トワは寒さでブルリと体が震えて目を覚ました。
 目を開けると横にはミカナギがいて、すぐに寄り添うように彼の腕をきゅっと抱き締めた。
 ズキリと体が痛み、少しばかり表情を歪める。
「ミカナギ……」
 脳裏に眠りに落ちる前の出来事が過ぎる。
 吸い付く肌に、躊躇うように触れる指先。
 トワだけを見つめる澄んだ赤い目。
 綺麗な金の髪を透かした自分の手を、ジッと見つめた。
「……っ……」
 ミカナギが苦しそうに呼吸をしたのに気がついて、トワはすぐに我に返る。
 そっと体を起こして、ミカナギの顔を覗き込み、すぐに体を揺さぶろうとしたが、それよりも前にミカナギの目から涙がこぼれた。
 トワは呼吸を止めて、それを見つめる。
「ミカナギ?」
「ママ……ごめん……」
「っ……」
 トワの目に涙が浮かぶ。
 その言葉がどれだけ重たいか。
 それの指し示すものは何か……。
 良からぬ想像しかできないのだ。自分は。
 それなのに……。
 トワは顔を手で覆い、そっと唇を噛んで涙を堪える。
 そう……やっぱり。やっぱり、辛い?
 私じゃ、代わりになることも出来ないのね……。
 言葉は頭の中を回り、けれど、決して外には出て行かない。
 こんなことをして、それで、この人が自分のものであると考えてしまうことなど、とても安直で……。
 それでも、少しでも気休めになるのならと思った。
「亡霊を追っているのは……私だけなんて……そんなの嘘よ……。嘘よ、ミズキ……」
 トワはそっと呟き、苦しくて息を吐き出した。


第三節  ただ、そこにあるもの


 ミカナギはにわかにセピア色をした世界に立っていた。
 その光景はそのまま自分の知るプラントで。
 けれど、空気というか、雰囲気の違いを察して、夢の中で記憶を覗いているのだと思った。
 こんな形で見る記憶は初めてだ。
 いつもは……常に自分はその中で、確かに中心にいて、その時の感情も気持ちも何もかも、自分のもののように感じていた。
 けれど、今回のは違う。
 全くの別物だ。
 記憶の中のはずが、自分には意識がある。
 どこまでも続く廊下に立ち尽くして、ミカナギはぼんやりと目を細めた。
 後ろから足音が聞こえて、ミカナギはすぐに振り返って、その音の主を確認しようとした。
 幼い頃の自分と見受けられる男の子が、おぼつかないながらも楽しそうに駆けてきて、自分の体をすり抜けていった。
 ミカナギはぶつかると思った瞬間、咄嗟に体を動かしたが、何のことはなく、簡単にすり抜けた。
 びびってしまった自分がおかしくて、クシャッと自分の髪を撫で、苦笑を漏らす。
「ハッ……何びびってんだ、オレ」
 落ち着こうとひとりごち、鼻から息を吐き出す。
「もう……! 待ちなさい! ミカちゃん!!」
 その声に、ミカナギの呼吸が止まった。
 年はそれなりに重ねているであろうに、けれど、それでもどこか可愛さを帯びたその声を、自分は知っていた。
 顔を上げて、恐る恐る声の主に視線をやる。
 ふわふわした桜色の長い髪を緩く結い上げた、おっとりとした女性がそこに立っていた。
 息を切らして、困ったように目を細め、カツカツとこちらへ歩いてくる。
 低い背。
 ヒールのある靴を履いていなかったら、ミカナギの肩ほどもないだろう。
 ミカナギの脇をすり抜けて、男の子の元へ歩いてゆく。
「はい、つぅかまえた☆」
 男の子の頭をなでなでして、優しく微笑む。
「なんだよぉ……ママがまてっていったんじゃんかぁ……」
「残念♪ 今は鬼ごっこ中でしょう?」
「…………だって…………」
「はぁいはいはい。ママが悪かったわ。ごめんねー。でも、待ちなさいって言いながら追いかけるのはお約束なのよ? 待ちなさいって言ったら、やなこったって返すの。それが鬼ごっこの醍醐味らしいのよ」 「兎環ちゃんは?」
 ママが楽しそうに話すのを、少しばかり拗ねた様子で見上げて、確認するように小首を傾げる男の子。
 ママはその問いに、一瞬固まり、顎に人差し指を当てて、苦笑を漏らす。
「面倒くさ。パス」
 言葉と口調が全く似つかわしくない調子でそう言うと、男の子が困ったように目を細めた。
