリとした舌の感触が撫でていく。
 あまりの気持ち悪さと、こんな男に冒されそうになっている自分が嫌になり、そのまま、翼が出現してしまった。
 白い羽根が舞い、ふよふよと周囲を漂う。
「……それでいい。十分な感度じゃないか」
 トワの感情を思い切りけなすようにそう言って、タゴルはすぐに首筋に何かを押し当ててきた。
 それがピピピッと音を発し、ピカリと青い光を発する。
「はじめから、こうしておけばよかったな」
 トワはタゴルのその言葉が悔しくて唇を噛み締めた。
「反抗的な目だ。二度と、そんな目ができないようにしてやってもいいんだぞ? ……もう、お前に用はないからな」
 タゴルの手がトワの腹部を撫で、更に下に向かおうとする。
 意図を察して、トワはタゴルの手を掴むが、力があまり入らず、妨げられるほどの威力を発揮できないことが自分自身でも分かった。
 思わず、トワは高い声を上げる。
「ャッ……め、て!」
「やめてください、だろう?」
 鬼畜にもそんな言葉を呟き、トワの狼狽する様子がおかしかったのか、ククッと喉を鳴らすタゴル。
 タゴルの手を必死にトワは掴んでいるが、徐々に手が下がっていき、腿に触れる。
 ビクリと、また身体が反応する。
「くっ……」
 こんなの、自分の意思でもなんでもない。
 反応するな。
 タゴルが面白がるだけだ……。
「この……へんた……」
 トワはタゴルの目を睨みつけて、厳しく言葉を吐き捨てようとしたが、それはあまり上手く言葉にならず、トワは悔しさで唇を噛む。
 その時。
「う…………うわぁぁぁぁぁっっっはぁぁ、ぁあああああああああ!!」
 突然ミカナギの声がして、トワは驚いて、そちらに目をやった。
 タゴルの手も止まり、視線が動く。
「ミカナギ?!」
 ミカナギは右目を押さえて、少しの間狂ったように叫んでいたが、トワの声に反応するようにこちらに視線を寄越した。
 トワは慌てて自分の体を隠すように背を向ける。
 いつから? いつからいた?
 隠したところで、もう、遅いのか?
 タンッと床を蹴る音がして、次の瞬間、トワの身体に触れていたタゴルの手が吹き飛ばされた。
 すぐに鈍い音がして、タゴルの体が壁にぶつかる。
「キ……ッサマ……!」
 憎々しげにタゴルはミカナギを見据え、首の感覚を戻すようにブルッと頭を振るう。
 ミカナギはそんなタゴルの眼差しなどなんとも思わないように一気に詰め寄り、右拳を振り上げる。
 バキッと音がして、タゴルの頭が再び壁に打ち据えられる。
「み、ミカナギ……」
 まさか……ママの時と同じ……切れた時の、ミカナギ?
 あの時の、怖いミカナギはもう見たくなかった。
 だから、トワは慌てて立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、カクンと膝が鳴く。
 ミカナギは今度は左拳でタゴルの鳩尾を思い切り殴りつけた。
「ぅっ……」
 その一撃でタゴルの体が床にズズズと崩れ落ちる。
 意識を失ったのか、全く体に力が入らず、簡単に床に尻をついた。
 それでも、問答無用でもう1発蹴りを入れようとするミカナギ。
「ミカナギ、やめ……」
 トワの声が届いたのか、すぐにミカナギは動きを止めて、こちらを向いた。
 ゴトリと、トワの背中が音を立てる。
 翼が少しずつ小さくなり、消える。
 翼のせいで消耗したのか、疲労感が更に増した。
 ミカナギは一瞬だけ、血のような赤を湛えていたが、すぐにいつもの綺麗な目に戻った。
 バトルジャケットを脱いで、すぐにトワの体を覆うように着せてくる。
 視線だけは、決してトワの体を見ないようにしているようだった。
「なんで……ここに……?」
「どこに行くのか、気になって……ついてきたら……」
「バカ……」
 トワはそっと前を閉じて、すぐにミカナギの肩に掴まって立ち上がる。
 こんなところを見られてしまったのは、個人的には問題なのに、それでも、何故か嬉しいと思ってしまう。
 そんな自分は、おかしいのだろうか。
「着替えてくる」
「あ、ああ……」
 トワのしっかりした言葉に動揺したようにミカナギは頷き、トワの顔が見れないように目を泳がせている。
「どうしたの?」
「あ、いや……別に」
「そう」
「うん。あ、でも、も、もう、こんなことすんなよ。何やってたのか、全然わかんねーけど、絶対やめろ」
「……大丈夫よ。もう、私は用済みらしいから」
「え?」
 ミカナギはトワの言葉に不思議そうに目を細めたが、トワは平然と笑ってみせた。
 ……彼は気が付かないだろう。
 トワにとって嬉しい言葉を、くれたのだということを。
 以前のミカナギだって、実験がこういうものだということを分かっていれば、やめろと言ってくれたかもしれない。
 だが、彼はこんな風に追いかけてきてはくれなかった。
 それを思うと、やはり、嬉しさが湧き上がる。
 ……自分は、相当、単純だ……。




*** 第九章 第十九節 第十章 第二節 ***
トップページへ


inserted by FC2 system