第十七節  一難去って、また……


 母が亡くなり、父も後を追うように逝ってしまったあの日。
 ハズキは、その日に知ったのだ。
 神なんて、いてもいなくても同じなんだということを。
 何があっても、自分のことはミカナギが護ってくれるものだと、甘ったれた自分はずっと思っていた。
 けれど、暖かかった世界は、あの事故から急激に寒くて冷たいものに変わった。
 呼んでも誰も応えてはくれない。
 静かな部屋に、まだ幼かった自分は……まるで閉じ込められるかのように押し込められた。
 それからずっと……自分は、その静かな部屋の中にいた。
 訪れる人はいた。
 その人たちが、ハズキの心を守ってくれていた。
 自分で、環境を変えるために様々な抵抗もした。
 その部屋を出るために、たくさんの努力をした。
 けれど、違うんだ。
 ハズキが待っていたものは……。
 本当に……待っていたものは……。
 ……連れ出してくれる人だった……。


 初めてかもしれない。
 この子の目線で、きちんと会話をしようとしたのは……初めてのことのように思う。
 心が弱っていたせいだろうか。
 とても自然に、自分は伊織の目線に合わせるために、床に膝をついていた。
 伊織は困ったような目で、こちらを見ている。
 なんで、こんなところまで来るんだ。
 お前を危険な目に遭わせないために、兄に任せたのに。
 こんなところまで来て、危ないことをして、普段以上に力を使って、それで倒れたりしたらどうするんだ。
 叱りの言葉は心の中を駆け抜けるだけで、言葉にはならない。
 こみ上げてくる涙を堪えようとすると、叱ることができなかった。
 小型コンピュータと手錠をコードで繋いで、ミズキはカチャカチャとキーボードを叩いている。
 ハズキは動くことが出来ないので、ただ、伊織のことを見つめた。
「パパ、ぼく、来ちゃいけなかった?」
 伊織が不安そうにそんな言葉を漏らした。
 そこに息を整えながらミカナギが歩み寄ってきて、優しく伊織の頭を撫でる。
「あれ? 結構暗号が……」
「……どれ?」
 ミズキの言葉に、ハズキが静かにコンピュータの画面を覗き込んだ。
 見づらい位置のまま、ジッとコードを眺め、静かに該当するコードを読み上げる。
「ここ?」
 読み上げられた部分をミズキが指差したので、コクリと頷く。
 ミズキは少々考えるように眉根を寄せ、意味が分からないとでも言うように唇を尖らせる。
 昔の兄からは想像できないような人格に成長したものだ。
 昔だったら、分からないなんて顔は絶対にしなかった。
「ここを……?」
「兄さんなら出来るだろ」
「出来ないよ」
「なんで?」
「暗号化させるのは好きだけど、解除するのは好きじゃないもの。面白くもなんともないからね。こんなに複雑だと、見ているだけで萎えてくる」
「ミズキは興味ないと全然駄目だからな」
 ミカナギが笑いながらそう言い、どれっ、と覗き込んできた。
 ミズキと同じように唇を尖らせ、うーんと唸る。
「……ああ、面倒くせぇ暗号だなぁ」
「だから、そこを……あー、もう、面倒な2人だな。俺の膝の上に置いて、それ」
 ハズキは胡坐をかいて、床に座り、そう言った。
 ミズキがその様子を見て、失笑しながら置いた。
「いやー、役立たずの兄で悪いなぁ」
 ミカナギがあっけらかんとそう言い、ミズキも続いて言った。
「ごめんよぉ」
 ハズキもさすがにその2人の言葉に笑みがこぼれた。
 そのこぼれた笑みを見逃さず、伊織がぼーっとこちらを見ているのが分かった。
 拘束されている腕を無理やり捻り、片手だけでなんとかキーボードを叩く。
 その様子を、3人が覗き込んで見つめている。
 ディスプレイの光源はあまり強くないが、暗視ゴーグルを唯一していないハズキにとっては、全員の顔を見るのにちょうどよかった。
「へぇ、見事なもんだ……」
 ミカナギが感心したように声を漏らす。
 その言葉の後、プシューンと手錠が解けた。
 ハズキは丁寧に手錠を外し、手首をグルグル回す。
「縛るのは嫌いじゃないからね。抜ける手立てだって把握してあるさ」
 冗談っぽい口調でハズキは言った。
 その言葉が意外だったのか、ミカナギとミズキの反応が一瞬遅れる。
 伊織だけはその言葉の大人的な意味までは分からず、ただ、尊敬のオーラを発するだけ。
「オレは縛られても、その状況を楽しんじまうからなぁ……」
