ミカナギは警備兵が通り過ぎるのを見送り、壁にピッタリとつけていた背中を弛緩させた。
 電力供給が復活したので、楽に移動が出来るかと思ったが、ミズキの区画を取り囲んでいた警備兵たちが全員撤退してきたようで、彼らを避けるために、結局のところ、エレベーターやエスカレーターを利用することが出来なかった。
「くっそ、遠い。あと、ちょい……」
 ミカナギはジワジワにじみ出てくる顔の汗を拭い、呼吸を整えた。
 ミズキにも念のためトワの居場所は連絡しておいた。
 あとで、アインスか誰かを支援に送ってくれるかもしれないが、あちらはあちらで、大変な状況になっているようだったので、大きな期待はしていない。
 ハウデルとコルト。2人がやられた。
 ミカナギは目を細め、ポケットに入れていたツヴァイに贈ったブレスレットを握り締める。
「仇は、取る……」
 静かに呟いたが、その声には確かな怒りがこもっていた。
 しっかり前を見据え、ミカナギは駆け出す。
 ……が、靴に違和感を覚えて、すぐに立ち止まった。
「おいおい、縁起でもねー……」
 頑丈な皮の靴紐が切れていた。
 ミカナギは胸に過ぎる嫌な予感に口元を歪める。
 急いで靴紐を外し、替えの靴紐を取り出して通し直す。
 焦っているからか、手元が狂う。それが余計に、ミカナギを焦らせた。
「落ち着け……」
 自身に言い聞かせながら、なんとか、靴紐を結び終える。
 長い旅を越えて来た仲間だ。きっと疲弊していたのだろう。そう、それだけだ。迷信なんて信じない。
 先程、突然切れた通信が頭を過ぎる。
 あの後、リダイヤルしても、アクセスが拒否されてしまい、彼女の声を聞くことは敵わなかった。
 嫌な予感しか、頭には浮かばない。
 ミカナギはそれを振り払うように頭を振り、すっくと立ち上がる。
「急がねぇと……」
 ミカナギはその言葉と共に、勢いよく駆け出した。
 頼む。無事でいてくれ。
 心を過ぎるのは、その言葉だけ。
 彼女の安全を考えての行動が、逆にこういう状況になってしまった。
 言ってしまった言葉だけでも後悔しているのに、自分の判断が招いてしまった状況に、ミカナギは奥歯を噛み締めるしかなかった。


第十一節 黄泉比良坂


「芸がねーな」
 氷βが飄々とそう言い、氷を思い切り殴りつけてきた。
 鼻っ柱に当たるのは避けられたが、下手に避けたため、殴られた反動で首がきつくねじれた。
「ッ……」
 すぐに足に力を込めて踏み止まり、殴り返す。
 しかし、氷の拳は空を切り、またもや氷βは姿を消した。
 同じ技の応酬。芸が無いのは、どちらも同じこと。
 相手は姿を消しては現れ、地味に一撃一撃喰らわせてゆく。傷ひとつひとつは大したことも無く、氷の自己治癒力を持ってすれば、いとも容易く癒えるのだが、そのひとつひとつを癒すために、いくらかのエネルギーが割かれてしまうために、疲労の増加が著しかった。
 氷は口に溜まった血を吐き出し、静かに笑みを浮かべた。
 参ったな……。心の中をそんな言葉が過ぎる。
 こちらは最初からほぼフルパワーで攻撃を仕掛けた。そのせいで、消耗が激しい。
