第五節  心に損傷を負いました。


「ふっわぁぁぁあ。ねみ……」
 昼もとうに過ぎているというのに、大きな欠伸をして、本当に眠そうな声を上げる氷。
 目に掛かる銀の髪を掻き上げて、だるそうに目を細める。
 暇で仕方ない。
 暇で暇で仕方ない。
 退屈だ。
 力をコントロールできずに、部屋に閉じ込められていた幼少期、部屋さえ出られれば、この満たされない空虚感は埋められるものだと信じていた。
 けれど、結局、閉じ込められる器が変わっただけで、世界が少し広くなった程度では何も変わらない。
 暇つぶしはいくらでも出来る。
 だが、それが心を満たすか?
 満たしなどしない。
 一瞬脳が蕩けて、忘れる瞬間があるだけだ。
 それは満たされているとは言わない。
 あの男との喧嘩だってそうだ。
 パッと弾けて、悔しさに血圧が上がっても、それだけだ。何もない。
 ……ただ、満たすものがあるとするならば……。
 氷はそこまで思考が行って、ピタリと止まる。
「なに、オレ、乙女チック?」
 そんなことを呟いてふっと噴き出す。
 いや、笑わずにいられるか。
 鳥肌が立つ。自分にそんな温かい感情は要らないのだから。
 先日会った不安定な彼女を思い出した。
 彼女は……自分を全く見ない。
 初めて彼女に会った時の、あの笑顔は、自分には向けられることはないのだ。
 思い悩んだような表情で、こちらを見上げても、その前にいる者など見えてもいない。
 自分ならば、あんなの御免被るはずなのに。
 心は言うことを聞かない。
 なぜか、あるはずもない誠実さが……彼女の前でだけほんの少し顔を出す。
「待てって……もう少しまったり行こうぜ。ほら、話しよーぜ、兎環ちゃん☆」
「……はぁ……」
「な、なんだよ」
「あなたのノリについていけないの」
「……今日、機嫌悪ぃよなぁ……」
「昔からそういうあなたのノリにピッタリはまったことはなかったはずだけど」
「ああ、それはそうなんだがさ」
 前方から歩いてくる2人に気が付いて、氷は思わず角を曲がった。
 壁にピッタリ背中を貼り付けてピンと立つ。
 ……何、隠れてんだよ……!
 突っ込んでももう遅い。
 今更、普通にしようとしてもださいだけだ。
 偶然を装って顔を合わせるなんていうのも却下だ。
 できるか。馬鹿のすることだ、そんなの。
 そこまで必死な自分は気持ち悪い。反吐が出る。
 そろっと壁から顔を出し、こっそり覗いた。
「なんつーか、記憶取り戻したよ! やっと帰ってきてくれたのね、私のハニー♪的なノリを少しばかり期待したりするわけでね」
「……馬鹿?」
「う……」
「思い出そうが思い出すまいが、目の前のあなたは間違いなくミカナギで、それ以外の何でもなかったわ」
「じょ、冗談の通じねぇ女だなぁ……」
 ミカナギのその言葉にトワはただ長い髪を掻き上げただけだった。
 ミカナギはその様子を見つめて、少しばかりしょげるように肩を落とす。
「……オレは、単に、お前が記憶のあるオレのほうが好きかと思ったから……思い出したってわかった時の反応が淡白だったなぁと、そんなことが気掛かりだったするわけなんだが」
「…………」
 今度はトワが肩を落とす番。
 それはほんの微かで、眉を八の字にして悲しそうに顔を歪ませただけだった。
 その表情は後ろをついてくるミカナギには見えず、氷にだけ見えた。
『……綺麗……欲しいなぁ……』
 突然、そんな声がした。
 勿論、それは自分の頭の中で。
 彼女はほぅっと顔を赤らめて、可愛らしく笑ったのだ。
『外に出られないから渡せないや。それにすぐ溶けちゃうんだ』
『欲しいものって……こう、手を伸ばして掴もうとすると、すり抜けてく印象ある。……だからかなぁ』
『何が?』
『何も期待してないの』
『 ? 』
『期待してないけど、欲しいって思っちゃうんだ……矛盾してる』
 ドクン。
 鼓動が耳の中を跳ねた。
 あの時、笑いながらも、彼女は悲しそうにそう言った。
 綺麗な少女の表情は、どれを取ってもやっぱり綺麗で、彼女のその表情ひとつひとつに、確かに自分の心は温かくなった。
 知ってるか?
