第十一節 孤独な王の、心の寄る辺


 タゴルは颯爽と虹を渡る。
 どこまでも広がる雲海。
 煌々と満ちた月が、自分を見下ろしている。
 夜空に架けられた虹色の橋。
 その虹色に輝く橋を渡り、目指すは常世の国。
 まるで、おとぎ話のような光景だ。
 天国というものがあるのだとすれば、このような光景のことだと言われても、納得できるように思う。
 あの忌まわしい出来事からこれまで、多くの出会いと別れを繰り返し、それら全てに心が動かなかったと言えば、それは完全に嘘だ。
 自分だって、人間らしく心を動かし、笑い、怒り、泣き、60年近く生きてきた。
 タゴルの初恋は、奇妙、としか形容のしようがなかった。
 見つけた時には随分と年上に見えたサラも、目覚めた時には自分よりも年下になっていた。
 その少女に魅せられて、けれど、自分に素直になることが出来ずに、初恋の花は儚く散った。
 いや、自分が散らせた……というのが、正しい表現か。
 思い返してみると笑えることだが、その当時はその状況を笑うことなど出来なかったのだ。
 他人の裏切りを怖れ、疑心暗鬼に苛まれ、信じることが出来たのは……母が違う弟のツムギと、その母親だけだった。
 それでも、徐々に心を許し、心通ったと思ったサラの心の中には……、たった1人、どうしても消えることのない男がいることを知り、異常に神経質で完璧主義な自分は、それを許容することが出来なかった。
 相手を傷つけ、そして、自分も傷ついた。
 その数年後のことだ。
 ツムギがサラと結婚する、などと言い出したのは。
 最初は単なる戯言かと思った。
 けれど、そうではなかった。
 2人きりで酒を飲んだ時、弟とこんな話をした。
『僕はね、兄さん。報われなくてもいいから、傍にいることを選んだんだ。サラさんは、ああいう人だから、きっと、この結婚にさえ、僕の想いを汲み取ってはくれないかもしれない。僕も、重くならないように他の口実を取ってつけてしまったしね』
『口実?』
『サラさんのクローンを作ることにしたんだ』
『クローン?』
 当時、もう既にツムギはサラの背の翼を、彼女の意思で出し入れすることが出来るように遺伝子を改良した後だった。
 おそらく、その時に、思いついてしまったのだろう。
『実際には、遺伝子を元にして、ところどころ情報をいじるんだけど』
『お前、それは……』
『人の法に触れたとしても、僕は、護りたいものがあるんだ』
『護りたいもの?』
『サラさんと……兄さんだよ』
『…………』
『兄さんは……青い空が大好きだったって、母さんが言ってた。テロリスト連中が属していた教団と、王家が対立していても、兄さんだけは同情的な意見を述べていたって。ただ、幼いという理由だけで、その意見や提案のどれもこれも、採用されることはなかったそうだけど』
『……どうでもいいことだ』
『兄さんが、他人を信じるのをやめたのも、そのせいだったんだろうね』
『どうでもいいことだと言っている。聞こえないのか?』
『兄さん、僕が、楽園を作るよ』
『楽園?』
『僕も、サラさんも、そして、兄さんも心安らいで暮らせる、そんな楽園だよ』
 ツムギは屈託なく笑い、タゴルの空いたグラスに、ワインをドボドボと注ぎ入れた。
 弟は出来のいい男だった。男としても、人間としても、科学者としても。
 その弟が、サラの後を追うように死んだという話を聞いたその日は、ツムギの母親の国の酒を、1人であおった。
 サラを1人で逝かせたくなかったのだろう。
 そういう男だ。そして、それで良かったと自分は思う。
 たとえ、自分が独りになったとしても、サラが1人ぼっちでないのであれば、それでいいと思った。
 けれど、思った以上に自分の心は素直で、すぐに彼らに逢いたくなった。
 父とも、母とも、妹とも……一度心が動くと、逢いたいという気持ちが、よみがえり、湧き出してきた。
 そう思ったところで叶わないことは、いい年をした大人だからわかってはいたのだけれど。
 トワの翼の研究は、はじめは興味本位で始めたものだった。
 優秀な弟が作り出した、出来のいいモルモットの中には、どれほどのデータが詰まっているのか。
 それを科学者として、知りたかっただけのことだった。
 けれど、その行為がサラの逆鱗に触れ、想いとは反対の……契約上の関係を持つ間柄に成り下がってしまった。
 それでも、2人が亡くなった後、ツムギがトワの研究を進めてもいいと遺言を残したことを知って、タゴルは研究を再開した。
 ただ、申し訳ないと思うのは、その研究が、サラやツムギが望んだ楽園を作るためのものでなく、自分が彼らと同じ場所へ逝くことを叶える……そのためだけだったこと。
 自分には、ツムギの言う楽園はもう既に価値がないのだ。
 たとえ、もし、仮に50年前のような青空を取り戻し、綺麗な空気と活気のある人々の表情や街並みを取り戻したとしても、自分には、それを称え、喜び、語り合う相手がいない。
 そして、世界が活気を取り戻した後、人類が二度と同じ過ちを繰り返さないという保証はどこにもない。
 人は痛みをすぐ忘れる。
 苦しんで辛い思いをして取り戻したものでさえ、そのものの重みを忘れてしまう。
 そんな者たちに、ツムギやサラの想いを託せと?
 そんなことは、無理な注文だ。
「タゴルー! 待ちやがれ!!」
 後ろから暑苦しい男の呼ぶ声がして、タゴルはそこで我に返った。
 周囲の景色が変わらないこともあって、一体、どれほどの距離を歩いてきたのかは全く想像できない。
 そして、あの男がここまで追いかけてくることも、想像はしていなかった。
 愛する者の亡骸を前に、泣き伏しているとばかり思っていた。
 タゴルは構わずに歩き、彼の足音だけが、夜の空間に響き渡る。
「こら、ジジイ! 待てっつってんだよ!!」
 翼の羽ばたく音がして、次の瞬間、肩を掴まれ、そのまま殴られた。
 軽くよろめくが、踏み止まって、殴られた頬を押さえ、相手を睨みつける。
 そして、彼を見た瞬間、思わず目を見開いた。
 ミカナギの背にあるのは……トワの翼だ。
 何度も実験で目にしていたからすぐにわかった。
 けれど、どうやって、彼がトワの翼を持つに至った?
 そんなことは出来るわけがない。
「なぜ、その翼を……」
「アンタは認めたくないだろうが、オレも、ママの遺伝子を引き継いだ正統なTG−Mだからな。出来ないことはない! 出来なかったら、あとは、全部根性でなんとかすらぁ。それだけの話だ」
「根性……? 相変わらず、ふざけたヤツだ。虫酸が走る」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ。ハートがありゃ、よっぽどのことは何とかならぁ」
 ミカナギの表情は怒りに染まっていたが、それでも、口調は飄々としていた。
 コキコキと両の拳を握り、音を鳴らすミカナギ。
「今殴ったのは、オレの怒り分だ。全然足らないが、ちょいすっきりしたわ」
 目は笑っていないが、白い歯だけがチラリと覗いた。



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