 あちらも幾分かのダメージはあるはずだが、その程度が全く読めない。氷は推し量るように相手の気配を探した。
 消耗はしているはずだ。絶対に。
 永久的に動き続けるエネルギーの持ち主など存在しない。
 ロボットだって、なんだって、必ず、その源となるものは有限なのだから。
 目を閉じ、呼吸を繰り返す。鼓動が穏やかに時を刻むまで、一心に呼吸を整える。
 疲弊した頭に必死で酸素を送り込む。
 解き放つ一撃に賭けるように、氷は小さな袋の中にパンパンになるくらいまで、エネルギーを貯め込んだ。
 氷の右後方で、ゆらりと微かな風を起こして、空気が揺らぐ。
 氷は一瞬呼吸を止め、その空間を手繰り寄せた。
 氷は掴んだ気配に向けて手をかざし、叫ぶ。
「凍てろ!」
 しかし、その叫びは虚しく響き、大きな氷の塊がその場に出来て、そのまま床に大きな音を立てて落ちただけだった。
 氷の一片が雲母の欠片のようにパラパラと剥がれ、崩れ落ちた。
 表情を歪め、奥歯を噛んで、遠のく意識を必死に呼び止める。
 渾身の一撃を放ったところで、当たらなければ意味などない。
 出ては隠れ、出ては隠れ……、よくもまぁ続くものだ。
 余裕綽々でかわされているとは思えない。技が当たらないのは、気配を捕捉するのに若干のズレが生じているだけだと思われる。
 気配の捕捉にズレが発生する原因があるとすれば、精神集中が上手くいっていないため、だ。
 自己治癒の負担と、絶対領域を作り出しているために掛かる負荷。
 この2つがかさばって、疲労を蓄積させているからだ。
 この空間全体に行き渡らせている自分の力を解放し、氷βを倒すことだけに意識を集中できればいい。
 ただ、その作戦には1つだけ難点があった。
 力を解放することで、トワを護っている氷の膜が数分もすれば溶けてしまうこと。
 今の彼女は只の女だ。
 プラントを制御する権限を持たず、武器も無い。
 元より、彼女の力が万全であったなら、氷の塊である氷βを倒すことは容易かったであろう。
 はじめから、これらは計算されていたのだ。
 トワを攫うための駒である氷βを上手く使うために、行なわれた作戦。
 ハズキを囮にして、トワを手に入れるために。
 何を考えているか分からない、冷徹で、寒々しい父親は、どこまでも狡猾に場の状況を見ていたということだ。
 しかし、そうまでして、トワを欲しがった理由は何だ?
 氷にはその意図が全く読めなかった。
 氷βのトワに対する扱いを見ると、彼女が死んだら死んだで、その時はその時……そんな雰囲気さえある。
 でなければ、躊躇わずに彼女に向かって、突きを放とうとなど出来ないはずだ。
 無論、氷がそれを防ぐのを見越していたからではあるが、万が一にかわした場合、あの突きは彼女を捉えていただろう。だからこそ、余計にわからなくなる。
「なんで、お前みたいなのが1番目に生まれちゃったんだろうね」
 氷βの声が室内に響く。
「オレが最初から生まれてれば、こんな苦労せずに済んだのに」
「氷の塊が言う言葉かよ」
 氷は嘲るように言葉を返す。
 その言葉で、氷βは沈黙した。
 鼓動がドクンドクンと跳ねる。
 どこから来る? どう仕掛けてくる?
