第十二章 想った分だけ想いは帰ってくるんだ、の章
第一節 懐かしき母
ハズキは夢を見ていた。
静かに眠りながら、懐かしい夢を見ていた。
虹の夢……。
……母の夢。
幼い頃から、自分は両親にあまり見向きをされずに育ってきた。
そのように思う部分も多くあったけれど、本当はそうではないことに、大きくなってから気が付いた。
それはあのタゴルのおかげでもあるだろうし、10歳にして生み出してしまった伊織のおかげでもある。
養子に入ってから、ほとんど家族らしいことをしたことがなかった。
ハズキは外面的には彼を『養父さん』と呼んでいたけれど、それは心からのものではなかったし、タゴルにしてみれば、『養子』などという観点ははじめから皆無であったろう。
家族ごっこなど、無理な話だった。
その分の愛情が、ひたむきに伊織に注がれたことは言うまでもなく、遺伝子を同じにするそれを愛でるということは、どれだけの偏愛志向か、と思うこともあった。
生きるうえで、兄を軽蔑の眼差しで見つめていた自分が……兄と同じことで喜びを得ている。
そう感じた時、……なんとも言えない複雑な気持ちになったこともあった。
けれど、それで当然なのだろう。
ミズキとハズキは兄弟で、家族と引き離されるという同じ境遇を、別の場所でそれぞれ経験した。
はじめは兄に対抗するつもりで造り出した伊織は……今では、自分にとってかけがえのない家族であり、誰よりも愛しくてやまない自分の分身だ。
子供ながらに抱き締めて、どうすればいいのかとおろおろした。
抱き締めて、あまりの小ささに涙が零れて……、護ってあげたいと思った。
その感情が、自分を強くしてくれたのだ。
しっかりしなくてはいけないという感情を持つことのなかった幼少時代。
ミカナギに散々甘やかされていた自分は……伊織という存在が出来たことで、ようやく、強く生きるということの意味を知った。
伊織のことを知っても、全く動揺を見せなかった幼馴染を意識するようになったのも、あの頃であったろう。
……自分は不遇な境遇でありながら、少なくとも、人にだけは恵まれた。
チアキと伊織。
この2人が支えてくれた、ハズキの世界。
一度だけ。
母はハズキを連れて虹の上に登ったことがあった。
それが、今見ている夢だ。
銀色の月を見上げて、母は優しい歌声を発する。
ハズキは母の手をしっかりと握り締めて、同じように月を見上げた。
彼女は、必ず一回はあそこに子供を連れて行った。
それは……ケイルを母が虹の上に連れて行った日、ミカナギから聞いた。
ミカナギとトワは連れて行ってもらったことはなかったけれど、お前等兄弟は全員一回ママと登ってるんだ、いいなぁ……と、相変わらずの茶化すような口調で羨ましがって、それをトワから、マザコン、と揶揄されていた。
トワがそれを言った後に、少しだけ怒ったような表情になった理由が、あの頃はわからなかったけれど、今なら分かる。
2人で登ったことがあるのに、あれだけ羨ましそうに言われれば、そりゃ不機嫌にもなるというもの。
「綺麗でしょ?」
母が言った。
ハズキはコクリと頷く。
「トワちゃんみたいでしょ?」
「……うーん」
それには賛同できなかった。
すると、母はおかしそうに笑った。
「トワちゃんみたいじゃない?」
「うん。どっちかというと、お母さん」
「……え?」
母は不思議そうに小首を傾げた。
ハズキは母を見上げて、唇を尖らせる。
「手が届かない感じが、お母さん」
その言葉に、母は困ったように目を細めて屈み込んだ。
顔が近づいて、きゅっと柔らかい胸に抱き寄せられる。
「そっか」
「うん」
「ごめんね」
「ううん」
「でも、ママ、ハーちゃんのことも大好きだから」
「……ん。ぼくもママのこと好きだよ」
母が、ママ、ママと言うので、つい吊られてハズキもママと呼んでしまった。
「ミカちゃんの次に?」
「……ううん」
「…………」
「ママとミカナギは、別」
「ハーちゃんって……大人ねぇ」
「そう?」
「うん。ママは子供だから、本当にそう思うわ」
「……ママが子供?」
「ミカちゃんと同じ反応しな〜い」
母はハズキの背中をぽんぽんとあやすように叩きながら、クスクスと笑った。
ハズキは静かに母の胸に顔を埋める。
「ママ……」
穏やかに名前を呼ぶ。
ずっとずっと呼んでみたくても呼べなかった。
呼んだのは、あの時だけだった……ように思う。
「ママ。ママ……」
「ん? どうしたの?」
ママがぼくだけのものだったらよかった。
言いたかったけど言えなかった。
そんなことを言ったら、また困ったような顔をさせることになるから。
月みたいなのは母だと言ったのは、母がみんなのものだったからだ。
ハズキはゆっくりと目を開けた。
視界がぼんやりと歪み、グラグラと動いた。
「……ッ」
すぐに頭を押さえると、額には包帯が巻かれており、そこで状況を把握した。
枕に頭を置いたまま、ぼーっと天井を見上げる。
白い天井が、そこにある。
久々にゆっくり眠った気がする。
普段は……デスクやコンソールの上にそのまま寄りかかって眠ってしまうから、起きた時に天井がそこにあると、ついそんなことを思ってしまう。
不眠症の自分は、何かをしていないと眠りにつけないことがほとんどで、眠くなったらそのままその場で眠ることが多かった。
チアキには心配されたけれど、ベッドに横たわっても眠くならないのだから、それは仕方のないことだった。
あまりに体が不味いと思った時だけ、睡眠導入剤をもらって布団で眠る。その繰り返し。
