第六節  天使、行方不明


「ミカナギー……トワ知らないかい?」
 部屋で腕立て伏せをしていると、ツムギが困ったような顔で部屋に入ってきてそう言った。
 ふー……と息を吐き出して、床に座り込むと、男の子はすぐに首を振った。
「知らね」
 10歳になり、背も随分と伸びた。
 幼い頃の素直な口の聞き方など忘れたかのように、軽くそう言うと、腕立て伏せを再開する。
 その様子を見つめて、ツムギはいぶかしむように目を細めたが、すぐに部屋を出て行ってしまった。
「これでいいの?」
 男の子は腕立てをしながら、そう呟いた。
 ベッドの影に隠れていた女の子がそっと出てきて、落ちてきた髪をサラリと掻き上げる。
 こちらも男の子に負けないくらいに背が伸び、けれど、女の子らしく綺麗な線の細さがあった。
 男の子が年齢の割にガチリとした線を描いているから、余計にそう見えるのかもしれない。
「ええ、ありがとう」
「何があったの?」
「別に」
 女の子は男の子の問いには答える意志がないことを示すようにそう答えて、ゆっくりとベッドに腰掛けた。
 誤魔化すかのように鼻唄を口ずさみながら、男の子が腕立てをしている様子を見つめている。
 男の子は気にも留めないように腕立てを繰り返し、区切りのいいところまで来たのか、しばらくしてからやめて伸びをした。
 ミカナギはそれを見つめて、目を細める。
 ……ああ、覚えている。この日は確か……。
「なんで、最近筋トレばかりしてるの?」
「え? みんなを護るためだよ?」
「ミカナギはトレーニングなんてしなくても、十分に強いじゃない」
「んー、オレ、才能とかそういうのの響き大嫌い」
「……どうして?」
「何の努力もしないで手に入れてるなんて思われるの癪じゃん」
「……努力なんて馬鹿らしいわ。センスというのは生まれながらにして幾分か持っているものだもの。その分を才能と言うのであれば、確かにそれはそうなのだから仕方ないでしょう」
「兎環は極論を言うよなぁ」
「ええ、だって、それは蔑むものではなく、誇りに思って良いことでしょう?」
「…………」
「才能がある人が能力を伸ばすことは努力とは呼ばないのよ。だって、楽しいんだもの。楽しいことを繰り返すことを努力だなんて呼ぶ? 呼ばないでしょう? だから、それすら楽しめる人は本当にその才能というものがあるってことになるのよ。能力の高さとかそういうものは関係なしに、ね」
「じゃ、オレは筋トレの才能があるんだな」
「……ふふ」
「 ? 」
「ミカナギはなんだって楽しそうじゃない」
「そうか?」
「ええ、そうよ」
 女の子はそう言うと、ゆっくり立ち上がって、男の子に歩み寄り、そっとしゃがみこんだ。
 男の子の頬に触れ、静かに目を細める。
「兎環、どしたのさ?」
「別に」
 男の子がその手に触れるよりも先に、女の子は男の子から離れるように立ち上がった。
「さてと……」
「どこ行くの?」
「部屋に戻る」
「ツムギ、探してるんじゃないの?」
「探させとけばよし」
「……変な兎環」
 ああ、全くだ。
 ミカナギは壁にもたれかかるような姿勢でその様子を見つめ、女の子が部屋を出て行くのを見て、少しばかり追いかけた。
 彼女は部屋とは反対側へと軽い足取りで歩いてゆく。
 背筋はしゃんとして、年齢の割に高い背がそれより更に高いように見えた。
 どこに行くのかは分かっている。
 だって、これから数時間後、彼女は高熱を出して寝込むことになるのだから。
 知ってはいるけれど、それを止めることはできない。
 すると、向こう側からママが歩いてくるのが見えた。
 姿など見えもしないのに、ついつい壁際に寄って様子を窺った。
 小柄なママは赤ちゃんハズキを抱いた状態で、少しだけ視線の高い女の子を見上げて話しかける。
「むぎむぎ探してたよぉ」
「ええ、知ってる」
「謝りたいって言ってたよぉ」
「謝るより、もう、あんなことしないって約束して欲しい」
 女の子は自分の腕をそっとさすりながら、少々怯えたような声でそう言った。
 それを見て、すぐにママが女の子にハズキを預けて、屈ませた。
 よしよしと慰めるように撫でるママ。
「させないわ。ママが、させないからねぇ。本当にごめんね」
「ママは、悪くないでしょう?」
「いいえ。ママが一番悪いの。だって、タゴル様の欲しいデータは……」
「……?」
「……あ、な、なんでもない。ママったら変ねぇ……」
「ママが変なのは、いつものことだけど」
「う……なんだか、そこまでストレートに言われると少し傷つくわねぇ」
「ママは変なのがデフォルトでしょう?」
「それは誉めてくれてるのかなぁ?」
「誉める? 貶してはいないつもりだけど」
「そう? ならいいのだけど……」