 それだけが、頭の中を巡る。
「氷だろうがなんだろうが……オレは、あの人の自慢のガキになる。ただ、それだけだ」
「ホント、お前、馬鹿だよ」
 氷は冷め冷めと言い放つ。
 ほんの子供の頃、自分も同じことを思ったものだ。
 けれど、そんなことをいくら望んだとしても、あの男の心の中には、自分という存在はいなかった。
 いたのならば、あれほどの苦痛を、自分だけで抱え込まなくてはならずに済んだはずだから。
 1番苦しくて、自分の価値を認めて欲しい、その瞬間に、彼は父親らしいことを何ひとつせずに、自分の半身を、閉ざされた牢獄へ閉じ込めただけ。
「アイツは……誰のことも認めねーよ。自分自身のことすら、認めてないんだ」
 彼の遺伝子を継ぐからこそ分かるのかもしれない。
 彼の心から溢れ出ている寂しさは……孤独、などというものじゃない。
 孤独にはまだ救いがある。誰かが寄り添ってくれれば、いつか救われるかもしれない。
 けれど、その寂しさの元は、孤独ではなく、無だ。
 ポッカリと、穴が空いている。
 自分自身でも補えない。誰も補えない。補うことの出来ない、何も無い場所。
 どんなに周囲に人がいても、想う者がそこにいても、それを受け入れることの出来ない……悲しい性を持つ者。
「誰かを認めれば、価値を持てるじゃんか」
「何?」
「認められることで価値を見出すだけじゃない。誰かを評価することでだって、人はそこに存在する意義を見出せる」
 ぼんやりと氷βが姿を現した。
 氷はチャンスだと思いながらも、彼の言葉で攻撃を躊躇してしまった。
「いいんだ。本当は、些細な存在でも。……それでもいいから、オレは親父に認めて欲しい。そうすれば、あの人だって、あんなに投げやりに世界を見なくなるかもしんねー」
 パキパキと音を立てて、自分自身の姿を構築していく氷β。
「ナンセンスだわ」
 ポツリとトワが1人ごちた。
 彼への同情なのか、それとも呆れなのか。それはわからない。
 ただ、彼女の小さな呟きが、優しく胸に響いた。
 氷βは静かに目を細め、数秒動きを止めたが、隙をつくかのように一瞬で腕に氷の剣を形成し、横に跳んだ。
「ヒャーッハァ! おめーら、単純だな。こんな手に引っ掛かるって相当馬鹿!」
 氷は数瞬遅れて反応した。
 狙いを完全にトワに切り替えてきた。
 そうすれば、氷が庇いに入ることを見越して。
 氷は氷の矢を形成する間もなく、ただ、床を蹴った。
「んなこったろうと思ったよ」
 精一杯の強がりと共に、氷はトワの前に立ちはだかる。
 氷βの歪んだ気味の悪い笑み。
 スローモーションで剣先が胸へと突き刺さり、そのまま、自分の体を貫いていった。
 ポタポタと胸からこぼれる血液。
「氷!」
「クハハッ! ホント、馬鹿だよ。おめでたいよ! 弱点丸分かりな敵ほどいたぶり甲斐ある奴もいねーよな!」
 楽しそうに笑う氷β。
 グリグリと体の中を抉られる感覚に、氷は声にならない悲鳴を漏らした。
 氷βは笑い声を上げながら、小さな氷の矢を作り出し、それを少しずつ氷の体へ突き刺していく。
 痛みを感じながら、氷はそれをまるで他人事のように見つめていた。
「氷! しっかりして!!」
 しっかりしてるよ。
 心の中でそう呟く。
 目の前では、自分と同じ顔した男が下卑た表情を浮かべて、狂ったように顔を近づけてくる。
 気味が悪ぃな。顔寄せんじゃねぇよ。
 口を動かそうとしたが、声にならない。
 体中から血が噴き出してくるのを感じながら、それでも、その光景が他人事のようで、滑稽だった。
 指先を動かそうと試みるが、言うことを聞いてはくれなかった。
 段々と、目の前が暗くなり、氷は呼吸を出来ているのかすらわからなくなった。

 世界から音が消えた。

 胸に刺さっていたはずの氷の剣も、体中に出来た傷も、全て嘘のように消えていた。
 氷はぼんやりと闇の中に立ち尽くし、死んじまったのか? だっせぇと呟いた。
 口は動いたが、音にはならなかった。
 目の前に広がる広大な闇が、氷を呼ぶようにおいでおいでしている。
