ミカナギは、御神薙と書く。
 あまりにも大仰なのでトワは呼びたがらないが、その名前は……遺伝子の大元の半分となったソルにあやかってのことだった。
 太陽(神)を薙ぐ者。
 それが、ミカナギの名前の由来だった。
 サラが2人に託した想い。
 それは報われなかったサラとソルの恋すらも含まれていた。
 2人が惹かれあうことを願っていたのだ。
 当然のように、分かるのだと彼女が言ったのは、その願いがあったからだ。
 自分の想いを子に託し、サラは自分を愛してくれる人の傍にいることを選んだ。
 ツムギの愛は無償の愛だった。その言葉が一番しっくり来る。
 嫉妬もするし、サラの行動に対し、軽蔑の情を見せることもあった。
 それでも、最後には抱き締めて許してくれる。
 ツムギの愛は、決して恋に起因しない。親のような愛だった。サラはそれを分かっていた。分かっていながら、彼と共に生きることを選んだのだ。
 サラの我儘を全て受け入れてくれる……稀有な男。
 その懐の深さに、サラはいつも恐れ入るほどだった。
 何も返すことが出来ない。その申し訳なさと共に、サラは彼の妻でいた。
 心には、常にソルを擁きながら。


第十節 世界と貴女、どちらかしか選べなかったら、どうしようか? 解答編


 エレベーターを降り、ソルの視界に飛び込んできたのは、倒れているトワの姿だった。
 翼が虹の光を受けて7色に輝き、彼女の白のワンピースも、白い肌も、綺麗に光を反射していた。
 死がそこに横たわっている。
 そう感じた瞬間、ソルを押しのけてミカナギが意識の最上部へと浮上してきた。
 ミカナギはすぐにトワの傍に駆け寄り、彼女の顔を覗き込んだ。
 彼女の顔には、全くと言っていいほど感情の色が無かった。
 いつも無表情が普通だった彼女だったが、そんなものは比ではない。
 美しい顔立ちだけが当然のように存在し、それ以外何も無いのだ。
 ミカナギは眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めた。
「兎環……目ぇ開けろ」
 ミカナギは、翼を背中に負いながら倒れているトワの体を抱き起こし、優しい声で呼びかける。
 青い顔。体温が感じられないほど、彼女の体はひんやりとしていた。手がダラリと力なく床につく。心が折れそうになった。
 脈が弱かった。それでも、まだ、この中に彼女がいるのだと確信し、ミカナギは心を強く持つ。
 必死に声が震えそうになるのを堪え、二度三度呼びかける。
「目覚ませよ、兎環! 助けに来たんだ。帰るんだろ? 頼むから……オレのこと、罵ろうがなんだろうが、構わねぇから、起きろよ!!」
 背中に触れた手から伝わってくる脈は徐々に弱まっていく。
 けれど、自分は呼びかけることしか出来ない。
 それが歯痒くて、ミカナギは唇を強く噛み締めた。
 ジワリと血が滲み、口内に鉄の味が広がる。
 トワを強く抱き締め、すがるように泣く。
 何が守護者だ。何が対だ。何が……恋人だ。護ることも出来ないのなら、そんな称号など何の意味も持たない。
 称号なんて要らない。
 彼女という存在がそこになければ、意味なんて無いのだから。
「嫌だ……こんなのは望んでない。絶対に、こんなの駄目だ! オレが、死んでもお前を護るんだ! オレが消えても、お前は生きるんだ!! お前だけは、絶対に、絶対に……」
 そこまで叫んで、ミカナギはその先が声に出来ず、強く抱き締めたまま、泣き崩れる。
 広い最上階の部屋に、ミカナギの嗚咽だけが響いた。
「……遅い……」
 ミカナギの耳元で、蚊の鳴くような弱々しい声がした。
 すぐにミカナギは目を見開き、彼女から体を離して、トワを見つめた。
 トワは生気のない顔で、ふわりと笑い、震える手でミカナギの頬に触れた。
「何、泣いてんのよ……泣き虫、ミカナギ」
「兎環……」
「……夢じゃないのね……」
「え?」
「悪い夢だったら、よかったのにって……思ったの……全部……」
 ミカナギはトワの消え入るような声に必死に耳を傾ける。
 頬に触れる手に、自分の手を添えて、トワを見つめた。
 そんなミカナギの神妙な表情がおかしかったのか、トワはおかしそうに笑った。
「……私、死ぬんだ、ね……」
「ば、馬鹿! 何言ってんだ! 死なねぇよ!!」
「まぁ……いっか……最期が、あなたの腕の中、なら……。私を壊したのが……アイツなのは、気に、く、わない、けど……」
 トワの手が力を失い、頬に微かにあった冷たさが消えた。
 ミカナギはトワの体を支え直し、ブンブンと首を横に振った。
「バッキャロ……死なないって、言ってんだろが! いいか? 今死んだら、オレ、お前の体であんなことやこんなことしてやる。今まで出来なかったこと、全部、全部やるぞ!?」
「馬鹿は……あなたよ、ミカナギ……バァカ……」
 トワの表情は終始幸せそうで、死と向き合っている者には、全然見えなかった。
 けれど、彼女の目はゆっくりと閉じられ、一気に体から力が抜けた。
 ミカナギは目を見開き、息を止めた。
 ミカナギの腕の中で、彼女の体から重さが消える。

