第十節 絶対零度の闘い


 氷βの腕に構築されていく氷の剣。
 氷はそれを警戒しながら、冷静に空間を手繰り寄せる。
 室内の温度が徐々に下がり、零下に至る。それでもなお、下を目指す。
 肌さえ凍りつく空間へ。虹の塔1階は、徐々に様相を変貌させていく。
 この空間の中、平然と立っていられるのは、氷と、目の前の氷βくらいだろう。
 後ろの安全区画に隔離されたトワが不服そうに氷の壁を叩く音がした。
「氷!」
「なんだ?」
「大丈夫なんでしょうね?」
「おいおい、信用しろよ。ミカナギの時は、そんなこと聞きもしねーくせに」
 氷はコキコキと首を鳴らし、手首足首をグルグルと回した。
 そして、踵を返し、親指で自分を示し、気障っぽくウィンクしてみせる。
「カッコいいとこ、見せてやっからさ。そこで黙って見てろよ」
 氷の隙をついて氷βが動いたことを、空気の流れから感じ取り、素早く屈み込んだ。
 氷βの氷の剣が空を切り、氷は勢いよく床に手をついて、それを支えに思い切り足を後ろに向けて突き上げた。
 ガスッと確かな手応えと一緒に、氷βの体が床を滑っていく音がした。
 逆立ちの姿勢になり、それから元の姿勢に戻って、吹き飛んだ相手を見た。
 相手は顎を押さえ、フルフルと頭を振って、ゆっくりと立ち上がった。
 氷は人差し指でこちらに招き入れるように指を動かし、挑発してみせる。
 これならば、負けない。そう確信する。
 この男の動きは大したことがない。ミカナギに比べたら、全然だ。
「来いよ、二番煎じ」
 その声に反応するように、氷βが動いた。
 空間に氷の矢を形成し、それを飛ばしてくる。
 だが、そんな芸当は氷でもなんなくこなせるので、特に物珍しいことはなかった。
 同様に氷の矢を形成し、ぶつけるのを目的に飛ばす。
 氷の矢がぶつかり合い、激しい音を立てて次々と砕け散る。
 氷は氷βの動きにのみ警戒し、相手がいつまで経っても動かないので、床を蹴った。
 氷の矢がぶつかり合う脇をすり抜け、転がっている氷の欠片を拾い上げて、思い切り投げつけた。
 しかし、それを回避しようともせず、氷の欠片は氷βの体にぶつかり、跳ね返……るかと思われたが、すり抜けて、床に落ちた。
 幻?
 そう思った時には遅く、氷の後ろで声がした。
「死ね」
 直感的に体が動く。右への回避行動。
 氷βの剣はまたもや、空を切る。だが、その後に、氷βの後ろから氷の矢が飛んできた。
 氷は奥歯を噛み締め、一瞬で氷の壁をそこに形成した。
 氷の矢が目の前で爆ぜ、氷の壁にはヒビさえ入らなかった。
 氷βがつまらなそうに舌打ちをするが、氷はそれに対して苦い顔を返した。
 ただのクローンじゃないわけだ。
 どういう発想で編み出したのかは知らないが、この力で幻を作り出し、姿を消すとは……。
 だが。
「負けるかよ」
 氷は静かにそう呟いた。
 負けられるか。好きな女の前で、そんな無様な醜態は晒せない。
 氷の壁をそのまま肘で押し、前へと倒した。
 氷βが慌てて後ずさる。氷は倒れた氷の壁を踏みつけ、そのまま氷βの襟を引き寄せた。
 思い切り殴りつけ、そのまま両手をかざして、氷βの周囲を氷の壁で覆った。
 殴られて吹き飛んでいる途中だったので、突然現れた氷の壁の一画に頭をぶつける氷β。
 力が同種であるゆえのやりづらさはあるのだが、それでも、氷の力は快調だった。
 相手が、普通の人間だったら、一瞬にして、室内にいる人間全員を氷漬けにしてしまう自信があった。
 氷は氷βを睨みつけ、静かに念じた。
 逃げ場の無い氷の部屋の中。氷βに向かって、無数の氷の矢が飛びかかる。
「ぐぁッ!」
 氷βが苦しそうに悲鳴をあげ、それでも急所を避けるように体を動かしている。
 氷の壁に覆われた狭い行動範囲の中で、彼の反射神経はなかなかのものだった。
 なので、氷はダメ押しで念じる。
 氷の矢を形成するのをやめ、氷βのいる空間全てを凍結させた。
 その瞬間、室内から音が消える。
 氷は目を細め、警戒するように氷の壁の中を見据える。
 軽く息を吐き出し、首元の汗を拭った。
 氷βは動かない。彼自身が氷漬けになることはないだろうが、空間全体を凍らせれば、数時間は動きが取れないはず。
「思ったより、軽かったな」
 そんな言葉を吐き捨て、氷は空間に行き渡らせていた自分の力を解いた。
