第4章  聞こえてくるのは、過去の呼び声(後編)


 海からの風に目を細める雨都の横顔を見つめながら、話を切り出されるのを待っていた。
 雨都が微かに笑みを浮かべて、
「ここは風が気持ちいいわ」
 と嬉しそうに呟く。
 よく屋上で弁当を食べるのだが、その時も、日向の横で気持ちよさそうに海からの風を受け止めていたのを思い出した。
「屋上が好き?」
 なんとなく、そう尋ねた。
 沈黙よりはずっとましだと思ったから。
「屋上……というより、吹き上げてくる潮風が好き」
 雨都は、視線を海に向けたまま、そう言った。

 この町は、南部が海に面し、北部は山に囲まれている。
 よく近所の漁師さんが、たくさん獲れた内のいくつかを家に置いていってくれたりする。
 そのくらい、田舎なのである。
 だが、田舎だからこそ、いいものもある。
 屋上だけでなく、少し高いところから見下ろす海の景色は、何者にも変えられないくらいの美しさを誇っていた。
 別に、南の島のように澄み切った海……な訳ではないのだが、遠くに見える島々がアクセントとなって、言葉には変えがたい景色を見せてくれていた。

「委員長」
「ん?なに?」
「これから……私が言うこと、冷静に聞ける?」
 突然、雨都がそんなことを言った。
 淡雪は眉をへの字にして、
「話の内容によると思うけど……」
 と苦笑交じりに答える。
 すると、雨都は目を伏せて
「そうよね」
 とだけ呟いた。

 考えるように、あごに手を当てる。
 そして、何秒かしてから、決意したように体をこちらへと向けた。
「これから、私が言うことに対して、怒ってもいいし、私を罵倒しても構わないから。それだけは断っておくわ。あなたは……遠慮しそうだから」
「なにそれ?僕が怒るようなことなの?」
「わからないわ……私だったら怒るけど、あなたが怒るかまでは。でも、何をされても、私はそれを当然のことと受け止められるから、遠慮はしないでほしい」
 決意の眼差しに、淡雪は少し気圧された……が、なんとか頷く。
 それを確認して、雨都がとても短い安堵の息を漏らした。

 潮風が彼女の髪を横殴りにさらっていく。
 制服のリボンが、ひらひらと揺れていた。

 まだ野球部が練習しているのか、グラウンドから低い掛け声が聞こえてくる。
 5月初旬のこの時期だからか、日はもうすぐ山の向こうへと消えようとしていた。

 そんな中で、淡雪はただ……切なそうな雨都の瞳だけを見つめていた。
 風に流された髪を耳に掛け直して、雨都が静かに淡雪を見つめ返してくる。

 雨都が何を言おうとしているのか……それは全く予想もつかない。
 けれど、彼女の決意の眼差しが、淡雪に重大さを感じさせた。
 ごくりと……唾を飲み込む。

「……”おつるい”という言葉に聞き覚えはない?」
 少しだけ、躊躇うような間を置いて、雨都が静かに切り出してきた。
 ピクリと反応をする淡雪。
 雨都は返事を待っているのか、次の言葉を出してはこない。

 淡雪は一瞬考えた。
 思い出すのに考える必要などないけれど、答え方をどうするか、決めあぐねたのだ。

 ”おつるい”。
 聞き覚えがないはずはなかった。
 それは……ずっと昔、淡雪が”今の名前になる”前に世話になった、一族の名だ。
 時は平安……。
 都で名を馳せる学者一族の割に、山奥で暮らしているという、変り種だった。
 雨都はそのことを訊いているのだろうか?

 淡雪は答えに困って黙り込む。
 自分から切り出さなければ、淡雪が答えてくれないことは、なんとなく察していたのか、雨都が口を開いた。
「時は平安……”おつるい”家は、とある農家から1人の少年を養子に取った。その少年を使って、ある仮説の実証を計るために」
 淡雪は驚いて目を見開いた。
 いや……本当なら、”おつるい”の名が出た時点で、警戒すべきだった。
 あんな単語を、”日向たちと同い年の子”が知っていることさえ、おかしいことなのだから。
 自分の中で、うすぼんやりとし始めていた過去。
 安寧の中に身を置くことで、  忘れてもいいと思い始めていた過去を……この少女が知っているというのか?

