第四節  愛しいわが子へ


「トワ〜!!」
 青いホログラフボールがふよふよ漂っている中で、女の子はコンソールをポチポチといじくっていた。
 男の子はベッドで弾みながら、その様子を見つめているだけだったが、突然ツムギが部屋の中に駆け込んできたので、すぐに弾むのをやめたようだった。
 ミカナギは部屋の隅に立った状態で、その様子を見つめる。
 ツムギの黒い髪はボサボサで、目の下にはクマ。
 背は平均的だが、体つきはこれでもかと言うほどにひょろ長い。
 それでも手だけは大きいのだから、人間の体の造りというのはなんとも不思議なものである。
 ツムギはママのようにパパと呼んでとは言いもしなかった。
 しなかったが、愛情ならば、ママに負けないほどにあったように思う。
 彼をパパと呼べと言われても、どこか無理があるような気がするので、そう言われなかったことはもしかしたら救いだったのかもしれない。
「どうしたの? ツムギ」
 男の子が不思議そうにツムギのことを見つめると、ツムギはしばーらくゼェハァと荒い息を静めようとしていたが、なんとか言葉を発する。
「……は、走るもんじゃなかった……。やぁ、ミカナギ、久しぶり」
「昨日ツムギの部屋に行ったんだけど、覚えてないの?」
「……え? …………。昨日は研究がいいところだったからなぁ。ごめんよぉ」
「別にいいけどさ。そろそろ、赤ちゃんだって産まれるんだから、あんまり研究に没頭しすぎないでね」
 ここ半年ほどで、一気に流暢になった彼の言葉に、ツムギが苦笑を漏らした。
「それで、どうしたの?」
「あ、そ、そうだった! 全く、トワったら酷いんだよ!!」
 まるでプンプンという擬音が聞こえてきそうなほど、ツムギはぷくーと頬を膨らませると、すぐにそう言った。
 男の子は全く意味が分からずに首を傾げる。
 ようやく女の子が手を止めて、椅子から下り、ツムギを見上げた。
 ふよふよと青いホログラフボールが女の子の傍に寄り、クルクルと回る。
 ツムギはスタスタと女の子の前まで歩いていくと、メッとでも言うように、人差し指をピシッと彼女の目の前に突きつけた。
「クラックはしちゃ駄目って言ったろう?」
「クラックじゃないよ。私はハックしただけよ。ツムギの作ったプログラムで駄目だった部分を強化してあげただけだもの。良質化したのよ。悪意なんて全然ない」
「……こ、この子は……」
「ちゃんと見てよ。いじくる前はセキュリティホールだらけだったのよ? それを出来うる限り潰したプログラムに出来ないかいじってみただけなんだから」
「僕が眠っている間にそれをやらかしたのかい?」
「んー、ほんの2時間位かなぁ?」
「トワの才能が憎いよ……」
「あなたがそう設定したんでしょう?」
「……あくまで設定だから。トワは僕の設定以上だよ……」
 へなへなと座り込みながら、けれど、ツムギは思い出したように顔を上げた。
「でもね、トワ、画面出して」
 その言葉に女の子はすぐにツムギの意図した画面を表示させる。
 その画面には無表情な時の女の子のデフォルメされたようなグラフィックが浮かび上がっていて、音声をオンにするとこんなことを言った。
「ここから先は進めません。残念でした。バーカバーカ」
 女の子の棒読みの声でそう言っているのが繰り返される。
「良質化というよりもね、これは明らかに悪戯の部類だろう?」
「どういう風に処理させたいか分からなかった部分よ、これは。でも、穴がわかりやすくなったでしょう?」
「余計なコードを消す手間が増えたよ。消す分だけミスの増える可能性もあるわけだし」
「…………」
「……トワ、どうせなら助けておくれよぉ。手伝ってくれる分には僕だってありがたいのだから」
「イヤ。研究中のツムギ、怖いんだもん」
「…………」
 ツムギは困ったように目を細めて、女の子の頭をなでりなでりと撫でる。
 女の子はまだふてくされたようにして、横を向いている。
 ミカナギはその様子を見つめて、ふーとため息を吐く。
 彼女は生まれ持って、天才的な頭脳とその身一つでコンピュータを操ることが可能な身体を与えられていた。
 だから、ミカナギが徐々に成長して覚えていくことを、彼女は凄いスピードで吸収し、簡単に扱ってのける。
 その分、情緒的な成長がかなり遅れていたように思うが、表情に出ないだけで彼女の内面は年相応だった。