『え、ええ。あ、あと……あなたも、戻ってきて……』
『オレも、こいつについてけばいいの?』
『そう。……会い、たい……から、一度、こっちに……』
 久しぶりの声での再会で、彼女は今まで聞いたことがないくらいの優しい声と優しい言葉で、ミカナギに好意を伝えてきた。

『早く会ってみたいなと』
『…………』
『もしもし?』
『……あ、ごめん、ちょっと音が遠くなった』
『早くあ』
『あ、ごめん、ちょっとシステムエラー発生したから、またそのうち掛ける』
 こちらからの好意の言葉に対して、彼女はいとも簡単に照れた。

『どうして、謝るの?』
『え?』
『あなたが記憶を失った原因が、どこにあるのかも分からないのに、謝る必要なんてないわ』
『…………』
『それだけの重みが、あなたにあった。それなのに、私はあなたを独りにしてしまった……。私にはあなたに謝られる資格はない』
 独りにしてしまったのはこちらだったのに、彼女はそう言って、優しく頭を撫でてくれた。

『選んで』
『え?』
『世界か私か……どちらか選んで』
 あれは、彼女の最初で最後の……本当の我儘だった。
 ただ、2人で在ること。
 それさえも、許されないことへの、彼女が出来た……たったひとつの反抗。

 普段の傍若無人な振る舞いをおしても尚、彼女のミカナギに対する愛情は、計ろうとして計れるものではなかった。
 自分が周囲の人間や世界のことばかり気に掛けることが出来たのは、彼女がいつでも自分のことだけを見つめ、自分のことだけを思いやってくれていたからだ。

