子供の頃見た天使は……その10年後に目を覚ました。
 悲しげな、色の無い顔に、アメジストの光が差し込んで、タゴルはその光に簡単に囚われた。
 ツムギが小さいながらも、サラに手を差し伸べ、彼女をポッドから出してあげた。
 タゴルは何も言うことなく、壁に寄りかかってその様子を見守っていた。
 目が合って、彼女は微かに笑ったように見えた。
 その微笑みの意味を知るのは、それからしばらくしてからのことだったけれど。
 タゴルは、世界の全てが嫌になっても尚、この髪にだけは、誇りを持っていたから。
 彼女が、空の色にも似たこの髪を見て、少しでも心安らぐ時があったのであれば、それだけで良かったと、今は思えるのだ。


第十三節 かつて見た天使は、もういない


 タゴルが目を覚ますと、カノウの顔が一番に目に入った。
 心配そうな表情で、こちらを覗きこみ、意識が戻ったのを確認した瞬間、その表情は柔らかく動いた。
 その表情の動きは、まるでサラのようで、タゴルは思わず目を見開いた。
「よかった……。よ、かっ……た……」
 カノウはその言葉しか出てこないように繰り返しながら、グシグシと涙を拭う。
「カノウ、タゴル殿は?」
「目、覚ましたよ……」
「そうですか」
 アインスがカノウの言葉に、優しいニュアンスで返事をし、2人から遠ざかるように歩いてゆく。
「こ、こは……?」
「地上です」
「なぜ、お前が……?」
「ボク、言いたいことが、あって……それで、追いかけてきて……そしたら……あなたが落ちてゆくのが、見えたから」
「……言いたい、こと?」
「ボク、……ボク……、孤児なんです。でも、うっすらと、お母さんの記憶はあって……、その人は天羽ちゃんみたいに、可愛らしい人なんです」
「そうか……」
 タゴルは静かにカノウの声に耳を傾ける。
「ニールセンさんから、聞きました」
「 ? 」
「ボクの髪、すっごく珍しい色なんだって。……その、だから……」
「私と、同じ色だな」
 タゴルはカノウの言わんとしていることを察して、穏やかに言った。
 その言葉にカノウが嬉しそうに顔をほころばせる。
 死ぬつもりだった。死んで、地獄ではなく、みんなのいる場所へ逝くつもりだった。
 けれど、もう、それは叶わない。
 自ら断とうとした命も、こうして繋がれた。
 ……生きろと、言われているのだろう……。そう、観念するしかない。
 60年近く生きてきた。
 あと10年、20年など、どうということはない。
 それは、諦めにも似た感情だけれど。
「……あなたが、ボクの、お父さんですか?」
 カノウは迷うように目を泳がせながら、それでも、なんとか言ってのける。
 タゴルは目を細め、カノウから目を逸らす。
「お前は……母親似のようだ」
 その言葉だけで十分だったように、カノウは笑う。
 本当に、サラに似ている。
 自分のこんな愛想のない言い回しに、嬉しそうに微笑んでくれたのは、彼女と、カノウだけだ。
 それだけで、もう少し生きてみるのもいいかと思う自分は、なんとゲンキンだろうか。
「お、おと、おと、お父さん、あの、ボク」
「なんだ?」
「間違っているのがわかっているんなら、きちんと、正すべきだと思います!」
「…………」
「確かに、変えられないものもあるかもしれないけど、自分が変えようとしたこと、変わろうとしたことは……きちんと残ると思うから! ボク、ボクは! 色んな人に会って、仲間が出来て、す、好きな人が出来て……それで、一歩ずつ、確かに、それは小さな一歩だったかもしれないけれど、変われたんです。だから、変われないなんて言わないで欲しい」
「……この年で、変われと言われても、しんどいだけだ」
「それは! 変わる努力をした後に言うべきです。はじめから出来ないなんて言葉を口にしちゃ駄目だよ! あ、です」
「そうか……」
 叱られたのはいつ以来だろう?
 サラが亡くなってからはずっと無かったように思う。
 いや、そうでもないか……。
 体中が痛い。ミカナギに殴られたところが、熱を持っている。
 あの男も、怒りに任せて、とはいえ、あれは……まさに説教だった。
 大嫌いだと言いながら、あそこまで情熱を持って突っかかってこられる男もいるのだ。
 とはいえ、ガンガン殴られて言われる言葉よりも、実の息子に真っ直ぐ言い放たれた言葉のほうが、容易に心に届いてしまう訳で、それを受け入れている自分自身に苦笑が漏れる。
「そういえば、小僧、は?」
「え?」
「ミカナギは、どうした……?」
「……ミカナギ、ですか?」
 カノウはそっと空を見上げた。
 そこで、タゴルも気が付く。
 空には、月が浮かんでいた。
 星も無数に瞬き、スモッグ混じりの雲たちは何処にも見当たらない。
 空に架かっていた虹も消え、そこには、子供の頃見た綺麗な空が広がっていた。
 夜空の星がキラキラ輝いて、月と共に2人を照らし出す。
 どれほど、遠回りをしたことだろう。
 はじめから選べていれば、何もかも……悲劇にならずに済んだのに。
 きっと、自分は地獄逝きだ。
 かつて見た天使にはもう出会えないけれど、それでも、まだ自分には生きてもいい理由が残されていたのだと、そのことだけに、心が救われる。
 サラ……すまなかった。
 ツムギ……許してくれ。
 お前たちの忘れ形見が、世界を元通りにしたようだ。
 私は、もう少しだけ生きることにしたよ。
 どれほど、死にたがっても、常世の国は私を拒むらしい。
 ……どうして、死ななくていい者が死んで、死んでいい者が生き残ってしまうのだろうな……? サラ……。



*** 第十四章 第十二節 第十五章 第一節 ***
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