 ミカナギがボソッと言い、それに対してハズキは穏やかに返す。
「しょうがないよ。ミカナギの場合、それは手綱だもの」
「だよなぁ……。って、おい、ハズキ、お前、全然フォローしてないだろ、それ」
「しょうがないよねぇ。あれだけ、見せ付けられちゃ」
 ミズキがニヤニヤしながら、そう言い、ミカナギは2人を見比べるように首を動かし、何かを考えるように間を置いてから、白い歯を見せて笑った。
「まあな」
 その言葉だけで十分。
 ……こんな短いノロケもそうそうない。
 ハズキはコホンと咳き込み、今までにないほど和やかな気持ちになっている自分に、少々戸惑う。
 ずっと、こうしたかった。
 けれど、ずっとしたことがなかった。
 ……だから、どうしても、ブレーキが掛かってしまう。
 ぼーっとそんなことを考えていると、伊織がハズキの服の裾をキュッと握り締めてきた。
「パパ」
「ん?」
「痛いとこ、ない?」
「ああ……大丈夫だよ」
 怪我の痛みなんてどうってことない。
 そんなことを忘れさせてくれる暖かさが今ここにあるのだから。
 何よりも。
 ハズキの心が1番驚いていたこと。
 ずっとずっと、自分を連れ出してくれる人は、ミカナギだろうと思ってきた。
 それなのに、連れ出すために1番傍にいるのは、まだまだ小さい……この子を生み出した時の自分と同じ年の伊織だったこと。
 そのことが、ハズキの心を驚かせ、けれど、それでも、こんなに満たされた気持ちにさせる。
 ハズキはぎこちない手でそっと伊織の頭に触れた。
 伊織がくすぐったそうに体を動かす。
 クシャクシャ……と柔らかい髪を撫で、ハズキは目を細めて笑った。
「……ありがとう……」
 音になったかならないかくらいの声だった。
 けれど、この言葉が届いていても届いていなくてもいい。
 これから先、伝えていける時間はいくらでもあるはずなのだから。
「さて、戻るか」
 しばらくしてから、ミカナギがそう言った。
 その言葉に促されるように4人の足が動いた。
 その瞬間、ジジー……と廊下にモーターの作動音がした。
 2、3秒後、パチパチッと光が瞬き、真っ暗だった廊下が普段の明るさに戻った。
 照度が強すぎたのか、暗視ゴーグルを装着していた3人は各々素早く額に押し上げる。
「アインスたちのほうも成功したみたいだね」
「……だな。あとは、兎環ちゃんの一斉掃射で、作戦終了、か」
 ミカナギが満足そうにそう言って笑った。
 赤い瞳に優しい色が浮かんだのが見えて、ハズキは穏やかに笑った。
 こんなにも間近で、再び、この人の笑顔を見られる日が来るなんて、昔の自分は想像もしなかった。
「……それで、ストレス解消して、オレの失言は忘れて欲しいところだよなぁ……」
 その言葉の意味が分からず、ハズキだけが首を傾げる。
 ミズキはミカナギの様子を見て、楽しそうにクックッと笑った。
「無理無理。トワは根に持つからねぇ……一週間くらい我儘言われるのは覚悟しないと駄目さ」
「アイツの言うことの8割方は我儘なんだが」
「……そんなこと言っちゃっていいのかなぁ?」
「へ?」
「トワのことだから、電気が通った瞬間に、こちら側に回線を繋いでて、そろそろ突込みとかしてきそうじゃない?」
「……いや、アイツの場合、盗聴してても、後で2人になってからネチネチとな」
「はいはい、ご馳走様ご馳走様」
「こら、これはご馳走様じゃねーって! 嘆いてんだろ!!」
 ミカナギが必死な形相で叫び、手を伸ばす。
 ミズキがからかうように笑い、軽いステップでミカナギの手をかわした。
「パパ」
「なんだい?」
「楽しい人たちだよね」
「……ああ……」
「パパの家族なんだよね」
「ああ。そして、伊織、お前の家族でもあるんだよ?」
 ハズキのその言葉に伊織が目を見開く。
 青い澄んだ目がこちらを向いた。
 そして、ほやぁんと笑う。
「パパとチアキちゃんだけじゃないんだ!」
「ああ」
「そっか……」
「うん」
 本当に嬉しそうな伊織。
 頬が紅潮して、幸せそうに笑う。
 ハズキもその笑顔に思わず笑みが漏れた。
 そうしていると、ミズキのトランシーバが鳴った。
「あ、噂をすれば、かな?」
 ミズキが楽しそうにそんなことを言うと、ミカナギは慌てたようにミズキのトランシーバを奪い取ろうと駆け寄っていった。
 けれど、応答した後に漏れてきた声で、和やかだった空気は一変することになる。