 ずっと、待ってたって知ってるか?
 夜に、窓の外を見ていれば、いつかまた、白い翼の天使が、目の前に現れるって……。
 まだ、穢れを知らなかった自分は……信じて疑わなかったんだ。
 白い部屋の中で、氷柱と冷たい空気に包まれる部屋の中で……、ただ、窓の外を見つめて、ぼんやりと待っていたんだ。
 氷はグッと奥歯を噛み締めた。
 静かに踵を返す。
「チアキちゃん、ひやかしにでも行くか」
 少しだけちゃらけた声でそう言って、ポケットに手を突っ込んだ。
 肩を竦めて軽快な足取りでその場を後にする。
「心に損傷を負いましたって言ったら、わたつくかねぇ」
 そんなことを呟いて、氷はふっと笑いをこぼした。



第六節  お前、誰だ?


 ミカナギとトワはしっかり並んで膝をつき、2人の墓の前で頭を垂れた。
 10年振りの2人揃っての墓参り。
 きっと、ママがそこにいるとしたら、嬉しそうに笑っていると思う。
 だって、誰よりも、2人がこういう関係になることを望んでいたのは彼女だったから。
 ……でも、少しばかり、ねじくれた状態でそうなっているような気がして、トワの気持ちはまだすっきりしない。
 想いに任せたのは自分だ。
 それは後悔していない。
 ただ、タイミング悪く、彼がその後記憶を取り戻したこと。
 それが、どうにも……自分は気に食わないらしい。
 それも仕方ない。
 取られるのは嫌だから。
 もう、どこにもいないくせに。
 それで取られたら……自分が生きている意味って何だろうと思わざるをえない。
「たとえ、間違いでもさ」
 ミカナギは静かに口を開いた。
 トワがその声に不思議そうに顔を上げた。
 ミカナギは頭を垂れたまま、2人に告げる。
「……こんな理不尽な約束受けなくちゃならねーんだ。どんなに間違ってても、好きな女選ぶ自由……それぐらい、あったっていいよな?」
 その言葉にトワが悲しそうに目を細める。
「……約束、やっぱり、果たさないと、ダメ?」
「果たすんだ」
「っ……」
「でも、絶対に死なない」
「ぇ……?」
「だって、オレ達、まだ……まだまだ、見てない世界も知らない世界も山ほどあるじゃねーか」
 ミカナギは紅玉のように綺麗な赤い目をこちらに向けてきた。
 真っ直ぐにトワを見つめる。
 その目の中に……ママがいるなんて、そんな不安を感じさせる隙もなく、淀みのない色だった。
 あまりの真っ直ぐな視線に、カァァッと顔が赤らむ。
「オレは……ママの見せたいって言ってた青い空をお前と見てみたい」
「……うん……」
「……オレは、お前に外を見せてやりたい。もっと広く、もっと遠くまで、どこまでもどこまでも、連れて行ってやりたい」
「………………」
「だから、変えなくちゃいけないんだ。……このままじゃ、それも出来ないから」
 そんなに頼りになる眼差しで、自分だけを想って、彼が言ってくれている。
 そう思った瞬間、記憶を取り戻したと聞いて抱えた不安と、心に広がった拗ねの感情が、とても恥じ入るべきもののように感じた。
 記憶を取り戻しても……彼は全てが過去に戻りはしなかった。
 もしもこうだったら。
 そんな望みの塊のようだった彼の心の中には、本当に、今度こそ、ママはいないのだ。
 記憶のないまま、自分の理想を叶えた状態で……、自分に対して真っ直ぐになった彼がいればそれでいいと思ったけれど。
 その思いは撤回する。
 ……彼は、1つに戻ったのだ。
 バラバラのものが場所を取り合うんではなく、1つに収束した。
 トワは髪を掻き上げて立ち上がった。
 ミカナギもそれに倣うように立ち上がる。
 トワはそっとミカナギの手を握って、澄んだ声で言った。
「お望み通りよ、ママ。これで満足でしょう?」
「な……なんだよ、急に」
 ミカナギが驚いたように目を見開いたので、トワはそれに対して、ふふ……と微かに笑いを返すだけ。
 そして、踵を返す。
「さって、行きましょうか」
「ん、あ、ああ」
 スタスタと歩いていく2人。
 すぐに埋葬エリアを抜けて、白い空間へと戻った。
「そういえばさ、兎環、オレたちっていくつになるっけ? 誕生パーティーとかねーからよくわかんねーよな」
「天羽にはやってあげてるわよ。ミズキは優しいパパだからね」
「へ、へぇ……いいな」
 ミカナギは心からそう呟いたようだった。