 ママがそう言いかけた時、女の子に抱かれていたハズキがぐずりだしたので、すぐにママは女の子からハズキを受け取り、慣れたようになだめる。
「すごいね」
「そう? だって、もう4人目ですもの☆」
「私たちも入ってるんだ?」
「覚えてないでしょうけど、意外とぐずりやすかったのはトワちゃんだったのよぉ?」
「え……?」
「ミカちゃんはいっつもぼーっとしてるだけ。手が掛からなくって、何をして欲しいのかが全然分からない子だったなぁ。喋るようになってからはそうでもないけど……あ、でも、やっぱり物分かりがよくてあんまり我儘言わないから心配なのよねぇ。どうせなら、トワちゃんくらい分かりやすいといいんだけど」
「ミカナギは……」
「ぅん?」
「ああ、うん、確かに分かりづらいかもね」
「あ、ちょっと、私には分かるもんって顔した、今ぁ。ずるいなぁ。対ってずるい」
「ずるいって……。対だって分からないことくらいあるし」
「それでもきっとママよりは分かるんだわ。羨ましい〜」
「ママって、ミカナギ大好きよね」
「え? うん、トワちゃんも大好きよ☆」
 のほ〜んとした口調でそう言うと、本当に楽しそうにママは笑った。
「みんな大好きよぉ。あ、でも、あれよね。わからないからこそ、楽しいってあるわよね? まるで、推理ゲームみたい」
「ママらしい」
「ふふ。あ、そうだ。ミカちゃんの大好きなチーズ蒸しパンホワイトチョコレートがけを作ったのよぉ……早く呼びに行かないと冷めちゃうわ」
「部屋にいたよ」
「ええ、わかってる」
「通信使えばいいのに」
「だって、それじゃ味気ないもの。あ、トワちゃんもどう?」
「遠慮する」
「そぉお? 結構今回は上手くできたんだけどなぁ……」
 年甲斐もなく、顎に人差し指を当てて、唇を尖らせるママ。
 その様子を見つめて、女の子はクスッと笑った後にママの脇をすり抜けていった。
「ミカナギが全部食べて、誉めてくれるわよ」
「トワちゃん?」
「おさんぽに行ってくる」
「…………。ええ、わかった。具合悪くなったらすぐ戻ってくるのよ?」
 ママはその時ばかりは母親の顔と声でそう言った。
 女の子は何も反応を示さなかったが、きちんとその声は届いていたことだろう。
 ミカナギは目を細めて、その様子を見つめる。
 女の子が角を曲がる。
 ママも部屋に向かって歩き出した。
 ミカナギは、どちらを追うわけでもなく、その場に立ち尽くしていた。



第七節  ママの大好きなもの


「美味い美味い」
 男の子は手に付いたチョコレートすら勿体無さそうに舐め取って口に含む。
 意地汚いといったような言葉などは、頭に1つも浮かびはしない。
 ママがその様子を見つめて嬉しそうにニコニコと笑う。
「ハウデル、ミズキを見ててくれてありがとう。休んでいいわよ」
「はっ……それでは、何かありましたら呼んでください」
「はぁい」
 17、8歳くらいの頃のハウデルに対して、ママは子供のように返事をして手を振った。
 その様子を見て、ハウデルは困ったように目を細め、コホンと咳をして外に出て行った。
「ハウデルも可哀想よねぇ……初めて派遣された先で任されるお仕事が子守りじゃ」
「へ? あれじゃん、ママが外出する時のお付きの人じゃないの?」
「ん〜? そうねぇ。そういうのも彼の仕事だけど、大体はこういう感じで子供の相手でしょう? 若いし、嫌じゃないかなぁと思って」
「別に、嫌ではないんじゃないの? ハウデル、子供の相手好きそうだし」
「好き? 笑いもしないわよ?」
「……単に困ってるだけなんじゃないの? 扱い方分からないとあんな感じなんだよ、きっと」
「ほほぉ」
「ん?」
「ミカちゃん、すごい」
 ママは本当に感心したようにわざわざ拍手までしてそんなことを言った。
 男の子はそう言われて困ったように顔を赤らめる。
「べ、別にすごくなんか……」
「あー、ダメダメ。こういう時はすげーだろって言ってくれなくちゃぁ」
「なにそれ?」
「ママの趣味」
「…………」
「ミカちゃんはいい男に育つのよ。もう、これは確定事項なのです」
「ママの言ういい男って、どういう男なの?」
 男の子は蒸しパンをかじりながらそんな問いをした。
 そう聞かれて、ママはうぅん……と唸り声を上げたが、なんとか自分の中で考えが纏まったのか、にこっと笑って話し出した。
「背が高くて、男前で、クール。それだったら、少し口が悪くても許すわ。ミステリアスな香りのある男がいいなぁ」
「…………」
「あ、これはママの理想ね? ミカちゃんに望んでるのは、そういうのじゃないから」
「うぅん……あのさぁ」
「ん?」
「ツムギとママの理想って……」
「あら、むぎむぎだってミステリアスな香りするじゃない。まぁ、男前じゃないし、クールでもないけど」
「……どっちかっていうとさ、タゴルおじさんのほうが、ママの理想にぴったりだよね?」