「ミズキ!」

 天羽の悲痛な声が廊下内に響き渡った。
 その声で、応答したミズキの目が真剣なものに変わった。
 ミカナギも動きを止めて、様子を見るようにミズキを見つめている。
「どうしたんだい? 天羽」
「ッ……お、お姉ちゃんが……! 前……あたし……連れて……あ、う、えっと」
「落ち着いて、天羽」
「で、でも」
「まず、落ち着くんだ。ゆっくりでいいから」
「…………。ご、ごめんなさい。お姉ちゃん、連れてかれた!!」
「え?」
「お姉ちゃん! 氷って人に無理矢理連れてかれた!! あたし、何にも出来なかった……っ、ぐすっ……。せっかく、ミズキに武器渡されてたのに……怖くて撃てなかった……ごめんなさいごめんなさいぃ……!」
 天羽の嗚咽混じりの叫びに、ミズキは動揺して思考が働かないのか、その後の言葉に迷っているようだった。
 要するに、どさくさに紛れて、氷がトワを連れ去った、ということらしい。
 ハズキは静かに目を細める。
 まさかとは思うが、……はじめから、狙いはこれだったのか?
 ミカナギがミズキの手から優しくトランシーバを奪い取り、優しい声を発した。
「天羽、誰も怒ってねーから、謝らなくていい」
「……ひっ……ぐすっ……」
「泣かなくていい」
「……っく……。……うん」
 ミカナギの言葉に天羽は少しずつ呼吸を整えていく。
「……ツヴァイもチアキも、お前にも、怪我はないか?」
「……少し、怪我したけど、みんな無事、だよ……」
「そっか」
「でも、お姉ちゃんが……」
「大丈夫だ」
「え?」
「お兄ちゃんが、すぐ連れて帰るから」
「…………」
「だから、大丈夫だ」
「……うん……」
「ミズキたちももうすぐそっちに戻るから、それまで頑張れるか?」
「うん」
「よし」
 ミカナギは向こうには見えてもいないのに、ニッカシと頼もしい笑みを浮かべた。
 そして、ミズキにトランシーバを手渡す。
「み、ミカナギ……」
「ってことで、オレはちょっくら行ってくらぁ」
「だ、だけど、どこに行ったかわかるのかい?」
「わかんねーよ。でも、ま、外じゃねーのは確かだから、中を探すさ」
「外じゃないってどうして言い切れるの?」
「わざわざ、兎環が衰弱するような環境に連れて行く理由がねーだろ」
 静かにそう言い、こみ上げてくる怒りを抑えるように、ミカナギはギリッと奥歯を噛み締めた。
「兎環確保したら連絡するよ」
 そう言うと、あっという間に駆け出していくミカナギ。
「ミカナギ、ちゃんと態勢整えてからのほうが……」
「必要ねー!」
 呼び止めるミズキの言葉を、短い一言で切り、そのまま十字路を右に曲がっていってしまった。
「兄さん」
「……あんなに迷いなく走って行かれると、参るよねぇ」
「……とりあえず、戻ったほうがいいんじゃない?」
「そう、だねぇ……とりあえず、アインスたちと合流して、区画に戻って……それから、か」
 ミズキが考え込むように目を細め、伊織も不安そうに表情を歪めて、ハズキの服の袖を握り締めた。



*** 第十二章 第十六節 第十三章 第一節 ***
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