 トワはそれが聞こえてピタリと立ち止まる。
「…………」
「あ、や、冗談……どう考えても、もうすげー歳だろうしな……だって、ミズキですら25じゃ……オレたち、30……く、らい……」
「いいんじゃない?」
「へ?」
「やりましょ。最近、あんまり皆と話してなかったし。丁度いいじゃない」
「え? だって、オレたちは……」
「まだ、帰還おめでとうパーティーも、アインス復活おめでとうパーティーもやってないわ」
「…………」
「盛り上がり好きのミズキが嫌がるとも思えないし、いいじゃない」
 トワはとても優しい目でそう言った。
 なんというか、彼が羨ましそうに声を上げることなんてそうないから、逃してはいけないように思ったのだ。
 ママも言っていた。
 手の掛からない子で、あまり欲目を出すような子じゃないから、時々、何を考えているかわからなかった、と。
「それ……ハズキとか、誘っても平気か?」
「……むしろ、それが出来るのはあなたしかいないと思うな」
「……アイツの区画って、通り道だよな……?」
「ええ、寄ってく?」
「ああ」
 迷いもなく頷く彼を見て、トワはふわりと微笑んだ。
 こんな言い方、本当は良くないかもしれないけど、彼ならば、何もかも変えてくれるような……そんな気がする。
「あ、ハズキといえば……」
「 ? 」
 ミカナギは思い出したようにポケットをゴソゴソと漁り、白くて薄いプレートを取り出した。
「何、それ?」
「やる」
「え?」
「アイツからもらったんだ。ツヴァイが届けてくれて」
「…………」
「お前が喜ぶもんだよ」
 ミカナギはそう言って優しく笑うと、プレートの裏側にあるボタンを押した。
 すると、ふわりと月の映像が浮かび上がった。
 それを見て、トワが目を見開く。
「アイツなりの思いやり。オレに寄越せば、お前に届くからな」
「…………」
「これの礼も言わなくちゃな」
 トワの手にしっかりと握らせて、ミカナギはニッカシ笑った。
 トワは目の前で光り輝く銀色の月を見つめて、見惚れるように目を細める。
「綺麗?」
「ええ」
「それはよかった」
 ミカナギはまるで自分が誉められたかのように嬉しそうにニヒヒと笑うと、そのまま一歩を踏み出した。
 トワもすぐに電源をオフにして、プレートを握り締めると、ミカナギを追いかけるようにして歩き始める。
 10分ほど歩いて、ハズキの区画まで来て、ミカナギが部屋を探すようにキョロキョロしているので、トワは青いホログラフボールを呼び出して、区画の地図を表示した。
「そこの角を曲がって、右側の2番目にある部屋みたいよ」
「ん、ああ……そか。今更だけど、アイツ、結構でかい区画与えられてるよな……」
「そうね。15の時に、この区画を与えられたんじゃなかったかしら。あの子、秀才気質だから……相当頑張ったんでしょうけど」
「そっか……」
 示された通りにミカナギは角を曲がって、軽い足取りで右側にある2番目のドアの前まで歩いてゆく。
 トワもそれに従い、2人は少しばかり真面目な顔になる。
 そして、ミカナギが操作盤に触れて呼び出しをしようとした時だ。
 シュン……とドアが開き、そこからツヴァイが出てきた。
 ミカナギが少しばかり不思議そうに目を細めたのが見えた。
 トワはその意味がよく分からず、ただ、ツヴァイに話しかける。
「ハズキ、いる?」
「ハズキ様、留守。何の用か?」
「いないの?」
「留守」
「どこに行ったの?」
「チアキのところ」
「……そう」
 トワはそれでは仕方ないかと、ほぅ……と息を吐き出す。
 そして、チアキならば、あとでトランシーバーでも連絡が取れるので、あまり気にせずに踵を返そうとした。
 ……が、ミカナギが少しばかり緊張した面持ちで、ツヴァイを見下ろしたまま動かないので、止まった。
「ミカナギ?」
「……ブレスレット、気に入らなかった?」
「……何のことだ?」
 ミカナギの問いに、ツヴァイはいつもの静かな眼差しで答える。
 それを見て、ミカナギは面白くなさそうに目を細めた。
「……お前、誰だよ……?」



*** 第十一章 第三節・第四節 第十一章 第七節・第八節 ***
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