 少しだけ周囲の空気が柔らかくなり、氷の体も軽くなった。
 トワのいるエレベータの前まで歩きながら、横目で氷βの動向を確認する。
 特に変化はない。問題ない。すぐにここを立ち去ろう。
 視線を前へ移すと、トワが安堵したような表情で、こちらを見つめていた。
 今までつれなかった彼女が、ほんの少しだけ、氷に心を開いてくれている。
 だから、思わず、氷の表情も優しくなった。
 ホント、単純かもしれないけれど、自分はやっぱりこの女が好きだ。そんな言葉が、脳裏を過ぎる。
「今、膜取り除くから、離れてろ、トワ」
 そう言って、拳にはーと息を吹きかける。
 ゆっくりと振りかぶり、拳を握り直した瞬間、トワの表情が強張ったのが見えた。
「氷、危ない!」
 刹那、その言葉が耳に入る。けれど、氷はかわすことはせずに、後ろに向かって裏拳を放った。
 かわさない選択をした理由は簡単だ。
 脇腹に激痛が走り、けれど、それと同時に、左手の甲にメキリと確かな手応えを覚えた。
「痛ぅッ」
 氷は顔をしかめて、脇腹に手をやり、刺さった氷の剣を引き抜いた。
 引き抜くのと同時に、ボタボタと脇腹から血が滴る。
 けれど、そんなのは全然構わなかった。
 自己治癒力があるからこそ、取れた選択肢。
 そのうち直る。大したものじゃない。
 綺麗に眉間に拳がクリーンヒットして、グラグラしている氷βの体を、剣ごと引き寄せ、襟を掴んで睨みつけた。
「テメェ、トワに当たるの、分かっててやりやがったろ」
「当たり前だろ。そうすれば、お前、避けねーもん」
 意識は朦朧としているくせに、挑発的にそんなことを言って、氷βは笑う。
 なので、氷も苦痛に耐えながら、ニヤリと笑ってやった。
「ああ、避けねぇよ。避けるわけがねぇ。二番煎じ、テメェ、消えたいみてぇだな」
「消えるのはお前だ。同じ顔は2つと要らねぇ」
「それは、こっちの台詞だ!」
 氷は猛り、吼える。
 その声は激しく、室内に響き渡った。
 振りかぶり、思い切り殴りつける。二度、三度、繰り返し繰り返し。まるで、サンドバッグでも殴るように、氷は怒りにたぎった表情で、氷βを殴りつける。
 氷βが氷の拳を受け止め、ようやくその乱打が止んだ。
 ふー、ふー、と肩で息をし、氷は氷βを睨む。
 氷βは、特にダメージが無いような表情で、氷を見据えてくる。
 ピキピキピキ、と氷の形成される音がして、氷βの口元が歪に歪んだ。
「死ね」
「奇遇だな、オレもそう言いたかったとこだよ」
 氷は彼の言葉にそう返し、同じように笑ってみせた。
 氷の後ろに形成されているであろう氷の矢は、氷に向かって、落ちてくることはなかった。
 氷βが焦るように目を見開く。
「なんで?」
「今、ここは、オレ様の絶対領域だ。なんでもクソもあるかよ!」
 氷は昂揚している自分を抑えながら、そう言い切り、氷βの腹に足を掛け、思い切り蹴り飛ばした。
 すぐに、氷βが造り出した氷の矢を、自分の物のように扱い、飛ばす。
 立て続けに、氷の矢を形成し、蜂の巣にでもするように矢を放った。
 先程の氷のマネをするように、氷βは氷の壁を作り出し、それを全て跳ね除けた。
 けれど、氷の壁の耐久力が弱かったのか、すぐに横へと飛びのき、残りの矢をかわす。
 氷は決して攻撃の手を緩めない。
 ターゲットとしてロックオンされた氷βに向かって、氷の矢は幾重にも飛んでいく。
 時に真っ直ぐ。時に変化球。時には、頭上に出来上がっていた氷柱が落ちる。
 狙われる側はたまったものではない。
 室温が再び下がっていく。
 先程とは違い、荒くなった呼吸が、空間に白い湯気を作り出す。
 リミッターを外した戦い方なうえに、先程刺された脇腹が痛い。消耗が激しいのは当然か。
 子供の頃は、よく、こんな状態で平然と過ごしていたものだ。
 頭が、痛い。
 フラリと体が傾いだ。
「氷、大丈夫?」
「ああ、平気だよ。そっちは無事か?」
「馬鹿。なんでかわさないのよ。私なら平気だったのに」
「オレの顔で、お前に傷なんかつけさせてたまっか」
「…………。あなた、本当に、バカね」
「クッ。普通、ありがとうの1つくらい言ってもらえる場面じゃね? ここって。ま、いいけどさ。色ボケのバカで、アンタのために死ねるんなら、本望さ。死ぬつもりは毛頭ねーけどな」
