第十三節  仕方ねーじゃん。もう、どうにもならねーんだから。


 男の子が疲れ切ったような表情で廊下を歩いていく。
 あの事故から、もう2日経った。
 ツムギの容態は予断を許さない状態で、気なんて全く休まらない。
 そのうえ、ケイルまで行方不明と来ている。
 状況は明らかに混乱していた。
 その状況の中で、1つだけ分かりきっていること……。
 男の子は悲しそうに目を細め、息を吐き出す。
 何度もそれを繰り返して、気を取り直そうとするように。
 意識を取り戻さないツムギの傍には女の子が寄り添うように付き添ってくれている。
 シャワーを浴びたら交替しに行こうと考えながら、あの時はふらふらと歩き続けた。
 服も変えて、体だって洗ったはずなのに血の臭いが消えないのだ。
 手術のためにツムギが連れ出された後、必死になってママの肉片を集め続けた。
 一体、それはどこの部分なのか、そんなことも判断がつかないほど粉々に吹き飛んでしまったママの体は、部屋に見受けられる全てのものをかき集めても……体の2分の1の量にも満たなかった。
 込み上げてくる酸っぱいものを飲み込みながら、自分の手で拾い集める。
 その様はきっと誰かが見ていたら、本当に異常な光景だったと思う。
 けれど、清掃道具で処理されてしまうことだけは避けたかったのだ。
 愛する人の体をそんな風に扱って欲しくなかった。
 ただ、弔いを済ませて、墓の中に納めるまでは……ママの人としての格を保ってやりたかった。
 男の子はぼーっと廊下の先を見つめる。
 いつもならば、その先からひょっこり現れるその人が……この世界のどこにもいない。
 それを自認するのに、一体どのくらいの時間がかかるのだろう。
 ミカナギは男の子の一挙一動を見つめながら、あの時の自分の心情を思い出していた。
 考えれば考えるほど、頭の中はグルグル回って、次の瞬間込み上げてくる吐き気に口を覆った。
 そのまま戻すのはやばいと……必死に駆けて、シャワールームへと入る男の子。
 入ってすぐに蛇口を捻り、込み上げてくるものをそのまま吐き出した。
 胃と喉にいくらかの痛みを伴いながら、ブツブツしたものが口外へと飛び出していく。
「ッ……オエェ……」
 思わず声が漏れたが、シャワーの音でそれはいくらか和らいだ。
 酸っぱい臭いがシャワールーム内に蔓延する。
 シャツもジーンズも水に濡れてしまい、仕方がないのでそのまま服を脱ぐ。
 シャワー使用中に切り替えて、臭いが全て消えるまで誤魔化すように自分の体を洗って、弱気になりそうな自分に発破をかけた。
 手にはもうママの血の跡など残ってもいないのに、残っているようにうっすらと浮かび上がる。
 脳裏に絡み付いてくる嫌なものを必死で振り払って、あの時、自分は自分を保つために必死だった。
 パーツなのだ。
 何者にも替えられない。
 代替などできない、自分の世界を完全に構築するための人。
 気持ちだけは昂ぶって、落ち込んで、確かにそこにあるのに、涙は出ない。
 出てこない……。
 1人の時ならば、泣いてもいいのに、出もしない。
 哀惜の念はあるのに……。
 表現しきれないほど、自分の中にはたくさんの感情があるのに。
 ……そんなことを思いながら、シャワーに打たれたことを思い出す。
「ミカナギ」
 シャワー室には誰もいないはずなのに、そんな声がした。
 ビクリと男の子が体を震わせる。
 けれど、すぐにそれが何かわかった。
 女の子が強制的に回線をねじ込んで、男の子の所在に声を掛けてきたのだ。
「…………。なんだ?」
 少しばかり気を落ち着かせるように呼吸を繰り返してから返事をする。
 嫌な予感しかない。
 強制的に回線を開くなんてのは、急ぎの用でしかありえないのだから。
「……ツムギが目を覚ました。早く来て。……話があるって」
「……話なんてしてる場合じゃないだろ? 強引にでも休ませろよ」
「…………」
「兎環?」
「早く来て」
 女の子の声が微かに揺れる。
 それで察する。  嫌な予感は的中だ……。
「くっ……」
 男の子は悔しそうに声を漏らして、着替え用の棚から服を取り出して着ると、シャワー室を駆け出した。
 ミカナギもその後を追う。
 困ったことに、廊下を走るこの間に、自分はもう覚悟を決めてしまっていた。
 いや、決めるしかなかったのだ。
 自分しか、みんなを支えることは出来ないから。
 世の中にはたくさんの理不尽なことが存在していて、それは無意味な差別だったり、気持ちはあっても何ひとつ解決することが出来ない問題だったりする。
 『死』というのは、その中の1つなのだ。
 だから、仕方ない。
 頑張ってどうにかしようとして、でも、結局結果が全て報われるかと言われたら、それは違う。
 無理なんだ。
 仕方ない。
 世界は理不尽という事柄に偏って構成されているのだから、それは仕方のないことなんだ。
 きっと、この世界を創造した神様なんていうものから見たら、『生』があれば『死』があって当然だなどというのだろう。
 コンピュータの世界の『1』と『0』。
 世界の構成物質はそれに似ているのかもしれない。
 間はないのだ。
 たくさんたくさん、間を作り出して、そんなことはないと言ったところで、その作り出したもの全ては『1』なのだから。
 在るものが失われる。
 無いものが創造される。
 その2つの事象がたとえ等しく存在していたって、在るものが失われることの衝撃ほど大きなものは、きっとない。
 ならば、その衝撃に耐えるために自分はどうすればいい?
