第十三章  届いた想い。その笑顔で生きて……それがオレの望みだから、の章

第一節  とびっきりの『好き』が届かない。


 氷はパタパタと駆けて行ってしまったチアキの背中を見つめて、ポリポリ……と頭を掻いた。
「そんなに走ると……転ぶ、ぞ……」
 ポツリとそう呟いて、目を細め、ふー……と息を吐き出す。
 珍しく癒しを求めてここに来たのに、珍しく彼女に無視されてしまった。
 ハズキがテロ容疑で連行される前の話。
 何が起こっているのか把握していない(むしろ、興味すらない)氷が戸惑うのは当然だった。
「あー……なんだ、この展開……」
 虚しく一人ごちり、仕方がないのでそのまま自室に戻ろうと踵を返した。
 ゴキゴキと首を鳴らして、だるそうに腕を回す。
「誰かんとこ押しかけるか? …………。んー、ダメだな。名前覚えてねー」
 にべもなく言い切る自分に苦笑が漏れた。
 だが、それは仕方がないのだ。
 氷は自分の好みでもない限り、名前なんて覚えないし、部屋も覚えない。
 それにチアキに求められる癒しは、このプラント内のどの女も持っちゃいないのだ。
 どこもかしこも気の強い自己顕示欲の強い女ばかりで、……まぁ、そんな女のプライドを全部突き崩しながら落とすのもそれはそれで楽しいのだけれど、正直相手にするだけで疲れる。
 それに何より、……ださいし……。
 この流れで押しかけはださい。
 自分、乙女してるわって自覚しただけでも気持ち悪いのに、それ以上の自己嫌悪なんて要らない。
 ブラブラとだるそうに歩きながら、ベルトの位置を直し、前髪をいじる。
「面倒くせー」
 ぼそっと吐き捨て顔を上げると、目の前を凄い速さで何かが駆け抜けていくのが見えた。
「ん……?」
 氷は呆然と駆け抜けていったものを目で追い、緑色の三つ編みがブンブンと揺れて遠ざかっていくのを確認した。
「……ツヴァイ……? 何やってんだ? アイツ……」
 けれど、特に追おうとも思わず、ツヴァイが走り去っていったのとは逆方向へと歩き始める。
 うっとうしいくらい白い壁と白い床がどこまでも広がっている。
 この空間が氷はあまり好きではなかった。
 おそらく、幼少時代、狭い部屋に長らく閉じ込められていたことに起因するのだと思うが、あまり思い出したくもないので、それ以上思考は進まなかった。
 ただ、何よりも鮮明に覚えていることは……たった1つだけあった天井の窓から、彼女が覗き込んで、声を掛けてくれたこと。
 夜という色の中、部屋からの光で浮かび上がった少女は、とても綺麗で……神秘的な印象を残していった。
 ……そう、間違いなく、自分は……天使に出会ったのだと、子供心に思ったものだ。
「ん……? やばい、なんか、オレ、キモい……」
 はじめから気持ち悪い、と、とある桜色の髪したお姫様は言うと思うのだけれど、彼がそんなことをわかっているはずもなく、ポリポリと首を掻くだけ。
「げ……」
「……?」
 前方から澄んだ潰れ声(という形容もおかしいが、それがまさにぴったりともいえる)がして、氷はそちらを見た。
 青いホログラフボールを抱えて、トワがそこに立っていた。
 あまりに嫌そうな顔をしているので、ニィヤ……と氷は笑う。
「下僕は一緒じゃないの?」
「…………。今、あなたの相手してる場合じゃないのよね」
 トワはあまりこちらを見ずに、ホログラフボールを見つめて、何かを試行錯誤するように目を細める。
 氷はお構いなしにスタスタスタ……と歩み寄った。
「アンタはいつでもオレのこと相手にしてないだろ」
 静かに氷はそう言うと、ジッとトワを見下ろす。
 どれだけ罵ってやろうかと思うのに、彼女の顔を見ると何も言えない自分が本当に情けなくなる。
 前髪が目に掛かった状態でも、綺麗な鼻筋と艶っぽい唇が目に入り、ふー……とため息を吐かざるをえなかった。
「……もし、オレがアイツで、アイツがオレのポジションだったら、どうだったんだ? 何か、変わったかよ?」
「……なんだか、珍しく弱腰ね?」
「オレだって馬鹿じゃない」
