「本当に行くんだ……」
 ハズキがつまらなそうに唇を尖らせてそう言った。
 だから、男の子(もう男の子という年齢ではないが)はすぐに朗らかに笑って、彼の頭を撫でる。
「お前が呼べば、飛んで帰ってくら」
「お兄さんミカナギは最強だから?」
「そうそ♪」
 男の子の笑顔を見上げて、ハズキは困ったように目を細めた。
 昔なら我儘放題だったのに、それ以上彼は何も言わない。
 タゴルの養子になってから、彼は随分と大人しくなった。
 正直、彼のアクティブさはミズキには絶対的に含まれていない要素であったから、それが影に潜んでしまったことを残念に思う。
 ミズキはまんまツムギの息子、といった印象が、最近少しずつ見え始めてきたところで、そう考えると、ハズキの持っていたアクティブさはおそらくママ譲りだったのではないかと思うのだけれど……。
「……別に、僕はなんにも困らないから、トワのために帰って来てやんなよ」
「……兎環ねぇ……アイツ、餞別はくれたものの、むくれたままだからなぁ……」
「……それは当然だよ」
 男の子の困ったような言葉に、ハズキはニッと笑ってそれだけ言った。
 その笑顔を見て、すぐに男の子が気にくわなそうにむにょーんと頬を伸ばす。
「いはい……!」
「ダメダメ。そういう笑顔覚えちゃダメ!」
 そう言ってバチコンと指を離す男の子。
 ハズキは頬をさすりながら不思議そうに首を傾げる。
「目が笑ってねぇ! オレはそういう笑顔が大っ嫌いだ」
「…………」
「お前がそんな笑顔すんな」
「……うん……」
 少し俯いて静かに返ってきた声に、男の子は満足そうに白い歯を見せて笑うと、軽く手を振って踵を返した。
「んじゃ、行ってくら」
 どこまでも朗らかに、男の子はそう言うと、大股でタンタンと足音をさせて歩いていってしまう。
 ミカナギはそっとハズキを見た。
 外はねの黒髪をサラリと掻き上げて、はぁ……とため息を吐く。
「トワ……来てくれないかもな……もう……」
 そう呟いて、男の子の背中を見送ると、部屋へと戻っていった。