「そう言って、ママにわざとタッチして部屋に帰っていったわ」
「なんだよ、それぇ……」
「ふふふふ。兎環ちゃんはねぇ……お姫様だから」
 ママは嬉しそうに笑ってそう言うと、もう一度男の子の頭を撫でてから、手を取って歩き出す。
「ミカちゃんはねぇ、優しい子になるようですよ? それが出来ないなら、兎環ちゃんの性根から叩き直さなくちゃいけなそうね」
「……いいよ、べつに」
「ん?」
「あのままでいいよ」
「そう?」
「うん。じゃないときもちわるいし」
 男の子のその言葉に、ママはプッと噴き出す。
 男の子はそれを不思議そうに見上げた。
「兎環ちゃんもミカちゃんも、大人なんだぁ」
「え? なにが?」
「んーん。ママは子供だからわからない〜」
「…………子供?」
「そうよー。ママはいくつになっても子供」
「そんなわけないよ」
「ふふ」
 男の子の言葉にママは楽しそうに笑い、ブンブンと繋いでいる手を振った。
 男の子の小さい体がそれに振り回されるように揺れる。
「ミカちゃんは、優しい子になってねー」
「やさしい?」
「うん。今のまま優しく育って。それで強くもなってねー」
「つよく?」
「そう。ミカちゃんは強い子になるの。もう、決まってるのよぉ」
「きまってるの?」
「ええ、ママが決めたから」
 兎環にお姫様気質があるのは、当然のことなのかもしれない。
 ママは温和でほわほわしている人だったが、ところどころの発言が、どうにも世間離れしているというか、何かおかしな人だったから。
 湧き出すように、自分の体の中がざわざわと騒いで、記憶がどんどん動き出すのを感じた。
 ポロポロと涙がこぼれて止まらなくなる。
 ママの声が、ママの表情が、あまりにも懐かしすぎたせいだ。
 顔を右手で押さえ、くっと息を飲み込む。
 ママと男の子の背中を見送りながら、ミカナギは止まらない涙に四苦八苦する。
 悲しい……。
 どうして、自分にこんなものを見せるのか。
 自分は思い出さなくていいと思っていたのに。
 どうして……どうして……。
「ママ……」
 ミカナギはフラリと一歩を踏み出した。
 ママを追いかけるように歩き出す。
 ゆっくりとママが振り返って、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「あ、なんでもないわ……。気のせいね」
 ママはすぐに男の子に笑いかけて、再び歩き出す。
 ミカナギはそんな2人の背中を追いかけて、ただ歩いた。



 金髪の男の子が桜色の髪の女の子をなだめるように話しかけている。
 男の子のほうは言葉がたどたどしく、女の子はまるで大人のように流暢に言葉を話した。
「何よ……どうせ、こうなるなら、私たちなんて造らなければよかったんだわ。2人の子供が産まれたら、私たちなんて要らなくなるのよ。そうに決まってるわ」
「そ、そんなことないよぉ。ま、ママはそんなこといってないもん」
「ミカナギは馬鹿だから分からないのよ。いい? 私たちは、2人の子供の代わりだったの。それが代わりなんて必要なくなったのよ? 行き着く結論なんて、簡単じゃない」
 男の子の困ったような表情に対して、女の子はまるでロボットのように無表情で、ツラツラと自分の考えだけを述べていく。
 聞く耳持たず。
 自分の言うことだけが正しいのだと、信じて疑いない。
 彼女には、そんなところがある。
 ミカナギは横で言い争う幼子2人を見つめて、苦笑を漏らした。
 ああ……、わかる。
 確か、ミズキがママのお腹の中にいると分かって、それをママとツムギが嬉しそうに2人に伝えた後のことだ。
 トワが物凄くむくれて、けれど、彼女の性格上、お腹の中の子に嫉妬して不機嫌になっているなんて思われたくなかったのか、理屈を並べ立て続けた。
 幼い頃の彼女には本当に表情というものが希薄で、放たれる言葉は全てオブラートに包まれることもなく直球で、けれど、その無表情さゆえに、むくれているということすら、ミカナギ以外は分かりもしなかった。
「そんなにむくれないでさぁ」
「むくれてないわよ。そんなことよりいいの? 大好きなママ、取られちゃうかもよ?」