 氷の言葉にトワが顔を上げた。
 氷はサラリとトワの目に掛かった前髪を除けてやる。
「女の匂いには、敏感なんだ」
 トワはその言葉を耳にした途端、カッと顔を赤らめ、キッとこちらを睨みつけてきた。
「変態」
「仕方ねーだろ。わかんだから」
「……だったら、もう、私のこと諦めなさい。……大体、なんで、私みたいなのが好きなのか、それが全然わからないわ」
「っ……そういう言い方すんだ……」
 氷は自分でもしたことがないくらいに眉根を寄せた。
 やばい……泣きそうだ……。女のことなんかで泣くような、そんな男にはなりたくもないのに。
「諦めらんねーよ……」
「…………」
「20年だぞ……」
「…………。私とミカナギは、30年よ……」
「アンタ……本当に冷たいんだな……」
 その言葉は冷たいとか酷いとか、そういう類のものではなく、彼女が事実を述べているだけだということは、十分に分かっている。
 けれど、それでも、そう言ってやりたくなる。
 その正直な言葉が彼女らしさでも、少しの気遣いを含んだ言葉を自分は欲していた。
 他人に優しい言葉を掛けたことのない自分が、だ。
 調子が良いのは分かっている。
 それでも、この人からだけは、それを欲しいと求めてしまう。
「……私が他の女の人と比べて特化しているところなんて、こういうところだけだと思ってるもの。思わせぶりな態度を取る女より、数倍マシだと、自分では思ってるけど」
 氷はその言葉を聞いて、すっと視線を落とした。
「せめて……」
「何?」
「初めて会った時のことだけでも、思い出してくれたら……」
「…………」
「何も変わんなくても、オレは……満足できるのに」
 情けないことを言っている。
 こんな言葉を口にする日が来るなんて思いもしなかった。
 ……ただ、懇願してでも、この人に優しい言葉を掛けて欲しかった。
 そんな気持ちになるのは、相手がこの人だからだ。
 初めて会った時のように、自分にだけ笑みを向けてくれたら……それだけでいいのに。
 それだけのことなのに。
 トワの言葉は間違いじゃない。
 無駄な温情は……自分を傷付ける。
 このほうが……彼女らしい優しさなんだろう。
「……それじゃ……私、本当に急ぐの」
 トワはそうポツリと言うと、カツカツと靴音をさせて、氷の脇をすり抜けていってしまった。
 氷は追いかけることも出来ずに、その場で彼女の背中を見送る。
 ……完全に、自分の恋は終わったのだ。
 そんなの、この前の弱気な彼女を見た時から、感じ取っていたことだったけれど。
 何も残りはしない。
 心がズキズキと痛んだ。
 失恋なんて、するもんじゃない。
 本気の恋なんて、するもんじゃない。
 ……本気の恋の、本気の心の伝え方を……自分が知っていたなら、もっと何かが変わったのかもしれないけれど。
 氷はため息を吐き、フラフラと歩き始めた。
 その時、氷のトランシーバーがけたたましく鳴った。
「なんだ、誰だよ?」
 氷はトランシーバーに出て、不機嫌な声を発した。
 相手は…………タゴルだった。
 氷は一層眉根を険しく寄せる。
「なんだよ……。珍しいじゃん、おっさん」
 静かに挑発するように、氷は口元を吊り上げてそう言った。
 この男の声を聞くだけで吐き気がする。
 誰も分かりはしない。
 生まれた時から、タゴルと氷は、遺伝子を同じにしながら、全く繋がりを持たなかった。
 純粋な子供の頃、この人が父親だと教えられながらも、優しい言葉ひとつ、優しい眼差しひとつ、受けたことなどなかった。
 けれど、受けたところで何だと言うのだ。
 気持ち悪いだけだ。
 自分と全く同じ存在がそこにいること。
 それを気持ち悪いと思わずになんとする。
 ……羨ましいよ……。
 遺伝子の親元を慕える他のTG-Mたちも、同じ遺伝子を持ちながら惹かれ合うように恋をする……2人も。
 自分だけは、慕うという感情を埋め込まれなかったのだろう。
 だが、逆にそれがありがたい。
 だって、氷は笑顔で言える。
 お前なんて、クソだ。と。