「その仮説とは……『多くのことを暗記することによって、神通力を手に入れることが可能になる』という、現代から考えたら、それはもうくだらないとしか言えないようなもの。その仮説の元になった人間を、あなたも名前ぐらいは知っているはず。稗田阿礼(ひえだのあれ)。人並み外れた記憶力で、『旧辞』と『帝記』を暗誦し、『古事記』と『日本書紀』に形を成すまでの数十年間、全てを記憶していたと言われる人物よ。表向きな文献には残っていないけれど、稗田阿礼は記憶力の他にも、不思議な力を持っていたの。その事実を記した文献を”おつるい”の人間が、ある時発見した。そうして、さっき言った仮説が打ち立てられた。実験のために、多くの子供たちが、”おつるい”の家にやってきたわ。けれど、”おつるい”の求める答えを出してくれる子供はなかなか現れることはなかった。そんな中で、その少年は見事に一族の期待に応えてくれた。少年の力は、表立っては見えるものではなかったけれど、ある時、一族の娘が気がついたの。少年はケガをしても、そのケガの痛みに気がつきもしない。ニコニコと笑って、たちまちに傷口は塞がっていった。少年の力は……脳に働きかけるものだった。それは、自他問わずに、記憶を自由に操ることの出来る力。そして、その代償に……死ねない体を手に入れてしまった……」
 淡々と話し続け、そこで雨都は言葉を切った。

 目はとても悲しげで……けれど、それは同情ではなく、今まで淡雪に向けてきた謝罪の眼差しだった。

「それが……あなた」

 頭の中で、ガンガンとなにか鐘のようなものが音を立てていた。
 耳元がざわついて、全ての音がうざったく感じる。
 今、自分がどんな表情をしているのかが全くわからない。
 淡雪は、自分の過去を知っている者が目の前にいることを知って、戸惑わずにはいられなかった。

「君は、一体……何者?」
 淡雪はようやく、それだけ、言葉を口にした。
 けれど、雨都にとってはそれだけで十分だった。
 その返事が肯定を表わすから。

 雨都は頬にかかった髪を耳に掛けなおすと、穏やかに、けれど、鋭く言い放った。

「私は、”おつるい”一族の末裔。”おつるい”は『十二神』と書くの」

 その言葉を聞いて、淡雪はフェンスに寄りかかった。
 頭の中をかき混ぜられたような具合の悪さを感じて、立ってなどいられなかったのだ。

 自分が自分としていられる……ここが安息の場所だったのに。
 自分が1000年生き続けていることを知る人間が、こんなところにいるなんて。

「大丈夫?」
 雨都が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
 淡雪はなんとか笑って、
「うん、だいじょうぶ」
 とだけ答えた。

「あのね、委員長。私は……あなたをずっと……見つめてきたの」
「え?」
「中学の時に、こっちに引っ越してきて……ある時、あなたとすれ違った。その時に、他の人間にはない、不思議な空気をあなたから感じ取ったわ」
 淡雪はなんとか体勢を元に戻して、雨都を見た。
「あなたは……1年経っても、2年経っても、3年経っても……高校2年生のままだった」
 悲しそうに目を細めて、雨都はフェンスに手をかけた。
 藍色になり始めた空を見つめて、穏やかに囁く。
「こんなところで……一族が犯した罪に触れることになるなんて、思いもしなかった」
 雨都の悲しい声。

 淡雪も同じように空を見上げる。
 言葉はない。
 なんと言えばいいのか、まだわからない。

「私、幼い頃、この罪を知って……その時から、ずっと、あなたに会いたかった」
「…………」
「謝らなければいけないと……心から思ったの。そんなことは全然意味などないけど。許しを求めなんてしない。でも、あなたに謝りたかった。こんなこと……許されていいはずはないから」
 雨都の声が震えたような気がして、淡雪は思わず雨都を見やった。

 辛そうに涙を流して、色白の手で顔を覆っていた。
 雨都の嗚咽が、しばらく続く。
 淡雪はただ穏やかにそれを見つめている。

「ごめんなさい……どんな反応されても受け止められると言いながら……。泣くなんて卑怯よね……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 雨都は涙を零しながら、淡雪に対して頭を深々と下げてきた。
 それは……雨都がずっと、淡雪にしなければいけないと思っていたこと。

 非人間的な人間実験を重ねた結果、淡雪のように、決して年を取ることも、死ぬこともない人間が生まれてしまった。
 いや、”おつるい”自身、まさか、こんなおまけがついてくるなんて考えもしていなかったのだろうから、これはいた仕方のないことだ。
 淡雪には、彼女の強い謝罪の気持ちに対して、応えるほどの感情はなかった。
 怒りも、悲しみも……なかった。
 ただ、あるのは……『犯してしまった自分の罪の意識』と、『ここにいられなくなるかもしれないという恐怖』だけ。

 自分は何回、人々の記憶を塗り替えただろう。
 日向の学年が上がる度、淡雪は町の人たちの記憶を塗り替えることで、ここにい続けていた。
 10年前、道端で倒れている淡雪に日向が声を掛けてくれた、 あの時から……全ては始まったのだ。