第十五節  鈍感・最悪・意気地なしのとーへんぼく


「よく行けるものだな」
 あの男が、旅立とうとしていた男の子の前に立ち塞がって蔑むようにそう言った。
 男の子は旅支度を整えたバッグを持ち直して、ただタゴルを睨みつける。
「何の用だよ? 用がねーなら、どけよ。顔見るだけで吐き気がすら」
「その吐き気のする男のガキを探しに行く気分はどうだ?」
「ケイルには罪はないんでね。……それに、アイツはオレの弟でもあり、息子のようなもんだからな」
「クッ、人間を気取るか」
「オレにそういうこと言うのは構わないけどね、ぶん殴るだけだから。でも、オレのいない間にトワに何か余計なこと言ったら、容赦しねーぞ」
 男の子はドスの利いた低い声でそう言い切ると、すぐに彼の脇をすり抜けて、外へと出ていこうとした。
 通り過ぎる瞬間、タゴルは低い声でボソリと囁く。
「死ねと、言ったお前よりも酷いことを言えるものなら言ってみたいものだ」
 その言葉で立ち止まる。
 横目で横顔を見やると、おかしそうにタゴルは顔を歪めてこちらを見ていた。
「自分のことを慕っているのを分かっている女に、一緒に死んでくれと言う気分はどうだった?」
「慕って……? アイツはオレの対だ。好きなのは当然だろ」
「兄弟でさえいさかうのだぞ。好きなのが当然などということはありえんさ。……まぁ、遺伝子の基礎が全く同じ存在でありながら、求め合うのであれば、それはどれほど愚劣な生き物かと思ってしまうがな。それは仕方あるまい。お前達は人間ではないのだからな。所詮、モルモット……家畜同然だ」
 男の子はその言葉を聞いた瞬間、タゴルの顔を思い切り殴りつけた。
 ドロリと頭の中に血が落ちるイメージ。
 目が怪しく光を発する。
 男の子は右目を押さえて、必死に堪え、タゴルを睨みつける。
「トワに言いやがったら、許さねぇぞ!」
「そうやって、感情のままに手が出る。思考の足らん証拠だ」
 ギリッと奥歯を噛み締め、男の子はタゴルの襟を掴んで、思い切り締め上げ持ち上げた。
 タゴルが苦しそうに顔を歪める。
「大切って感情すらねーヤツに、そんなこと言われたくねぇよ!」
「大切? お前はあの娘が大切なのか? ならば、どうにも腑に落ちんな。なぜ、あのような理不尽な約束を果たそうとしているのか」
「大切な人の残した遺志だからだ」
「そのためならば、死んでもいい、と? お前はよかろうな。自分で選び取ったのだろうから。だが、それをお前から告げられた相手はどう思ったろうな?」
 その瞬間、男の子はビクリと体が反応して、手の力を弱めた。
 タゴルがその隙を見逃さずにパンと手を払う。
 そして、踵を返して歩いていってしまう。
 ただ、最後にこう付け加えて。
「ツムギの遺伝子なぞ一切使っていないくせに、お前はそういうところが一緒だな。大切だ何だと言いながら、実際命に関して何も分かってはいない。綺麗ごとを言うのはさぞかし気持ちがいいことだろう。だが、結局お前達がしていることも、私とさほど差はない」
 あの時、ドクンドクンと脈打つ体を押さえ込むので必死だった。
 タゴルの言葉が頭から離れない。苦しい。
 今見てもそうなのだ。実際、言われた本人はどう思った?
 ツムギの残した約束を果たして、ママの願いを叶えてあげよう。
 自分はそのようなことを彼女に言った。
 当然彼女は嫌がった。
 なぜなら、その願いが叶う時、ミカナギもトワも、もうこの世にはいないからだ。
 その願いは命と引き換えに叶えられる。
 あの虹の不思議な力を利用して世界を救う代わりに、自分達の命は消える。
 彼女に決意を伝えた時、なんとも思わなかったことが、タゴルの言葉でリアルになった。
 彼女はあの時、泣いたのだ。
 泣いて、3つ目だけは絶対に嫌だと言った。
 当然かと。自分は思っただけだった。
 対なのに、気がついてやれなかった。
 どれだけ残酷なことを、自分は言ってしまったのだろう。
 ママは、自分に彼女を護れる優しい男の子になるように、と、いつも言っていたのに、自分はなんてことを彼女に言ってしまったんだろう?
 死んでくれ。
 そう言われるだけだって辛いだろうに。
 死ぬためだけに造られたのだと、それを知っただけでも苦しかったろうに。
 決断をしなければ、それが叶うことはないと、防波堤だったはずの自分の言葉で、彼女はどれだけ追い詰められただろう。
 気がつくのが遅すぎた。
 先程、旅立ちを告げに行った時のことを思い出す。
『なぁ? 兎環?』
『なに?』
『オレたちにしか、出来ないんだぜ? それって、すげーことじゃん』
『…………』
『誇っていいと、思うんだ』
 何が……誇りだ……。
 彼女が泣いたのは……そういうことじゃない。
 勿論、死ぬのも怖かったろう。自分だって、少しは怖いのだ。彼女はもっと怖かったはずだ。
 けれど、そういうことじゃなかったのだ。
 自分が……彼女に対して言ったことが、何よりも、彼女の涙を呼んだのだ。
 ずっと傍にいたのに。
 対として、何よりも分かり合って、大切なのだと感じていた存在のはずなのに。
 それよりも、よく分かりもしない世界を選択した自分の言葉が、彼女を傷つけた。
 対なのに、秤に架けた後、選び取ったものが世界だったから。
 そして何よりも、自分自身が、ママがいないなら生きていたって仕方がないなんて言ったから。
 男の子は先程女の子からもらった麻のマフラーに触れ、眉根を寄せた。
「バカだ……」
 一言呟いて、けれど、彼女の部屋にもう一度行くという選択肢は取れなかった。
 ……自分は、どこまでも、意気地がなかったのだ。




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