頭がぼんやりするのは、麻酔のせいだろうか。
ハズキは身動きも出来ずに、右手を見つめて、天井を見上げた。
……そして、思い出して、目を細めた。
「……ツヴァイ……」
小さく、その呟きが室内に響いた。
第二節 苦しむ弟の傍にいてくれた人
「大丈夫か……?」
ミカナギが気に掛けるようにチアキの顔を覗き込んだ。
チアキはロボットテラを大事そうに抱えた状態で、トボトボと歩いていくだけ。
ミカナギはふー……とため息を吐き、目を細める。
「……大丈夫なわけ、ねぇか……」
「…………」
「昔から、仲良かったもんなぁ」
「……? 思い、だしたの?」
「……ああ」
チアキはミカナギの返答に、ぐっと唇を噛み締めた。
皮肉なタイミングだとでも、言いたげな表情だった。
ミカナギはその表情を横目で見るだけで、特に何も言うことができず、ただ、チアキの歩幅にあわせて歩いた。
「兄さん」
「ん?」
「ハーちゃんは……不憫な子です。彼なりにもがいて、彼なりのやり方で、自分の居場所を作り上げてきました。とっても頑張り屋で……、どんなに辛くても、私には弱音ひとつ吐かない強い人です。……少し、やり方は間違えてしまったかもしれないけれど……だからと言って、踏み誤った一歩は、再び踏み出し直せるものではないの?」
「…………」
「……どうして……こんなことになってしまったんですか? ハーちゃんは、ただ、与えられた環境の中で、一生懸命生きてただけなのに……」
「うん」
「……ごめんなさい、私、今、おかしいんです……こんなこと言ったって、仕方ない……。一生懸命生きてるのは、ハーちゃんだけじゃないのに……」
反応に困るのが見て取れたのだろう。
チアキはようやく少し平常心を取り戻したように、小さく頭を下げた。
チアキの黒い髪を見つめて、ミカナギはやりきれない気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
……自分が、何も恐れることなく、与えられた使命をそのままこなせるような者であったなら、こんな悲劇は起こらなかったのかもしれない。
トワと一緒に、その決断を取れたのなら……。
けれど、それは無理なのだ。
……自分は死んでも構わない。
でも、ミカナギは、トワだけには生きて欲しいのだ。
生きて欲しいから、一緒に生きる道を探すしかないと思った。
たくさんの欲目が生まれて、たくさんの思い描く幸せの形があって。
その中でも、彼女が笑ってくれることが、ミカナギにとって、何よりも大切なことだから。
「……ハズキの傍に、チアキがいてくれて、よかった」
「え……?」
「チアキが……強くて優しい子で、よかった……」
「兄さん……?」
ミカナギはそっと目を細めて、チアキの頬に優しく触れた。
チアキが驚いたように目を見開いて、立ち止まる。
顔がすごい速さで真っ赤になった。
「お前がいなかったら、ハズキは変わっちまってたかもしんねー。サンキュな」
チアキの真っ赤になった頬を見て、ミカナギは恥ずかしくなってすぐに手を離してヒラヒラさせた。
コホンと咳き込む。
しまった。もう、子供じゃないのだから、昔のようなノリで接しては駄目だった。
チアキはミカナギの言葉に俯いて、小さくかぶりを振った。
「そんなことないよ」
「そんなことあるわ」
チアキの消え入るような声に被せるように、気丈で澄んだ声が後ろでした。
ミカナギはすぐにそちらに視線を動かす。
チアキもゆっくりと振り返って、不思議そうに首を傾げた。
「姉さん……?」
トワは呼ばれてすぐにニコリと笑い、真っ直ぐな姿勢で歩み寄ってくる。
そして、チアキとミカナギの間の狭い空間にわざわざ割って入り、チアキの肩を優しく抱いた。
ドンッと不自然にならない程度にミカナギの体が壁際に押しやられる。
ミカナギはトワをすかさず睨むが、彼女はそんなことは素知らぬふり。
嫉妬だな……。
ミカナギは小さく失笑した。
「ハズキの怪我、出血は多いけど、脳波等には影響がなかったみたいだから安心して」
「まぁた、お前は盗聴を……」
「正確な情報が欲しい時に、良い悪いなんて括りは邪魔なだけよ」
「ま、まぁ、そうだが……」
「ミカナギ、あなたはいつも認識が甘いから言っておくけど」
「ん……」
「私たちが強いられているのは、対等な闘いじゃないのよ」
「…………」
「あちらには人質がいるの。やりようによっては、ガセ情報を捏造して、ツムギ派閥全員一掃してやろう、なんて考え方をするくらい、クレイジーな男がいることを忘れないで」
「……わかってる……」
ハズキの部屋からここまで歩いてくる間に、多くのことを考えて分析していたのだろう。
細かいことを考えることが好きじゃないミカナギにとって、この人の存在は本当に尊い。
何よりも、言いにくいことをそのままズバリ言えてしまうのは、……トワという人の、悪い面でもあり、良い面でもあった。
「とにかく、ミズキのところに急ぎましょう。連絡はしておいたから、もうみんな勢ぞろいのはずよ」
「…………」
「チアキ」
「は、はい」
「私、その子がロボットなの気付いてたんだけど、教えてあげなくてごめんなさいね。驚いたでしょう?」
「……う、うん……でも、ロボットってことで、姉さんに懐いていた理由は、しっくり来ました」
「そう」
「はい」
トワは優しく微笑んで、チアキの頭を優しく撫ですかすと、そのまま促すように歩き始めた。
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