 その招きに、体が応えそうになる。
 その衝動を、必死の思いで抑えこむ。
 護らなければいけない人がいる。
 そのためには、死ぬわけにはいかなかった。
 招きに応えたらおしまいだ。そう、本能が氷に教えてくれる。
 引き返さなければ。たとえ、死ぬとしても、それはトワとの約束を果たしてからが良い。
 でなければ、自分が今の今まで生き続けてきた意味が無くなってしまう。
 けれど、どっちに行けばいいのかわからなかった。
 足が招きに応えて前に出ようとする。それを氷は拳を握り締めて堪えた。
 戻れねぇのかよ。音にならないことを承知で、口を動かす。
 そうして、どれだけの間、前へと歩きたい衝動と戦い続けたろうか。
 治まることのない衝動に負けて前へと歩き出しそうになった瞬間、目の前を光が横切った。
 最初は星のように小さな輝きが点滅しながら、フラフラと飛んでいたが、それが段々と近付いてきて大きくなった。大きくなったことでわかったのは、その輝きは、翼のようにはばたきを繰り返しているということ。
 氷は目を見開く。
 それは、幼い頃のトワだった。
 バサバサと音を立てて、はばたきを繰り返しながら、氷の頭上までやってくる。
 激しい風圧が、氷の髪をなびかせた。
 トワは徐々に高度を下げ、小さな手を差し伸べてきた。
『行きましょう』
 優しいトワの声。
 その声に反応して、手を伸ばしそうになった。けれど、触れそうになった瞬間、本能が何かを警告するようにビリビリ騒いだ。
『どうしたの?』
 不思議そうにトワが尋ねてくる。
 氷は伸ばした手を引っ込め、ふいとそっぽを向いた。
『ねぇ、行きましょうよ。月を見に行きましょう?』
 氷の腕を掴み、駄々をこねるようにブンブンと引っ張ってくる。
 氷はそれを横目で見て、鼻で笑った。
『死神は、芝居が下手なんだな』
 初めて、この世界で声が出た。
 氷の言葉に、トワがきょとんと目を丸くした。
 何のこと? とでも言いたげな無垢な瞳。
 しかし、無垢な時点で、全てが間違いなのだ。
『オレの惚れた女はね、他人に甘えるなんて芸当の出来る女じゃないんだよ』
 静かに目を細め、氷は笑う。
『不器用で、そのくせ、とっても素直なんだ』
 氷は踵を返し、彼女が飛んできた方向とは逆方向へと歩き出す。
『護れずにやられたオレに対して、あの女は、そんな甘ったるいこと言ってはくんねーよ』
 氷はクックッと喉を鳴らして笑いながら、歩き続ける。
 後を追ってくる気配はない。
 どうやら、あの世と逆方向に歩いているという判断は間違いではないらしい。
 徐々に周囲が明るくなり、体中に痛みが走り始めた。
 苦痛に身を捩じらせながらも、前へと進む。
 滲む血、胸には激痛。なんで、こんな苦しいのに、戻ろうとしてるのだろうか。そんな疑問が心を過ぎる。
 傷だらけになりながら、氷はゆっくりと目を開けた。
 目の前には、狂気に歪んだ表情の氷βがいた。
 自分の中では長い時だったが、それほど時が経っていないのだろうか?
 体勢は意識を失う前とほとんど変わっていなかった。
「氷! 返事しなさい!!」
 彼女の痛切な声が耳に届く。
 氷は血の気の失せている右手に力を込めて、一心不乱に胸に刺さった氷の剣を掴んだ。
「なっ」
 突然動き出した氷に、意表を突かれたのか、氷βは慌てて剣を切り離し、間合いを取ろうとしてきた。
 けれど、氷がそれを許すはずはなく、後ろに跳び退ろうとした氷βの腕を思い切り握り締めた。
 剣は胸に刺さったまま。激痛は鈍痛となり、ズキズキと変な脈を打つ。
 けれど、そんなことには構わずに、氷は意識を集中させた。
「凍てつけ、バァカ」
 その言葉と共に、氷の両手から冷気が迸る。
 逃がしはしない。
 これで決める。
 氷は目を見開いて、自分の中に残っている全てのエネルギーを氷βへと注ぎ込んだ。



*** 第十三章 第十節 *第十三章 第十二節 ***
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