第六節 あなたなんて存在しなければ。


 エレベーターが最上階に到着し、タゴルは横でへたり込んでいるトワに視線を動かした。
「立て」
 厳しい声でタゴルはそれだけ言った。
 けれど、トワはその言葉に反応できず、浅い呼吸を繰り返しながら、必死に意識が遠のくのを繋ぎ止めていた。
 意識を失えば最後、自分は、この世界には戻ってこられないような……そんな予感がしていた。
 トワは胸を押さえ、涙をこぼす。
 心を抉り取られていく。思い出・記憶・大切にしてきた感情……全てを容赦なく。
 この感覚を表現しろと言われたら、ウィルスに侵されたコンピューター。トワならそう答える。
 一部への攻撃が全体へと伝播していく様子はまさに同じだった。
 トワは抉られ、削り取られた欠片に必死に手を伸ばし、消えないように抱き締める。
「い……や……」
「トワ」
「いや、死にたくない……死にたくない……死にたく、ないよぉ……助けて……」
 タゴルはトワの様子を見て、惑いを覚えたのか、何も言わずに優しい手でトワを引き起こした。  抱え込むようにゆっくりとトワの体を支え、エレベーターを降りる。
 トワはぐらつく視界を見つめ、短く息を吐いた。
 部屋の奥には、トワがいつもドームから見上げていた虹の根元には大きな装置があり、虹は煌々と輝いてそこから空へと伸びていた。
 どうしたことか、虹が視界に入ったことで、心が少しばかり崩壊のスピードを緩めた。
 タゴルが手に持っていた装置を操作すると、ガチャリと音がして、虹を包んでいる透明な膜と、天井にあるドームが外れた。
 タゴルはゆっくりとトワを壁にもたせかけて座らせると、こちらへと手を伸ばしてきた。
 勿論、トワは条件反射でその手にビクリと肩を跳ねさせた。が、タゴルはそんなことには構うことなく、トワの前髪を直して、何かを考えるように見つめてきた。
 トワにはその行動の意味がわからず、ただきつい眼差しで睨み返すことしか出来ない。
 自分の目が涙ぐんでいることにまで、思考は動かない。
 タゴルは潤んだ目で気丈に睨みつけてくるトワがおかしかったのか、ニヒルな笑みを浮かべ、鼻で笑った。
 そして、まるで人が変わったかのように話し始めた。
「自分の望まぬ世界であれば、必要ないと思うことはないか? 今のこの苦しさは全て夢で、目を覚ましたら、母親がシャーベットを作って笑顔でおやつだと言う。長い長い悪夢であれば良いと……私はよく思うことがある」
「……私、も、よく、思う」
「ああ、そうだろうな。お前は私に……」
「でも」
「 ? 」
「この悪夢が覚めたら、もしかしたら、ミカナギのいない世界かもしれない。天羽の、いない世界かもしれない。ミズキ、ハズキ……ママやツムギ、誰かが存在しない世界だったら……その世界は、それこそ意味がないわ」
 トワは背中で時折震える翼にそっと触れた。
「こんなものさえなかったら。TG−Mなんかじゃなかったら。ママやツムギが死んだりしなかったら。あなたなんか存在しなければ。……文句なんて山ほどある……。それでも、それら全てがなかったら、今はない。そのことに、私は、気が付いた」
 トワは掌で涙を拭い、下唇を噛み締める。
 タゴルはその言葉に対して、眉間に皺を寄せて応えた。
「気が付いたけど、私はあなただけは絶対に認めない。あなたにどんなことがあるかなんて、私にはわからない。知りたいとも思わない。思えない。あなたなんか大っ嫌い! あなたなんかのために……あなたのせいで、ママもツムギも死んだのよ!! ……この世界が必要ないと思うのなら、あなたが消えれば良い! 私や、みんなを巻き込まないで……!!」
 きっと、ママであれば、タゴルのことをわかろうとし、知ろうとするんだろう。
 きっと、ツムギであれば、タゴルのことをわかっていて、知っていて、……それでも、厳しいことを言わずに、共に歩くことを選ぶのだろう。
 きっと、ミカナギであれば…………。ミカナギであれば、タゴルをぶん殴って、朗らかに言ってのけるだろう。このクソジジイと。それで、終わりにしてしまうかのような笑顔で。