第二節  動き始めた悪意


 1番後方にいたコルトだけが気付けた。
 銀色の髪。
 赤い瞳。
 エンジニア連中に比べれば、細い体だが、背はミカナギくらいある。
 紫色の袖なしダウンジャケットを軽く直しながら、防備の壁をすり抜け、内部へと侵入してきた。
 その動きは常人の動きではなく、どうやったのかは分からないが、周囲の連中は彼の存在には全く気が付いていなかった。
 だから、コルトが慌ててその男の前に立ちはだかる。
「? なんだ、チビ」
「……これ以上は行かせないよ」
 目が合って時が止まる。
 人を人とも思っていない冷たい目だった。
 こちらを見ているようで見ていない。
 赤い色をしているのに、そこには暖かな輝きはひとつもない。
 凍るように、コルトはそれ以上、言葉が出てこなかった。
 男がゆっくりと右手を上げる。
 ピキピキ……と音を立てて、氷の剣が形作られていく。
「空気読めないやつは、死なないとね」
 男はそう言って笑った。
 コルトは必死に体を動かそうとしたが、動かなかった。
 男の腕が振り下ろされる。
 それを感じ取って、グッと目を閉じた。
「コルトさん!」
 声がして、その後にザクリと剣の刺さる音とともに、誰かに包み込むように抱き締められた。
 チッと舌打ちが聞こえ、低いうめき声が耳元でした。
 コルトは慌てて、目を開ける。
 先程、別の防備班の状況を把握しに行ったはずのハウデルがコルトを大きな体で抱き締めて、庇うように守ってくれていた。
「なんだよ、このおっさん」
 言葉とともに、男の腕がグリグリと動くのがハウデルの肩越しに見える。
 コルトからは見えないが、ハウデルの背中に剣が突きたてられている様だった。
 ハウデルが苦しそうに声を漏らす。
「ハウデルさん……!」
「……大丈夫です。動かんでください。……あなたに何かあっては、坊ちゃまに顔向けできません」
「け、けど……」
「なんで、気付くヤツが2人もいんだよ。つっまんねー。オレのとっときの技だったのによ」
 男はまるで子供のようにブツブツとそんなことをごちりながら、ハウデルの背中から剣を抜いた。
 その瞬間、ハウデルが素早く動いた。
 体を半転し、上段蹴りを食らわせる。
 見事に頭にクリーンヒットし、男の体が僅かに傾ぐ。
 しかし、体勢を素早く戻してからフルフルと首を振った。
「どのようにして侵入したかは分からんが、先へ行かせるわけにはいかんのだ。おとなしく、捕まりなさい」
 ハウデルは穏やかな声でそう言い、グッと拳を握り締めた。
 背中から微かに見える傷口。
 それなりに深く突き刺さったのだろうが、氷の剣だったせいで凍傷にでもなっているのか、出血はそれほど見られなかった。
「誰に言ってんの?」
 男は怒気を抑えるような声でそう言い、剣を振るった。
 ハウデルはそれを冷静な判断でかわし、そのまま、男の腹に拳をぶち込んだ。
 体がくの字に曲がると、すぐに慣れたように腕を掴み、そのまま男を床に押さえつけた。
「っ……てめ……」
「不思議な力を持っているようだが、戦闘の基本が出来ておらんな。ミカナギ様と比べれば、このくらい……」
 そう言ったハウデルの言葉が、彼を押さえつけた腕が凍ったことで止まった。
「その不思議な力の抑え方は知ってんのかよ?」
 その言葉の後、ハウデルの体が一瞬にして凍りついた。
 器用にハウデルの下から体を抜き、不気味に笑う男。
 取り押さえた時の姿勢で凍り付いてしまっているハウデル。
 表情も、指の先も……一切動かない。
「ハウデルさん!」
 コルトは叫んで駆け寄る。
 その瞬間、男の手がこちらを向いた。
 ハウデルの体に手が届くよりも前に、コルトの体が足から凍りついた。
 足の先の感覚がなくなったことで、それを理解した。
 どうしようもない絶望感に包まれ、顔が歪んだ。
「あ、あ……」
 冷酷な表情だった男が、コルトのその様子を見て、まるで無邪気な子供のように笑う。
「いいねぇ……その表情♪」
 涙をこらえて、必死に体をジタバタと動かすが、徐々に体が凍り付いていき、男のおかしそうな表情を睨みつけた状態で、コルトの意識は途絶えた。



 おかしい。
 5分毎にまめに届いていたハウデルからの報告が途絶えた。
 トワはその異変を察して、すぐにミズキに連絡を取ろうとした。
 だが、その時にはもう遅かった。
 バチバチッと、サロンのドアが火花を発した。
 その音と、突然の異常に、室内の全員がドアに視線を向ける。
 ツヴァイが素早く身構え、トワも立ち上がる。
 ロックの掛かっていた自動ドアを無理矢理こじ開けた犯人は、重そうにドアを引き開け、中へと侵入してきた。
 トワはその男の顔を見て、グッと唇を噛み締める。
 驚いたように、チアキが声を上げた。
「氷くんが、どうして、ここに……?」
 氷は他には目もくれずに、トワの前まで一瞬で移動してきた。
 そっとトワの手を取り、丁寧に頭を下げる。
 その所作が、思い切り冷やかし半分で、今まで見てきた氷の動きとは異なる何かを感じた。
「お迎えにあがりました、お姫様」
 冗談ぽくそう言って笑う、目の前の男。
 トワは空いている片方の手でパシンと彼の顔をはたき飛ばした。
 叩かれるままに、氷は動きを止める。
 まるで、何が起こったのかわからないかのように、少々考え込んでいるようだった。
 そして、微かに赤くなった頬を押さえて、こちらを険しく睨みつけてくる。
「誰も頼んでないわ。迷惑よ」
 トワは静かにそう言い、氷に握られている手も縦に振って払った。
 氷は無言でトワを見据え、静かに拳を握り締めた。
「調子に乗るなよ、アマ」
 いつも以上に沸点が低い。
 ……何かおかしい。
 トワは目を細めて、冷静にそんなことを考えていた。



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