『お姉ちゃん、誰?』 静かに笑む少女に、氷はそう問いかけた。 少女は肩から提げていた青いアクセサリに触れて、優しく答えてきた。 『月にいる兎と書いて、兎環』 『トワ』 少女の名を反芻するも、彼女は特にこちらに問いかけては来なかった。 ただ、氷をジッと見て、何かを思うように目を細めた。 『月色』 『え?』 『髪』 『あ、ああ……うん』 ようやく、少女の意図が分かって、氷はコクンと頷いた。 少女は長い睫を伏せ、ぼんやりとした感じで笑う。 どこを見ているのか分からないような笑顔だったけれど、その儚いような、消えてしまいそうな淡さが、幼い氷の心をくすぐった。 この人に、パッと花が咲いたような笑顔で笑ってもらいたい。 氷の持つ力に対して、人は顔をしかめることのほうが多い。 それでも、今、少女は室外にいるから、そんなことは微塵も感じていないだろう。 だから、それが自身に向けられていない笑顔だったとしても、こうして笑いかけてくれるのだと。そう、思っていた。 『と、トワ、は、何者なの?』 『……さぁ? 何者なんだろう』 『て、天使? 翼があるし』 『……天使なんて、綺麗なものじゃないわ』 『お、お空、飛べるの?』 『少しだけ、ね』 『へぇぇぇぇ、すごいねぇぇぇぇぇ』 氷は本当に心の底からそう言った。 自分の力なんかの百万倍。彼女の力は凄いものだと感じたのだ。 だって、人を傷つけることなく、その翼は自由に空を駆けるのだろう。 ずっと、部屋の中から外の光を見上げていた氷にとって、彼女のその力は、とてもとても羨ましかった。 『凄くなんか、ない』 少女は髪を掻き上げて、そっと氷から視線を逸らした。 今となっては、その素振りが、氷のあまりに屈託の無い反応が照れくさかったのではないかと思えるのだが、あの頃の自分は、彼女を怒らせたのではないかと、心配になったものだ。 少女は空を見上げ、深くため息を吐く。 『飛べないのよ』 『え?』 『これ以上、高くは』 『そう、なんだ』 『月を見に行こうと思ったのに、私は、もう一生、月を見ることも出来ないのかもしれない』 氷は悲しそうな少女の表情に、ぐっと唇を噛み締める。 この人に、笑ってもらいたい。 何か出来ないかと氷は考え、部屋に貼ってあった月のポスターに目をやった。 『と、トワ、見て!』 氷は両手を合わせ、徐々にその手を離した。 ピキピキと音を立てて、氷の塊が少しずつ大きくなっていく。 少女が氷の力を見て、目を丸くした。 『あなた、何者?』 『ぼく、不思議な力があるの!』 満面の笑みを浮かべて、氷は初めて自分の力を誇った気がした。 氷の塊を丸く整形しながら、片手で部屋の明かりを消し、デスクスタンドの青い光を点けた。 暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる丸い氷の塊。 それは、実物を知る者にしてみたら、とても陳腐なものだったかもしれない。 それでも、氷にとっては、ポスターの写真でしか見たことのないそれを再現するために、幼いながら振り絞った、最大限の知恵だったのだ。 氷は少女に向けて氷の塊を掲げる。 『……綺麗……欲しいなぁ……』 少女は吐き出すようにそう言い、ふわりと可愛らしい笑顔を浮かべた。 氷はその表情に見惚れ、一瞬呼吸を止めた。 求めていた笑顔がそこにあった。 少女の嬉しそうな笑顔。一言目と共に放たれた笑顔と違い、そこには確かな温度があった。 『トワ、に、あ、あげるよ!』 その笑顔が嬉しくて、氷は思わずそんなことを口にしていた。 けれど、そんなことが無理なことには、すぐ気が付いて、眉をハの字にし、少女を見上げた。 少女も困ったように目を細めていた。 『外に出られないから渡せないや。それにすぐ溶けちゃうんだ』 『欲しいものって……こう、手を伸ばして掴もうとすると、すり抜けてく印象ある。……だからかなぁ』 少女はそっと空に手を伸ばし、滑らかに指を動かして、手を握り締めた。 氷はその少女の手が何かを掴めたろうかと思いながら、問いかけた。 『何が?』 『何も期待してないの』 『 ? 』 『期待してないけど、欲しいって思っちゃうんだ……矛盾してる』 苦笑交じり。