「むぎむぎはここかなぁ?」
「サラさん……どうしたんだい?」
 大きくなったお腹を少しばかり気遣うようにしてゆっくり部屋へと入ってくるママ。
 男の子がすぐにベッドを下りて、ママに駆け寄る。
「ママ、大丈夫?」
「え? だいじょうぶよぉ。そんなに心配しなくても。ミカちゃんは優しいのねぇ」
 おっとり、のんびりとした話し方で、ふふと柔らかく笑うママを見て、男の子が安心したように目を細める。
 そして、ママが何かを後ろに隠しているのに気が付いて首を傾げた。
「ママ? 何持ってるの?」
「え? ふふ。まだ内緒よぉ。むぎむぎ、さっき出来てきたのよぉ」
「え? 予定より早かったね」
 ツムギはママの言葉にトワの頭を撫でるのをやめて、すぐにママの傍まで歩み寄った。
 男の子は2人を見上げ、女の子も髪を掻き上げた後、ゆっくりと男の子の隣に並んだ。
 ミカナギはその様子を見つめて、そっと目を細める。
 思い出した。この日は……。
 2人には見えないようにママとツムギはコソコソとやり取りしていたが、ツムギがその2つの出来を見て感嘆の声を上げ、嬉しそうにママから受け取ったのが見えた。
「ねぇ、何? なぁに?」
 男の子が不思議そうに尋ねる。
 甘えたような言い方などなんとも思わないように言ってのけるところが、まさに子供らしかった。
 ツムギがゆっくりと2人のほうを向き、両手を広げて2人に見せてくれた。
 太陽をモチーフにした赤いバングルと月をモチーフにした青いアクセサリ。
「うわー、かっこいい」
 男の子が嬉しそうにそう言うと、ママがすぐにツムギの手からバングルを取って、男の子の手を取った。
「これは、ミカちゃんのよ。まだ大きいけど、何年かしたらとっても似合うようになるからねぇ」
「え?」
 男の子の手首に丁寧にはめて、ママは嬉しそうに男の子の手を撫でてくれた。
 あの時のママの手の柔らかさと温かさを思い出す。
 バングルをもらった嬉しさと一緒に、あの時のママの手の優しさは、幼いながら初めて気恥ずかしさを覚えたのだ。
 男の子は頬を赤らめて、サイズがガバガバのバングルを見つめたまま、珍しく照れたようにポツリと言った。
「ありがと……」
 そんな男の子の様子を、女の子が少しだけ優しい目で見ているのが見えた。
「ミカナギは、太陽のような熱さを持った男に育っておくれよ」
 ツムギは当然のようにそう言って、クシャクシャと男の子の頭を撫でた。
 男の子はその愛撫をくすぐったそうに受け、2人の顔を見比べた後、コクリと頷いた。
 その後、ママが女の子にアクセサリを着けようとしたけれど、お腹が邪魔をしてできなかったため、ツムギが代わりに女の子の肩紐に引っ掛けて、そのまま背中へと回して、もう片方の留め具を引っ掛けた。
「よぉく似合うわ、トワちゃん。トワちゃんは本当に羨ましいくらい美人さんに育つわよぉ」
「……不思議な形」
「これはね、月よ? 月と、トワちゃんの名前の一文字の兎さん。お月様には兎さんが住んでいてねぇ……その兎さんはとっても寂しがり屋で、だから、地上や太陽にとても深い憧れを抱いているの」
「兎なんて住んでないわ。だって、月には重力がほとんどないもの」
「と、兎環ちゃん……」
「あ、あは……だから、トワちゃん好きよ」
「うん。私もママのそういうふんわりなところ好きよ」
 女の子は少しだけ優しく目を細めて笑い、そう言った。
 なんだか、その会話は傍から見ているとまるで嫌味の言い合いのようになってしまったけれど、不思議なことに彼女はその言葉を本心で言っていた。
 ママも女の子にそう言われると、嬉しそうににこーと笑った。
 ミカナギは目を細めてその様子を見つめ、やっぱり可愛いなぁ、と、心の中で呟いた。
 ママはとても読めない部分と、簡単に読める部分の2つを兼ね備えた人だった。
 けれど、それは自分が彼女よりも2周りも3周りも子供なのだから当然のことだと思っていた。
 ママだって、きっと多くのことを考えていたし、考えきれずに涙したこともあったろう。
 だが、そのどれ1つとして、ミカナギが知ることはなかったのだ。
 ママはいつでも優しく、おっとりとして、誰かが笑顔であることを何よりも自分の幸せとして考えられる人だったから。