 氷は脇腹を擦りながら、優しい声でそう言い、口元を吊り上げる。
 どんなに好きだと言っても届かない。
 そんなことは分かりきっているのに、その相手に対して、命を捧げても構わないと。
 そう言い切ってしまう自分を、他の誰かは何と言うのだろう。
 愚かというだろうか。誠実だというだろうか。
 いや、別に、他の誰が何を言ったって、本当は構いはしないのだ。
 自分が、彼女を好きだという事実。
 それだけが、自分の中で揺らがない真実であるのだから。
 それがそんなに簡単に覆るようなことだったら、自分はこんなところにいない。
「迷惑かもしんねー。要らないかもしんねー。でも、知っていて欲しいんだ」
 氷の言葉を、トワは無言で聞いていた。
 氷の背中を、優しい目で見つめて、聞いている。けれど、氷は、そんなことには気が付かない。
「オレは、アンタのおかげで救われた。アンタが笑ってくれたから。オレの力で笑ってくれたから、だから、こうして生きててもいいんだって思えた。オレは、アンタに再会する為に、アンタとの約束を果たす為だけに……ここにいるんだ」
「氷……」
「月色」
「え?」
「髪」
 思い出して欲しくて、氷は静かに、幼い頃の彼女の言葉を反芻する。
 けれど、彼女はまだ思い出さない。
 氷は唇を噛み締め、冴え冴えとした声で言う。
「欲しいって思ったものは、手に入るよ」
「ぇ?」
「オレの欲しいものが、仮に手に入らなくても、アンタの欲しいものは、絶対に」
 氷は氷βから視線を外し、ジッとトワを見た。
 トワが、ようやく、何かに思い当たったような表情で、氷を見た。
 氷は、静かに目を閉じ、腕を組んで、再び、氷βに視線を戻した。
 氷βは何重にも氷の壁を作り出し、なんとか、攻撃を抑えることに成功したのか、体を休めるように、氷の壁に背を預けていた。
 氷の壁に矢がぶつかり、突き刺さり、砕ける音が響く。
 そんな中、彼女の声がした。
「……ごめんなさい……」
「なんで、謝るの?」
「……忘れてた……」
「今更だ」
「……私、あの日、とても嫌なことがあって……だから、あの日のこと……全部、記憶の奥底に封印してたの。ごめんなさい……」
「いいよ、気持ち悪ぃ。謝るなよ。アンタは、オレの中じゃ、そういうキャラじゃねぇよ」
「……けど」
「オレがいいって言うんだから、謝んないでくれ。それに……オレもだいぶいかれてて、約束の内容、最近まで忘れてたし」
「……わかった」
「ああ。あとで、約束、果たすから」
「え?」
「あとちょっと、待っててくれや」
 氷は静かに言い、トワに肩越しに笑いかけた。
 氷βが氷の壁にもたれたまま動く様子が無い。
 また、幻を残して、どこかに消えたのかもしれない。
 氷は呼吸を止めて、周囲に意識を集中した。
 おそらく、奴は凍えるような空気を作り出し、それに溶け込むことで姿を消すことを可能にしている。
 氷βは、自分の体を気体まで昇華し、固体へと戻すことが出来る。
 人体構成を考える時、それが理論上可能かどうかなんて知らないが、氷とは別の何かを施されているのであれば、出来ないことはないかもしれない。
 ……そういえば、奴の体からは血が出ていない……。
 先程乱打したにも関わらず、肌自体には全然ダメージなんてないように見えた。
 氷は、チッと舌打ちをし、前髪を掻き上げる。
「そういうことか……」
 奴は氷の顔をし、TG−Mと同じく、人間のような風貌をしているが、構成自体がもしかしたら異なるのかもしれない。
 そうだ。それならば、説明がつく。
 氷は右側に、自分が作り出している空間よりも高い温度があることを察知し、その空間を瞬時に凍らせた。
 ……が、位置が若干ずれたのか、氷βが器用にかわしたのか、どちらかはわからないが、当たることは無く、別の場所から氷βが顔を出した。
 顔から首へ、首から胸へ、胸から腹へと。徐々に氷が集まり、体の形を形成していく。
 氷は険しい表情で睨みつける。
「この氷野郎……TG−Mですらねぇのかよ。あのクソ親父……いい加減にしやがれ!」
 面倒なことになったものだ。
 倒す相手が氷の塊の化け物とは。
 脇腹の出血がようやく治まり、氷はグッと奥歯を噛み締めた。



*** 第十三章 第九節 第十三章 第十一節 ***
トップページへ


inserted by FC2 system