「…………。べ、べつにいいよ、そんなのは」
「ふーん」
「とられたくないのは、兎環ちゃんのほうでしょう?」
 そう言った瞬間、パシンと男の子の頭がいい音を立てた。
 女の子が少しだけ唇を尖らせて、男の子の頭を叩いた手を見つめている。
 男の子が一拍遅れて、自分の頭をさすり、すぐにきっと女の子を見据える。
「ふん……生意気言うのが悪いんだもん」
「そ」
 男の子は女の子のその言葉に対しては、とても静かにポツリと呟いて、女の子から視線を外し、少し歩いて椅子に腰掛けた。
 ミカナギは、その瞬間、女の子が男の子の背中を見つめて、少し寂しそうに瞳を揺らしたのに気が付いた。
 子供の頃の自分というのは、とても従順で可愛げのあるタイプだった。
 けれど、彼女の扱いだけは、少しだけ意地が悪かった。
 頭は子供でも、彼女に対してだけは、とても大人のような判断力を持ち合わせていたと思う。
「…………」
「…………」
 沈黙が続いた。
 叩かれたことで、男の子のほうも少々不機嫌らしかった。
「大人でもなかったな……」
 ミカナギは苦笑混じりで呟く。
 女の子は困ったように視線を泳がせ、最終的に男の子の隣の椅子に腰掛けた。
「要らない子なんて……嫌じゃない。だって、ただでさえ、私たちは人間じゃないのに……」
 腕を抱えるようにして俯き、女の子は静かにそう言った。
 拠り所は、あの2人だけなのに。
 あの2人の中で意味を失ってしまったら、自分達はどうすればいいのだろうと。
 彼女の不安はそこにあった。
「いらないなんてことないよ」
「どうして?」
「だいすきなひとはたくさんいたってへんじゃないもん」
「私は、大好きな人は数が限られているわ」
「うん。兎環ちゃんはヘイサテキだもんね」
「…………」
「まだうまれてきてもいないのにさ、きらいなんてカワイソウだよ。うまれてみなくちゃわかんないもん」
「別に。赤ちゃんを嫌いなんて言ってないじゃない。ただ、わ、私は……ツムギを取られちゃうって……」
「とられないよ」
「え?」
「ツムギ、兎環ちゃんだいすきだもん」
「ミカナギの頭の中って、物凄くシンプルよね」
「そうだよ、わるい?」
「悪くないけど……私には理解しがたい」
「ぼくは兎環ちゃんのむつかしいかんがえかたのほうがわかんないよ。ただ、むくれてるんだなってことがわかるだけ」
 男の子にそう言われて、ふん……と女の子は小さく漏らし、ゆっくりと立ち上がった。
 男の子はその様子を見て、やれやれと言った風に微笑み、すっくと立ち上がると、優しく女の子の頭を撫でた。
 撫でられた当人は不服そうにすぐに男の子の手を払ったけれど、男の子は挫けずに何度も何度も撫で、結局女の子は根負けして、男の子に撫でられることを許容した。
「ぼくは兎環ちゃんだいすきだもん」
「そりゃ、対だもの」
「じゃ、兎環ちゃんはぼくのことすき?」
「…………。ツムギの次にね」
「そう。うん、ぼくもママのつぎにすき」
 男の子はほんやり笑ってそう言うと、ゆっくりと女の子の頭から手を離した。
 女の子の見ていないところで、少しだけ悲しそうに目を細め、けれど、その揺らぎはたった一瞬だった。
 ミカナギはその様子をのほほんと見つめているだけ。
 そう……対だから。
 彼女がそう言うのは、この頃からだった。
 まるで口癖のように。対だから。対だもの。と。
 だから、自分もそう合わせるように言い始めた。
 彼女は本心から対だものと言っていたことだろう。
 だが、自分はそうではなかった。
 そうではなかったのだ。
 言葉にするのは難しいが、只の対であるだけで、ここまで、彼女の感情を先読みなんてしないと、思う。
 それがどのような感情を物語っていたかなんて、幼い頃は分かりもしなかったけれど。
 1つだけはっきりしていたことがあって。
 自分の心の奥底には、禍々しいほどの闇が眠っていた。
 この子は自分のものだと、そう当然のように言ってのけてしまう……彼女の言う対の部分が、その闇だった。




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