 耐えられなくてもいい。
 ただ、みんなを護るために、自分を保てればそれでいいのだ。
「仕方……ねーのか……」
 男の子は静かに呟いた。
 ミカナギは眉根を寄せてそれを見つめる。
 保つために、自分は見つけ出した。
 ……その言葉を……。



第十四節  生きるには目的が必要だ。


「もう……そんなに長くないだろう……。話せるだけ……話すよ……」
 軽い口調で、ツムギはゼェゼェ息を切らしながらそう言った。
 女の子が覚悟したように唇を噛み締めて、男の子の手をそっと握ってきた。
 男の子もそれに応えるように握り返す。
 ハズキとミズキがベッドにすがりついて、泣いている。
 チアキの父親も、部屋の隅でそれを見つめているだけだ。
 手は尽くした。これ以上はどうしようもない。……すまない……。
 部屋に入ってすぐにくぐもった声でそう言われた。
 ミカナギも彼と同じように部屋の隅でその様子を見つめる。
「ミカナギと……トワに……お願いしたいことがあるんだ……。お前達にばかり、たくさんたくさん背負わせてしまうこと、本当に済まないと思っている……」
 2人はその言葉に、すぐにベッドの傍へと歩いていく。
 どんどん声が小さくなっていくのがわかったからだ。
「3つ……」
 そう呟いてすぐに息が切れるツムギ。
「ケイルを……探してくれ」
 苦しそうに息をしながら、ツムギは言う。
 ママの子でありながら、自分の子でない子供を、ツムギがどのような目で見ていたのか。
 それは当人亡き今ではどうにも出来ないけれど、一番最初の言葉として、あの子の名が出てきたことを考えれば……、それはとても尊い愛情があったのだろうと思う。
「あの子はどこかに飛んでしまっただけのはずだから、どうか探して、兄に返してあげて欲しい」
 所長と副所長。
 兄と弟。
 区画も遠いから、色々な確執があるのだろうと人々には言われていたようだったけれど、2人の意見が真っ向から対立しているだけのことで、ツムギ自身は兄のことを疎んじたり、蔑んだりなどはしていなかったように思う。
 1人の人間として、尊敬をしながらも……けれど、同じ人を挟んで、2人は別の方向を見ている。
 きっと……そんな関係だった。
「兄に謝っておいてくれ……。わたしはあなたの考え方とは添えないけれど、それでも、あなたを大切に思っているのは嘘じゃない、と。……もう、怒ってなどいない、と。その証に、あの子と年が近いハズキを養子として預かってもらってくれ」
 ツムギは息を切らせながら、必死に喋る。
 もう、死が見えているかのように、焦ったように口を動かしていた。
 ハズキが、父親のその言葉に微かに動揺したのが見えた。
 泣きながらも、驚いたことに、彼はミズキ以上に父の言葉をきちんと聞いていた。
「……それと、トワには申し訳ないけれど、兄の研究の手助けをしてあげて欲しい……」
 悔しそうに苦汁の決断を漏らすツムギ。
「兄の区画に行く機会ができれば、ハズキにも、会う機会が作れるだろうし」
 女の子が悲しげに眉を寄せ、けれど、場を弁えているからか、苦しそうに息を飲み込んだ後、コクリと頷いた。
「世界のツケを……わたしたち兄弟の罪を……全て子供であるお前達に託そうとしていること、本当に情けない」
 ツムギはそこで少し咳き込む。
「ミズキ、ハズキ……2人の言うことをよく聞きなさい。それから……ハウデルを困らせないように」
 ツムギの言葉にミズキもハズキも頷く。
 ツムギの左手が2人の頭を順番に撫でた。
「ミカナギ、トワ……。僕は遺伝子的には君たちとは何の繋がりもないけれど、それでも、ミズキとハズキ同様に……大切な子だから。君たちがくれた毎日は、サラさんだけじゃない……僕だって、とても幸せだったよ……」
 ツムギの手が求めるように彷徨う。
 だから、女の子は男の子から離れて、ツムギの手を取った。
「トワ……」
 ツムギの表情が微かに緩む。
 長い髪を愛しそうに撫で、撫でられた女の子は必死に涙を堪えるように口を一文字に結んでいる。
「兄が、どうしても、あの考えから折れてくれない時は……その時は……お前達が……このプラントを破壊してくれ」
「え?」
 女の子が不可解そうに声を漏らす。
