第九節  伝うるべき想いか否か


 ニールセンは積み重ねた本を見上げて、ふー、とため息を吐いた。
 コルトやカノウをこき使って、資料を集めたのはいいが、読めば読むほど理解することが出来るのは……この資料室を作った人間は、歴史を後に残す気はサラサラないということ。
 それだけだ。
 これだけの設備が揃っていながら、この空間だけが異常だった。
 整頓されず、雑然と並べられるだけの資料。
 正式な記録も電子管理は一切されず、渡された蔵書リストもボロボロの紙だった。
 保存状態も良くない。
 特にその点を気にするつもりはないが……それでも、あれだけの悲劇が起こったうえでなんとか残ることが出来た大切な歴史の遺物たちがこのような扱いの中で消えていってしまうかもしれない可能性を考えると、歴史学者として、ニールセンの中にも、怒りという感情が沸く。
 ニールセンは静かに薄いピンク色をした羽根のマークが付いているノートを見つめた。
 かなりくたびれているこのノートは偶然見つけた。
 パラリと表紙を開くと、そこには可愛らしい丸文字がコロコロと転がるように書かれていた。
 読んでしまったのは気紛れで、誰かに渡さなくてはいけないものなのではないかと、考えもした。
 だが、このノートを誰に渡すべきか、判断することはニールセンにはできなかった。
 書き手の意思は読み取れない。
 そこに書かれた想いは、切実であるのに、けれど、決して相手に届くことを願ってはいないように感じたからだ。
 少女のように可愛らしい文章が、資料の読み込みで疲れたニールセンの脳に心地よく、ついつい読み進めてしまった代物だった。
 いつでも、目を止めてしまうのは……この一文から始まるページ。

『あなたが空のことを嬉しそうに話してくれた。
 表情は静かだったけど、私には嬉しそうに見えました。
 空のような不思議な色をしたその髪が誇りなのだとあなたは言った。
 私も。
 私も、空は大好きです。
 広く、どこまでも広がる空を、この翼で飛びまわること。
 それが私の唯一の楽しみでした。

 目覚めた世界では、それをすることも叶わないけれど……。
 果たさなくてはいけない約束があります。
 あなたと同じように、空のことを嬉しそうに話してくれた……大切な人との約束があるのです。

 あなたは、私の心を見透かして、決して、懐には掻き抱いてはくれなかった。
 ……きっと、酷いのは私なのでしょう……。

 どんなに時が経っても、私の心の奥底に眠るのは……たった、1人……。』

 目を通して、ゆっくりとページを捲る。
 ニールセンにとっての、女性というもの、そのものがこのノートには宿っているように思った。
 だからだろうか。
 何度も何度も反芻するように読み返してしまう。
 このノートの持ち主は、慈愛に満ちている。
 けれど、それと同等量の非情さを持っている。
 博愛であるからこそ、非情。
 均等である愛は、この持ち主へ想いを抱いた人間にとっては、鋭いナイフのようなものでしかないように思う。
 このノートの中に数多く現れる『あなた』も、その中の1人なのではないかと、感ぜられて仕方ない。

『私のデータは、あなたでは取れないの。
 とても残念だけど、仕方のないことです。
 けれど、だからと言って、あの子をあなたに委ねたのは間違いでした。
 あの子は、私自身。
 だから、あの子を傷つけることだけは許すわけにはいきません。
 どんなにか辛かったでしょう?
 どんなにか泣いたでしょう?
 あなたにはわからない。
 あの子がどれほど繊細で、優しい子であるのか。
 あなたはわからないでしょう?

 約束してください。
 もう、誰も傷つけないと。

 傷つけられたからといって、誰かを傷つけていいなんて、そんな道理はどこにもありません。
 私が、許すから。

 私を傷つけて、それで、終わりにしましょう?
 お願いです。
 終わりにしましょう?

 私は、あなたの感情が穏やかに静まってくれることを祈っています。
 そのためなら、どんなことでも。
 ……どんなことでも。』

「おい、ニールセン」
 耳元で声がして、ニールセンはビクリと肩を揺らした。
 視線を上げると、そこにはミカナギが立っていた。
 ニールセンは慌ててノートを閉じる。
「なんだ? 青年。珍しく名前で呼びおって」
「おっさんいるかぁ? っつっても全く返事しなかったんだろうが」
「ん? そうか」
「しっかし、よくこんな埃臭いところにいつまでもいられるもんだよなぁ。オレだったら勘弁だ」
 ミカナギは傍にあった本の埃を払いながら、本当に嫌そうに眉を歪めた。
 それを見上げ、ニールセンはふっと笑いをこぼす。
「青年が小生を呼びに来るなんて、珍しいこともあるものだ」
「ん? ああ、まぁ、みんな忙しいからな、今」
「そろそろ、突入時期か?」
「……ああ」
「結局、あちら側からこちら側に対しては全く動きはなしか」
「何を考えてんのか、全く読めねーからなぁ。あの野郎は」
「ふっ」
「なんだよ?」
「青年は、相当、その”あの野郎”が嫌いと見える」
「ああ、大っ嫌いだよ」
 ニールセンの言葉に、ミカナギは険しい眼差しで吐き出すように言い切った。
 ニールセンはミカナギのそんな表情を見て、本当に驚きを隠せずに目を丸くした。
「すごいな」
「あ?」
「青年にそこまで嫌われる人間がどんな人物なのか、とても興味がわく」
「あいっかわらず、変なことにばっか興味持つおっさんだな、ったく。まぁいいや。とにかく、準備だけはしといてくれよ」
「ああ、わかった」
 ニールセンが頷くと、ミカナギはよしっと声を発して、そのまま、資料室から出て行ってしまった。
 髭をそっと撫で、少し考えるように目を細めた。



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