 彼女が……消える?
 何かの冗談だろ?
 誰か、嘘だと、言ってくれ。


『ひとつだけ、彼女を救う方法がある』
 頭の中で、声がした。前に聞いたことのある声だった。
「だ、れだ?」
『時々、お前の体を借りて動いていた者だ』
「……オレの、体を?」
『感じていただろう? 3人目の存在を。それが、オレだ』
 ミカナギは目を細める。
 先程も、いつの間にかエレベータで最上階に来ていた。
 思い当たる節はいくつかあったので、何も返さずに次の言葉を待った。
『あのおっさん……タゴルの願いを虹龍が受け入れた時、兎環の命は本当に消える』
「にじりゅう?」
『塔の虹は、龍が形を変えた姿だ。サラはレイドラと呼んでいたが、オレは虹龍と呼んだもんだ』
「お前は一体……?」
『時間がない。無駄話は省くぞ。虹龍は、翼持つ者の意志と願いを聞き入れ、世界の構成を変える力を持っている。だから、虹龍が言うことを聞くのは、現時点では、兎環と天羽の願いだけだ。だが、タゴルはその構成を無理矢理捻じ曲げやがった。お前の右目に埋め込まれている物と同じ構成の、兎環の翼を開く鍵を作り、虹龍の封印を無理矢理解いた』
「ちょっと待て! 翼持つ者の願いを聞き入れるなら! なんで、ママは死んだんだ?!」
『虹龍が聞き入れる願いは1人につき、1つ。サラは、その約束を破ってしまった。虹龍のお気に入りだったからこそ、言えた我儘とも言えるが……虹龍がそれを許しても、仕組みまでは変えることが叶わなかったんだろう』
「そんな制約がなんであるんだよ……」
『お前は無限のエネルギーなどというものが存在すると思うか? それと同じだ。虹龍もまた、無限でない造られた存在である、そういうことだ』
 ミカナギは目を細め、兎環の体を抱き寄せて、次の言葉を待った。
『先に聞いておく。お前は、世界と彼女、どちらを選ぶ?』
 その言葉にミカナギは静かに目を閉じ、迷う必要も無かった答えを引き出す。
「……世界も、兎環も、オレはどちらも捨てない」
 その言葉に、頭の中の彼は静かに笑った。まるで、その答えを期待していたかのように。
『本題に入ろう。彼女を救う方法だが』
「ああ」
『右目に埋め込まれている鍵を使って、彼女の翼の力を解放すればいい』
「解放?」
『彼女の体から、翼を取り出す。元々、サラと違い、彼女の翼は体に無理矢理埋め込まれたものだからな』
「……けど、どうやって?」
『方法を話す前に』
「なんだよ、勿体つけんなよ」
『この方法は、お前の命の保証がない。それでも、やるか?』
 ミカナギはその言葉に息を止めた。
 兎環の顔を見つめ、ニィッと白い歯を見せて笑う。
「愚問ってやつだな。誰に聞いてんだ?」
『そうか』
 相手もその答えを期待していたのか、全く動じることなく、笑った。
「だが、言っておくぜ」
『?』
「オレは、死なねー。意地でもな」
 トワが悲しむことだけは、絶対にしない。
 ずっと、自分が死んでも彼女が助かるのならいいと思ってきた。
 けれど、もう、その考えは捨てる。
 自分が死んだら、彼女は助かったとしても、ずっと悲しんで過ごすことになる。
 そんなのは、ミカナギの望む未来じゃない。
『……そうだな。じゃ、始めようか』
 その声が合図となり、ミカナギの右目がドクンと大きく脈打った。
 右目を押さえ、激痛に悶える。
 目を瞑ると、暗闇の中に文字が浮かび上がった。
 それは見たことのない文字だったが、ミカナギの口はその文字を簡単に読み上げた。
 読み終わると、右目から発される熱も激痛も一瞬の内に消え去り、目から涙が零れ落ちた。
 翼がぼんやりと光を発しているのが見えた。
 ミカナギは体に任せるままに、トワの背中へと手を伸ばし、翼に手を掛ける。
 力を入れ、思い切り引き抜くと、トワが苦しそうな声と共に呼吸を取り戻した。
「っ……はぁっ……っぅく」
「兎環?」
「……み、か、なぎ?」
「大丈夫だぞ、兎環。お前はオレが絶対に護ってやるって、言ったろ?」
 ミカナギは優しく笑い、桜色の髪を丁寧に撫でた。
『さぁ……タゴルを追おう』
「…………」
『ヤツの願いが叶ったら、サラの願いを叶えることが出来ない』
「ママとツムギの願いだ」
『ああ、そうだな……』
 ミカナギは心を静め、トワの体から引き剥がした翼を自分の体に取り込む。
 翼が根付いた瞬間、うだるような熱と吐き気が襲ってきたが、ミカナギはそれを堪えて、トワを抱き上げて立ち上がった。
「ミカナギ……?」
「兎環ちゃん、ちょっと待っててくれな。あとちょっとで、全部終わるから」
「ぇ……? っん……」
 ミカナギは兎環にしっかりと口づけ、優しく笑った。
「愛してる。オレの命、全部、お前に預けるって決めたから。だから、待っててくれな」
 顔から火が出そうなほど、恥ずかしい言葉を告げ、ミカナギはトワをゆっくりと下ろした。
 疲労のためか、トワはすぐにその場にへたり込む。
 ミカナギはゆっくりと虹の根元に向かって歩き出した。
 その時、エレベーターが到達する音がして、ミズキが部屋へと駆け込んできた。
「トワ! ミカナギ!!」
 ミカナギはその声に足を止め、振り返って笑った。
「ちょうどいいとこに来た。ミズキ、トワが歩けねーみたいなんだ。何かあったら、連れて逃げてくれ」
「え? ミカナギ、その翼……」
「いいか? お兄ちゃんからのお願いだ。お姉ちゃんのことは、任したからな?」
 ミカナギはピッとミズキを指差し、釘を刺すようにそう言うと、踵を返して再び歩き出す。
「ミカナギ……行かないで……」
「いい子だから、待ってろよ?」
 彼女の声に足が止まりそうになる。
 けれど、ミカナギは翼をそっと撫でてから、後ろ手を振って笑った。
「ちょっと、むかつくヤツ、ぶん殴ってくっからさ!」
 その言葉と共に、ミカナギはタンと地面を蹴り、頭で飛ぶことをイメージした。



*** 第十四章 第八節・第九節 第十四章 第十一節 ***
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