第4章  聞こえてくるのは、過去の呼び声(前編)


 淡雪は、教室で1人……最近出たばかりの文庫小説を読んでいた。
 窓の外では、運動部連中の掛け声があちこち響き渡っている。
 放課後、こうして、本を読みふけるのが淡雪の習慣だった。

 『1日1時間は読書をしましょう』
 小学校でよく言われることだが、淡雪にとっては食事をするのと同じくらい、読書をすることが大事だった。
 なぜなのかは分からない。
 だが、1日でもそれを欠かすと、体調が不安定になる。
 ひどい時には頭痛で動けなくなったりする。
 だから、どうしても本が手放せなかった。
 読めるのならなんでもいい。
 辞書だろうと、教科書だろうと、電話帳だろうと……だ。
 ただ、字を読む……それが、淡雪にとって、重要な行為なのだった。

 区切りのいいところまで読み進めると、栞を挟み、本を閉じた。
 ふぅ……とため息をつき、うぅ〜んと伸びをする。
 小説の内容にはあまり興味はなかった。
 本当にただ、字を読んでいるだけ……そんな感じだ。
 話題になっている割には大したことがない……と感じてはいるけれど。

 頬杖をついて、窓の外に目をやった。
 ちょうど、この教室の真下にはソフトボール部のグラウンドがある。
 日向がソフトボール部に所属しているのだ。
 ポジションはピッチャー。あれでいて、結構運動神経はいい。

 どうやら、今はノックの最中のようだ。
 フライやらゴロやら、いろんな球が飛び交っている。
「ノック……ってことは、もうすぐ終わりか」
 いそいそと文庫本をデイバッグにしまうと、すぐに立ち上がった。
 放課後、わざわざ残って本を読んでいるのにも一応の理由があった。

 日向の部活が終わるのをいつも待っているのだ。
 安曇には、過保護……とよくからかわれるのだが、実際、日向は変質者に遭遇する率が高いのだから、これは賢明な選択だと、淡雪は自負している。
 一応、日向の母親にも、任されているのだし。
 こんな田舎町で、うまいこと、変質者のお世話になる少女……というのも稀であろう。
 まぁ……理由はなんとなく察しがつくのだけど、本人が可哀想なので、言わないことにする。

 デイバッグを背負ったところで、誰かが教室に入ってきた。
 顔を上げると、雨都が立っていた。
「忘れ物?」
 穏やかに声をかける。
 日向が雨都と仲良くなってから、話をする頻度が増えたことで、雨都に対しての戸惑いのようなものは、一応は薄れていた。
 雨都は自分の机に向かうわけでもなく、入り口のところで立ち尽くしている。
 何かを考えるように、瞳はじっと床を捉えていた。
 淡雪は首を傾げる。
 どうも……この少女は、日向といる時といない時では表情からなにからが一変する。
 いや、同性の友人がいるのといないのでは違って当然なのかもしれないけれど。
 まして、仲が良いのは日向と雨都であって、淡雪と安曇はただのクラスメイトなのだし。

 沈黙が教室に流れる。
 外ではソフトボール部が「ありがとうございましたぁ!」と締めの言葉を叫んでいる。
 そろそろ、行かないと日向に手間を取らせてしまうと考えながらも、淡雪はこの沈黙の中でなんとなく察した。
「僕に……用?」
 そう言うと、雨都が驚いたようにこちらを見た。
 まだ何も言ってないのに、なぜわかるのか? とでも思ったように。

 判断材料は有り余るほどにあった。
 最近は、別段気にも留めていなかったが、雨都は去年からずっと淡雪のことを見ていた。
 気がつくと、こちらをジッと見ていて、目が合うと慌てて逸らされる。
 そんなことの繰り返しだった。
 関わることもなかったから、不思議な子だな……くらいで済ませていたところがあった。
 ただ……好意でも、敵意でもない、その視線に……戸惑ってはいたのだが。
「何か、話があるなら聞くよ?」
 めいっぱい、穏やかな声で促す。