 男の子が何気無く言った言葉に、ママは珍しいほど大袈裟に動揺を示した。
 持っていたフォークがお皿の上で弾んで、カチャカチャと音を立てる。
 顔が一気に赤くなっていった。
 男の子が怪訝そうにそれを見つめる。
「や、やぁねぇ……ミカちゃんったら。ミカちゃん、理想の相手と結婚する相手っていうのは、必ずしも一致するとは限らないってどこかで読んだことあるわよ、ママ。女の子はね、夢見がちだから、仕方ないんですって」
「…………」
「あ、それでねー、ミカちゃん。ミカちゃんになって欲しい良い男像はねぇ……女の子に優しくって、頼り甲斐があって、なんにでも一生懸命で、熱い男の子よぉ。自信過剰でもお調子者でも、口と行動が伴う男の子になって欲しいなぁ」
 無理矢理話を逸らすようにそう言って、ママはニコニコニコニコと通常の倍ほど増量した笑顔を男の子に向けている。
 彼女なりの精一杯だったのだろう。
 なんだか、今頃にして、その様子を見て分かる部分だった。
 ミカナギはその様子を見て苦笑を漏らした。
 ママの必死に誤魔化そうとした感情とか、素振りとか、そういうのが……この先、一番最悪な形で明るみに出てしまうわけだけれど、それでも、……自分はママを責められずにタゴルだけを憎んだ。
「……ママの理想とは真逆だね?」
「ふふ……そうねぇ、真逆ねぇ。でも、真逆のほうが、きっと、誰かを幸せに出来る人なんだろうなって思うの」
「…………」
「トワちゃんを、幸せにして欲しいから」
「……兎環とオレは、対なだけだよ」
「ふふ」
「何?」
「むぎむぎもトワちゃんも、同じように一笑に伏すのよねぇ。でも、ママには分かるんだ」
「何が?」
「…………。秘密☆」
 ママは男の子を見つめていたが、すぐに口元に人差し指を当てて、軽くウィンクをしてみせた。
 本当にそれ以上は言う気はないらしく、先程落としたフォークを握って、チーズ蒸しパンを口に含むママ。
 男の子は唇を尖らせてその様子を見つめている。
「……また、明日から少しの間出払うから、ハズキの面倒よろしくねぇ」
「また?」
「そんな顔しないで。ママねぇ、世界を元に戻したいの」
「元に戻す?」
「ええ。見上げれば、真っ青な空がどこまでも広がっていて、白い雲が風に吹かれて形を変えながら流れてゆく。ミカちゃんは見たこともないでしょうけどね……その色のコントラストは、まさに奇跡よ。もしも、ホントに世界を創った神様という存在が在るのだとしたら、それは本当に優れた芸術家だったに違いないわ」
「…………」
「どんな色とも合う、果てのない青なの。……あら、まるで、ミカちゃんみたいねぇ」
 ママはそう言うと、コロコロと笑う。
「綺麗な空気があればこそ、空は青い光を放つんですって」
「それと出掛けることに、どういう関係があるの?」
「ん? あは〜。出掛けるのはね、ママの、自己満足……かな」
「え?」
「……意味分からないね……」
「うん」
 キッパリと男の子が返事をすると、ママも苦笑を漏らした。
 けれど、それ以上は何も言わずに、テーブルに視線を落とす。
 男の子が追及するように口を開こうとしたが、何かに呼びかけられたのか、何も言わずに周囲を見回した。
「ミカちゃん?」
 ママの声など無視をして、部屋を飛び出していく男の子。
 ママはそれを追うこともせずに呆気に取られてドアを見つめていた。
「片想いなのよ……ミカちゃん……」
 しばらくしてから、そんなことを呟くママ。
 その言葉は、聞いてはいけないような気がして、ミカナギはだいぶ遅れて男の子を追って、部屋を出た。
 男の子がどこにいるかなんて分かっている。
 だから、迷うことなく走って、外へと出た。
 ピカリと一瞬強い光が発生し、ミカナギの頬を羽根が掠めていった。
 左を向くと、男の子が女の子の体を抱き留めて、あやすように髪を撫でている。
「なんで、外になんか……」
「月を、見たくて……」
「馬鹿」
「月は……見られなかったけど……月色をした髪の子に会った……」
「……わかったから戻ろう。早く処置してもらわないと」
「気持ち悪い」
「自業自得だろ?! オレがツムギに怒られるんだからな」
「ん……」
 青い顔で俯く女の子を見て、眉をへの字にすると、男の子は仕方なさそうに女の子を背負ってタタタッとプラントの中へと入っていってしまった。
 ミカナギはそれを見送った後、塔から夜空に伸びている虹を見上げて目を細める。
 スモッグは今日も濃くて、月なんてどこにも見当たらない。
 虹が代わりになるかのように照らす大地は、なんとも不思議な色を反射して、ミカナギの目に映った。




*** 第十章 第五節 第十章 第八節・第九節 ***
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