 ……そんなママの性質が生んでしまった悲劇だって、今ならば、困ったことに納得してしまう部分もあるのだ。
 納得したからと言って、あの男を好きになどなれる訳もないけれど。
「トワは、そのままね、月のような気高さを忘れずに育っておくれ」
「ツムギ、変」
「はは、そうかい? トワの美しさや可愛らしさは不変であればいいと僕は思うんだけどなぁ」
「変わらないよ、兎環ちゃんは。変わるわけないし」
 男の子が当然のようにそう言うと、さすがに女の子もカチンと来たのか、パシンと男の子の頭を叩いて、ツムギの後ろに隠れた。
 男の子は叩かれた箇所をさすりながら唇を尖らせる。
 ママがすぐに男の子の肩に手を置いて笑った。
「変わる必要がないってことはすごいことじゃないのぉ。トワちゃんよかったねぇ。ミカちゃんがお嫁さんにもらってくれるみたいよ?」
「えぇぇ?! そ、そんなこと言ってないよぉ、ぼく!!」
 ママの言葉に男の子が慌てて首を振った。
 ママにそういうことを言われたくなかったのだろう。
 だって、自分の初恋は、どう足掻いたってママであったことが確かなのだから。
「馬鹿みたい。ミカナギが相手なんてありえないし。というか、私が誰かを愛するなんて、絶対的に起こりえないこと」
「えぇぇぇ? トワ〜、僕のことを愛してないのかい?」
「…………。れ、恋愛的な好きっていうのは、絶対に、私にはないって言ってるだけよ」
「それはどうして?」
 ママが女の子の言葉に不思議そうに首を傾げてみせた。
 ミカナギは女の子の言葉に、なんとも新鮮さを覚えた。
 彼女はそう言っていたのだ。
 絶対的に起こりえないことだと。
 けれど、彼女は誰よりも、自分のことを今では想ってくれている。
 それはきっと、奇跡、と呼んでいいのだろう。
「だって、私は人間じゃないもん。ミカナギだってそうよ。だから駄目なんだわ」
「そんなの、関係あるの?」
「サラさん。トワは、学術的見地から言っているんだよ」
 ツムギが目を悲しげに細めてそう言うと、ふー、とため息を吐いた。
 ママは納得のいかないように目を細めたけれど、それ以上言ったところで、女の子が持論を曲げるような人ではないことを分かっていたからか、追及するような言動は避けたようだった。
 ただ、にこりと笑って、こう言っただけだった。
「命があって、感情があるんだもの。絶対、なんて言葉はないと思うなぁ。ママは……2人が好きになった人、そして2人を好きになってくれた人に、いつか会いたいです」
「ママ……」
「ママの遺伝子をもらって生まれたあなたたちのことを、好きだと言ってもらえたら、ママはそれをとても誇りに思えます」
「そうだねー。サラさんが喜んでくれれば、僕も嬉しく思います。……もしかしたら、賢いトワは、僕の犯した罪を責める時が来るかもしれない。いや、もう責めているかもしれないけれど」
「そんなこと、ない」
「そうかい? それならよかった」
 女の子の言葉にツムギは嬉しそうに笑った。
 ツムギは床に膝をつくと、男の子と女の子を両方一緒に抱き締める。
「お前達は、僕の、僕たちの大切な大切な子供だ。存在に迷うようなことがあったら、対のアクセサリを見て思い出して欲しい。僕たちは世界中の誰よりも、2人のことを大切に思っているから。その2つは、その証だよ」
「いいなぁ。わたしもやりたい〜」
 そう言うと、ママはんしょんしょと声を出しながら、ゆっくりと床に膝をついて、後ろから2人のことを抱き締めた。
「な、なんだか、変……」
 男の子がくすぐったそうにそう言った。
 女の子は何も言わずに目を細めて顔を赤らめている。
 ミカナギはあの時のことを思い出して、ツンと鼻の奥が痛くなった。
 対であることを誇りに思う。
 あなたたち2人の子供として在ることを誇りに思う。
 けれど、それと同様に……その2つの誇りは、恋するということの妨げになったのだ。
 ママへの淡い憧れも、成長するたびにそこには欲望が黒く混じって、けれど、決して叶わない恋だから、何もせずに、ママの幸せを願って生きた。
 そして……その願いが絶対に叶わないのだと知った瞬間から、ミカナギの中で確かに何かが弾けてしまったのだと、思うのだ……。




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