 けれど、トワはどれでもない。彼らのように強くもないし、彼らのようにタゴルに寛容にはなれない。
 せめて責めて、少しでも、目の前のこの男に、楔を埋め込みたい。
 それをしたところで何になるか。そんなものは関係ない。理由なんか要らない。
 ずっと言ってやりたかった言葉、それを消え行く記憶の中から必死に引っ張り出した。ただそれだけのこと。
「……私は、死ぬためだけに生きてきた」
 タゴルは目を細め、静かに言った。
「ツムギやサラは、そんな私を必死に繋ぎ止めようとした」
 静かに立ち上がり、タゴルはトワを置いて、虹へと歩いていく。
 トワは遠くの世界で響く音を聞くかのように、タゴルの声を聞いていた。
「家族は良いものだと、ツムギが言い、私にTG−Mの培養方法を教えてくれた。けれど、私に造れたものは、他者を拒む氷の能力に蝕まれた忌むべき子だった」
 氷のことなのはすぐにわかった。
「傷つくのが可哀想で、閉じ込めた。いつか消えてしまうのが、可哀想で……近くには置かなかった」
 タゴルは部屋の中央で立ち止まり、腰の後ろに手を回し、虹を仰ぎ見る。
「お前をモルモットにしようとした私に対して、サラは初めて怒った」
 トワは鈍い痛みに耐えながら、立ち上がる。
 まだ、翼の全ての力は発動していない。止められる。
 生きたいと願う心だけが、トワの体を突き動かした。
「そうして言った。独りだから心が貧しくなる。わたしはいつでもあなたの傍にいたかったのに、あなたは常に独りであろうとばかりした。だから、言ってやった。ならば、私のものになれ、と」
 タゴルは苦しそうに息を吐き、顔を押さえた。
「答えは、それでトワを傷つけないでくれるなら、だった。本当は、私のものになどなる気もないくせに、サラはそう言って、当然のように私を受け入れた。嫌な女だ……天使は、常に穢れることがない。それを私に見せ付けただけではないか」
 嫌な女だと言いながら、その声は愛しさに溢れていた。
 トワはよろよろとタゴルの元へと歩み寄る。
 装置を奪い、発動を止める。そうすれば、元通りになるはず。
 1歩。2歩。3歩。
 足が重い。
 ほんの数メートルが、とても遠く感じられた。
 トワは手を伸ばす。タゴルの背中に手が届く。そう思われた瞬間……タゴルはゆっくりと虹へと歩き始めた。
 トワの手が空を切り、翼がガクンと重くなった。
 痛みと重さに耐えられず、トワはその場に倒れこむ。
 床に手をつき、這いながら顔を上げた。
 長い髪が汗で頬に張り付く。脂汗が額に浮く。
「死にたがりの私は生き、この世界を愛した2人は死んだ。皮肉なものだ」
 タゴルは虹にそっと触れ、こちらを向いて笑った。
「だが、それも今日で終わる。ツムギとサラに伝えたい言葉はあるか? もしも、お前が会えなかったら、私が2人に伝えてやろう」
 私は死ぬ気はない。その言葉は、もう声にならなかった。
 体が動かず、トワは遂にその場に突っ伏してしまった。
 眠い。
 痛みも重さもいつの間にか感じられなくなり、最後に感じたのはその感覚だった。
 眠りに落ちる意識の中、今までのことが、走馬灯のように駆け巡る。
 きっと、本人には言ってやらないけれど、その時、駆け巡った全ての思い出の中に、ミカナギは常にいた。
 一緒に生まれた対。対から家族に、家族からかけがえのない好きな人に、好きな人から恋人に。
 ミカナギの存在は常にトワの傍にあった。
 ねぇ……ミカナギ……もしも、これが悪い夢なのだとしたら、今度目を覚ます時には、あなたが目の前で笑ってくれるといい。そしたら、私も笑顔を返して、あなたに言うわ。あなたが助けに来てくれないから、怖い夢を見たじゃない。どうしてくれるの? って。
 心の中、トワの声は静かに融けた。
 タゴルは、もう、部屋にはいなくなっていた。



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