「ミカナギの右目に……今回、サラさんに使おうとしたデータコードの情報が埋め込んである。念のため、更新しておいたから、最新バージョンだ」
「何を……言っているの?」
「トワの翼が虹を開く鍵ならば……ミカナギの右目……は、その、翼の真の力を……引き出す……鍵……」
「……ツムギ……」
「翼は……あの虹の構成を変える……唯一の力を、持って、る……虹の持つ清浄な力が、この、プラント、の源…………サラさんは……それを操ることの出来る唯一の人だったんだ…………彼女と、あの虹の力を見つけたことで……僕らはプラントを造ることが、でき、た……けれど……それによって、世界は……破壊もされないけれど、修復もされないものに変わってしまった……バランスを、崩して、しまったんだ……兄と、僕が……。このプラントを見れば……分かるだろう? 僕とサラさんがどうしたかったのかわかるだろ?」
 男の子がポソリと言った。
「青い空……」
 それは、ママが言っていた……ミカナギに見せたいと言った世界だ。
 その声にツムギは安堵したように笑った。
 その笑顔を見つめて、女の子が静かに問う。
「失敗したら、ママみたいになるんじゃないの?」
「……ああ……。けれど、成功しても、お前達は助からない……」
 その様子から察するに、ママならば成功すれば死ぬことはなかったということだ。
 オリジナルなのだから当然……というところか。
 結局、コピーはコピーでしかない。
 能力を全て完全にコピーできたわけではないということか。
「お前達は、僕を恨んでもいい。はじめは……それだけが、目的だったのだから。彼女を失うリスクを……怖れて……僕が提案した……」
「っ……」
「けれど…………駄目だね。人間ってのは……。そして、何よりも計算外だったのはサラさんだ……どうせ造るなら、自分の子供がいいって……そう言ったんだよ。……彼女は、はじめから、お前達を犠牲にする気なんて……なかったんだ…………」
 ツムギの手が力を失ったようにポトリとベッドに落ちる。
「……そう……なれば……成功、すれば……僕、たちの、理想郷は……すぐ、そこの、はず、だった……のに……。……サラさん…………兄さ…………」
 そこでツムギの呼吸が途絶えた。
 女の子が狼狽したようにツムギの手を掴んで叫ぶ。
「ツムギ!? ツムギ!!」
 ハズキもミズキも先程まではすすり泣いていたのに、もう状況を理解するキャパシティがないのか、完全に思考が停止したような表情でそれを見つめていた。
 男の子は唇を噛み締めて、必死に自分を保とうと表情を歪ませる。
 チアキの父親が歩み寄ってきたので、男の子は女の子の肩を抱いて、横にどいた。
 ツムギの脈を診て、瞳孔の開き具合を確認すると、険しい表情で言った。
「…………残念だが…………」
 その言葉で十分だった。
 チアキの父親は時計を確認して、カルテにそれを書き込むと、悔しそうに涙をこぼした。
 室内は悲しみだけに包まれる。
 その中で、男の子だけが……前を見つめている。
 ミカナギはそれを確認して、部屋を出た。
 生きるには目的が必要だ。
 ミカナギもトワも、その生きる目的は、ツムギとママだった。
 それが失われた後、2人が存在することにどんな意味があるだろう。
 ……あの瞬間、決して戻ることのない命が消えた。
 目的も消えた。
 けれど、命が途絶える前に……彼は、新たな課題を与えていったのだ。
 まるで、ミカナギの習性を見透かしたかのように。
 生きるには目的が必要だ。
 たとえ、それが人から押し付けられた、無味乾燥な悲しい目的だったとしても……ゴールがどこかにあると分かれば、生きることが出来る。
 たとえ、行き着く先が『死』だったとしても……。
「……ごめんな、兎環……」
 ミカナギは静かに呟いた。
 詫びても足りない。
 あの頃の自分が導き出したその答えは、容易に……彼女を傷つけることになった。
 彼女には、あったから。
 口にはしなくとも、彼女の中では、ツムギとママと、そして、ミカナギが……生きる目的だった、から……。
 それに気付いたのは……旅立ちの、あの日だったのだ……。




*** 第十章 第十一節・第十二節 第十章 第十五節 ***
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