 雨都の視線は淡雪を捉えている。
 いつも、淡雪を見ている眼差しではなかった。
 少しだけ……何かを決意したような眼差し。

「ここじゃ、話し辛いから、屋上に行かない?」
 廊下を行き交う生徒たちの存在を気にしたのか、雨都はそう言うと、淡雪の返事も待たずにスタスタと歩いていってしまった。
「…………。これって、屋上に行くこと、決定事項なんだよな……」
 一応……一応、確認のために呟いた。
 別に誰も答えてはくれないのだが。

 表情は頑なで、言葉も無遠慮な感じだった。
 本当に……日向といる時とはずいぶんな差だ。

 淡雪は雨都を追いかけるように教室を出る。
 雨都はもう10メートル先にある階段の踊り場に入っていってしまっていた。
 目的地はわかっているから慌てる必要はないのだが、なんとなく、淡雪は慌てた。
 急いで雨都に追いつこうと、少しだけ早足になる。
 男子生徒が3人で談笑しているところを通り抜ける。

 ふと……こんな言葉が耳についた。
「十二神ってさ、綺麗なんだけど、何考えてっかわかんねーよな」
「ああ、それはあるよな。いっつも1人だし、話し方きついところあるし」
「あ……でもさ、最近、希(ねがう)さんと一緒にいるところ、よく見ない?」
「ああ、そういえばそうだな。せっかく、日向ちゃん、女友達多いのに、あいつといると減るんじゃねぇの?」
「……そんなもんかねぇ」
「だってよ、女ってそういうところ、あるだろ?姉貴がそんな感じだから、なんとなくわかる」

 不快感を覚えたのは言うまでもない。
 だが、面倒ごとに首をつっこむ性格でもなかったので、あえてスルーした。
 彼らの偏見にまで口出しをするのもどうかと思ったし。
 少しだけ……彼らの言い分もわかるような気がしたし。

 踊り場に出て、上を見上げる。
 もう、屋上に入ってしまったのだろうか?
 足音はしなかった。
 ここは3階だし、速いというほどではない。
 日向を待たせていることも考えて、淡雪は急ぎ足で階段を上ろうとした。
 しかし、ちょうどその時、後ろから呼び止められた。

 1段目を踏んだ状態で振り返ると、そこには副担任・設楽八朔(したらほずみ)先生が立っていた。
 通称・ハッサクくん。
 日向が呼んでいるのを聞いて、ほとんどのクラスメイトが裏でそう呼ぶようになった。
 別に馬鹿にしてではなく、愛称である。
 色素の薄い髪に、優顔の細面。
 のほほんとした雰囲気を、シャープな銀縁メガネのおかげで、出来る人に還元できている……と言ったら失礼に当たるだろうか。
 背は淡雪より少し低い……が、大して目線の高さは変わらない。

「水無瀬くん、お帰りですか?」
 明らかに屋上に行こうとしている淡雪に対して、あっさりと呆けた言葉をかましてくれた。
 ニコニコ笑顔でほんやりしているくせに、教え方が上手だから、着任一月にして、だいぶ生徒からは愛されていると、淡雪は感じている。
「あ、いえ、ちょっと、風に当たろうかと思いまして」
 淡雪も穏やかに笑って言葉を返す。
 そう言われてから、ようやく気がついたというように、自分で頷く八朔先生。
「ああ、そうか……この上は屋上なんでしたねぇ。これは失礼」
「いいえ、先生は、わざわざ三階になにか用事ですか?」
「あー……単に見て回っていただけですよ。一応、校舎内見回り……なんていうのも、仕事の内に入っているものですから」
「そうなんですか、ご苦労様です」
「いいえ、仕事ですから。それでは、気をつけて帰ってくださいね」
 八朔先生はにこやかにそう言うと、スタスタと階段を下りていってしまった。
 屋上の見回りはしなくてもいいのだろうか? と不思議に思ったけれど、とりあえず、雨都を待たせていることもあって、踏み出していた一歩目の足に力を入れた。



第3章 ← → 第5章
トップページへ戻る


inserted by FC2 system