彼女の声は、とても悲しい響きをした。 氷はぐっと拳を握り締め、片手で氷の塊をかざしてみせた。 『トワ!』 『なに?』 『これ、あげる!』 『え? だから、受け取れないし……すぐに溶けちゃうんでしょう?』 『いつか、ここから出られたら、これ渡しに行く! ぼく、絶対行く! 約束!!』 『ぁ……』 『約束!!』 『……うん』 『欲しいって思ったものは、手に入るよ。絶対に! ぼくが、それ、証明してあげる!!』 『……うん』 少女はコクンと頷き、しばらく、静かに氷のことを見下ろしていたけれど、突然口元を押さえた。 『トワ?』 『ごめん、もう行かないと』 『また、来てくれる?』 『……うん……』 最後、青い顔に一生懸命笑顔を浮かべて、彼女は応えてくれた。 だから、自分はずっと待っていた。 窓の外を見上げて、また、白い翼の天使が舞い降りてきてくれるのを、待っていた。 第九節 瓜二つ 記憶はいつでも曖昧だ。 その時全身全霊で放ったはずの約束の言葉さえ、気が付けば、一体どんな約束であったかも、忘れてしまう事だってある。 ただ、妄信的にトワを愛する。 それは如何にも偏執的で、その感情を受ける相手は、とても不快であったろう。 そんなことを顧みる余裕がないほど、自分には君しかなかったんだと。そんな言葉は青すぎて、自分では言えるわけも無いけれど。 「トワ、警備を抜けるから、その間だけ、気を失ったフリしててもらえるか?」 エレベータの中、氷は静かにそう言った。 あまり選択する時間はない。 トワは渋々コクリと頷いて、そっと氷に手を差し伸べてきた。 氷はトワの体を引き寄せて、軽々とお姫様だっこの形で持ち上げた。 「ちょっと……!」 「役得ってことで勘弁してよ」 氷は優しくウィンクして、ニッと笑った。 エレベータが1階に到着する音が鳴ったので、トワは観念するように目を閉じた。 「変なとこ触ったら、どうなるかわかってるんでしょうね?」 「シィ」 トワの言葉を軽く流して、氷は彼女の体を持ち直し、すっと姿勢を正した。 エレベータの扉が開き、氷は軽い足運びで降りる。 すると、そこには、気持ちが悪くなるほど自分そっくりの男が、立っていた。 氷は舌打ちをして、相手を見据える。 室内に配備されていた警備兵は全員凍りついて、固まっていた。 氷βは機嫌悪そうに、こちらに視線を寄越す。 自分と同じ赤い目に、狂ったような血の色が混じっている。 「嘗めたことしてんじゃねぇよ、出来損ない」 「二番煎じがよく言うぜ」 氷は冷静に言葉を返し、トワをそっと下ろした。 トワも自分の足できちんと立ち、氷βを見つめる。 「退がってな」 氷は優しい声でそう言い、彼女を庇うように立ちはだかった。 どうやら、相手は自身と氷の見分けも出来ずに、顔パスさせた警備連中が気に食わなかったようだが、それは仕方の無いことだ。 恨むのならば、こんな悪趣味なことを躊躇いも無く、しでかすクソ親父を恨むしかないのだ。 「……テメェ、親父に造られたんだろうが。なんで、親父の邪魔すんだよ」 「は? あんなクソ親父知るか、バァカ。オレ様はなー、テメェで決めたもんの味方になるって決めてんだよ」 「そんな女、親父の目的のための道具でしかねーのに。馬っ鹿じゃねぇの?」 「ふっ……」 「何がおかしい?」 「お前だって、そうだろうがよ。道具扱いしかされてねーのに、それに気が付きもしないで、使われて。ホント、お前みたいなのが一番体のいい道具だろうな」 言葉を返しながら、少しずつ少しずつ空間を自分の領域にするために、氷は力を放出する。 トワの体には障らないように、彼女のいる場所だけ、薄い氷の膜で覆った。 幼い頃、コントロールできなかった力。 徐々に制御することが出来るようになった代わりに、自分はフルパワーでこの力を使うことが出来なくなった。 だが、今は違う。 ハズキとの契約が、遅まきながら、役立つ時が来た訳だ。 その力のあてどころが、ミカナギでないことは非常に残念だが、そこは仕方ない。 ただ、大事な人を守るためにこの力を使うことが出来る。 それだけで、今は十分だ。 |
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