 決して変わることのない自分の目の前で、幼馴染は危うさを感じさせながらもすくすくと成長していった。

 その成長する姿に喜びを感じながらも、”自分と同い年になった”今年は少しだけ複雑な思いを淡雪は抱えていた。

 これから先、淡雪を残して、日向はどんどん大人になっていく。

 それを見続けることに耐えられるだろうか……という、迷いがあった。
 それでも……。

「書記長……」
 淡雪はぼんやりと呼びかけた。
「なに?」
「僕は……ここにいたいんだ」
 笑顔で淡雪は言い切った。

「ここに、いられさえすればいいんだよ。僕は”おつるい”を恨んでなんかいない。むしろ、僕のほうが……本当は謝らなくちゃいけないのだし」

「え?」
「……。なんでもない、気にしないで」
 淡雪は言おうか言うまいか迷った後で、ふるふると首を横に振った。
 思い出したくなかったからかもしれない。
 頭に過ぎった記憶を口に出すのはやめた。

 淡雪はふぅぅぅ……と深くため息をつくと、気を取り直したように言った。
「お願い。このことは、誰にも言わないで」
 真剣な眼差しで雨都を捉えて、淡雪は唇をかみ締めた。

 日向の傍にいさせて。

 そんな言葉は恥ずかしくて、口にも出来ないけど。

 雨都はその眼差しにたじろいだように、そっと目を逸らす。
 暗くなってきたから、顔色までは伺えない。

「言わないわ。言うはずない。ここが、あなたの居場所なら……私は奪ったりしない。あなたのために出来ることを、させてくれるなら嬉しい。それが、私に許される、あなたへの贖罪だと思うから」

 ようやく、止まった涙を拭って、雨都は控えめな笑顔を見せてくれた。

「……ありがとう」

 淡雪はその言葉に、ただ胸を撫で下ろす。

「委員長……ありがとうは、私の台詞よ。こんなにも、優しい人だとは思ってもいなかったわ」
 雨都は目を細めて、いつもよりも緩んだ表情をした。
「優しい……わけじゃないよ」
 淡雪はふと目を閉じて、それだけ返した。

 優しいという言葉はそぐわない。
 ただ、淡雪の中に、怒りも悲しみも、恨み言もなかっただけ。

「きっと……あなたのために出来ること、見つけてみせるから」
「そんなに、気張らなくていい」
 雨都が珍しく力強く言うから、淡雪は苦笑した。

 その苦笑に、雨都も苦笑を返す。

 淡雪は首を傾げた。

「本当は責められるほうが楽なのかもしれないわね」
 雨都の表情は解放されたようにすっきりしたものだったが、それと同時に、悲しげな雰囲気も感じさせるものがあった。

 淡雪はそれを見て、やはり、昔あったことを伝えなくてはいけないと感じた。
 自分に責める資格などないということを。

 淡雪の中で浮かぶのは、1人の少女が、自分の腕の中で生気を失っていく姿。


「あの……さ」
 淡雪はなんとか切り出そうと、拳をぐっと握り締めて口を開いた。

 けれど、その瞬間、後ろで、ドアが開く音がして、二人は同時にそちらを見た。
 派手にドアを押し開けて出てきたのは、日向だった。
「あ〜!やぁっと、見つけたぁ。もう、帰っちゃったのかと思ったじゃん。雪ちゃんってば〜。あ、うっちーも一緒だ」
 日向は元気いっぱいにそう言うと、ぴょこんぴょこんとカニ頭を何度も跳ねさせる。
 ぴょんぴょんと体を跳ねさせながら、日向は2人へ近づいてきた。
「どうしたの?2人が一緒なんて珍しいね?」
「あ、風に当たりに来たら、ちょうど書記長がいたんだ」
「そうそう。それで……話してみたら、小説の話で盛り上がっちゃって」
 不思議そうな日向に対して、2人は話を合わせて答える。

 日向はそれを聞いて嬉しそうに、またもやカニ頭を跳ねさせた。
「雪ちゃん、いろんな本読んでるから、物知りなんだよ?うっちーはお勉強できるから、お話合うんじゃないかな?って前から思ってたんだ♪やったぁ♪2人が仲良くなったら、あたし、すんごい嬉しいなぁ」
 楽しそうにぶんぶん手を振る日向に、淡雪はふっと頬を緩めた。

 なんでかわからないけど、日向を見ると、本当に心が和むのを感じる。
 雨都を見ると、同じく、淡雪には見せない笑顔で日向に答えている雨都の姿があった。

 淡雪は、伝えられなかった自分の罪について、少しだけ悔いを感じていた。

 けれど、元気いっぱいに日向が、
「さぁ、三人一緒に帰ろう♪」
 と言ったので、伝えるのはまたの機会にしよう……と自分に言い聞かせた。

 それが、過去から逃げたいがための気持ちから来ていることも、淡雪はわかっていたけれど。



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