第6章  人ではない、別の何か……


 まだ……淡雪が”今の名前ではない”ずっと昔のこと。
 ”おつるい”のお屋敷のすぐ近くに広がっている山奥の竹林に、淡雪は一族の少女と一緒に、たけのこ掘りに来ていた。
 少女が早足で淡雪の前を、ざっざかざっざか歩いていく。
「霧、あんまり急ぐと転ぶよ?」
 淡雪は自分よりも3つ年下の、その少女に優しく声をかけた。
 ずいぶん、早起きして出てきたのだから、それほど急ぐこともないのに、少女は息を弾ませながら答えた。
「だめよ、タケル。私は、どうしてもおじ様に美味しいたけのこを食べていただきたいのだもの。そのためには、たくさんたくさん採って、いいものを選ばなくては!」

 『タケル』……それが、淡雪の以前の名だった。
 容貌は現在と全く変わらない。
 ただひとつ違うのは、着ているものが水干と呼ばれる、古代の着物だということ。
 淡雪は袖を撫でて、やれやれ……とため息をついた。

 この少女は、先程淡雪が呼んだように、『霧』という。
 ”おつるい”の当主の姪にあたる人物だ。
 彼女の家は、”おつるい”のように山奥にあるわけではないのだが、当主である『おじ様』に会いに、ずいぶんな頻度で”おつるい”の屋敷に遊びに来るのだ。
 動きやすさを計るためか、霧はここに来る時はいつも、白拍子のように男装(袴姿)をしてくる。
 淡雪とはもう10年の付き合いになるだろうか。
 ”おつるい”の屋敷に連れてこられたその日に懐かれて、今に至っていた。

「たくさん採れば、美味いものが見つかるわけじゃない。必要以上に採るのはよくないよ、霧」
 その言葉に霧が立ち止まって振り返った。
「では、どうすればいいの?」
「こういうのは、自然に任せるのさ。運がよければ、美味いたけのこにありつけるし、悪ければ、たけのこすら見つからないかもしれない」
 淡雪の諌めに頬を膨らませる霧に、淡雪はのほほんと答える。
 その回答に、霧は納得がいかないようにふんと鼻を鳴らした。
「なによ、それ。たけのこが採れるコツでも教えてくれるならまだしも。運任せ……なんて言われたら、なんのために早起きしたのかわからないわ」

「大丈夫。霧が一生懸命早起きしたんだから、がっつかなくてもありつけるよ」
 淡雪は穏やかに笑うと、そうだなぁ……とあたりを見回す。
 そして、あたりをグルグルと歩き回り始めた。
 ほとんど同じ経路を何度も歩く。
 何度も何度も歩いて、ようやくひとつの場所でピタリと立ち止まった。

「どうしたの? タケル。何をやってるの?」
 不思議そうに霧が首を傾げる。
 淡雪はニッコリ笑って、トントンと地面を足先で突付いた。
「このあたりにたけのこがあるよ。少しだけ、頭の先っぽが出てる」
 その言葉に反応して、霧が大急ぎでこちらへ駆けてくる。
 淡雪は先程言った時のように、
「急ぐと転ぶよ?」
 と声をかけた。
 別に慌てなくても、たけのこは逃げも隠れもしない。
 それはわかっていても、見境がなくなるのは……霧らしいといえば、霧らしいのだが。

 淡雪は苦笑する。

 そして、淡雪の心配した通り、見事に目の前ですっ転ぶ霧。
 竹林は、折れた竹などが空気に触れて鋭く尖ったものがあるから、あまり安全とはいえない。
 淡雪は慌てて霧の体を受け止めに走った。
 滑り込んでギリギリのところで霧の細い体を抱きとめる。
 腕をなにかが掠めた気がしたけれど、痛みが全く走らないので、淡雪は気にも留めないで、霧を立たせてから自分も立ち上がった。
「だぁかぁら、言ったのに。怪我ない?」
「あ、う、うん、平気」
 注意されたにも関わらず転んでしまったのが恥ずかしかったのか、霧は恥ずかしそうに俯いてそう言った。
「慌てなくても、たけのこは逃げないから。逃げていくのは時間だけ。わかる?」
 淡雪はポンポンと霧の頭を撫でると、ふぅぅ……と安堵の息を漏らした。
 霧が怪我なんてしたら、『おじ様』に何を言われるかわかったものじゃない。
 淡雪が頭を掻きながら、霧を見下ろすと、霧が困ったように淡雪の右腕を見つめていた。
「どうしたの?」
 淡雪は首を傾げる。
「ね、ねぇ、タケル。腕……痛くないの?」
「は?」
「血が……出てるよ?痛くないの?」
 恐る恐るといった感じで、指差してくる霧。
 淡雪はふと右腕に目をやった。

「!!」

 どろりと、血が溢れ出していた。
 どうやら、折れていた竹の先で切ったらしい。
 パックリと傷口が広がっていた。
 慌てて、左手で傷口を押さえ込むが、次から次へ、血が零れてくる。

「どうなってるんだ?」
 淡雪は取り乱して呟いた。
「タケル?」
 心配そうな霧の声。

 淡雪は愕然として、生気のない声を発した。
「……痛みが……ないんだ」

 こんなに血が出てるのに。

 指の間からどんどんあふれ出してくる血を呆然と見つめる。

「え?」
「自分の怪我じゃ……ないみたいだ」
「何言ってるの!?そんなに血が出てる!あ、そ、そうだ。とりあえず、止血をしなくちゃ……」
 慌てた様子で袂から手ぬぐいを取り出すと、霧は淡雪の傷にしっかりと手ぬぐいを押し当てた。
 ……が、霧の手が止まる。
 淡雪は首を傾げて、霧を見つめる。
 霧はその視線に答えるように無理して笑うと、キュッと音を立てて、手ぬぐいを強く結んだ。
「さ、これで平気ね♪さっきのたけのこ掘ったら、帰ろうね。ちゃんと手当しなくちゃ」
 霧はまだ、笑い方に困るような表情だったが、それでもなんとか明るい口調でそう言うと、刃の部分を布で覆っていた鎌を取り出して、たけのこがあった場所まで駆けていってしまった。

 淡雪は手ぬぐいの上から傷に触れてみた。
 先程まで勢いよく溢れ出していた血が嘘のように止まっているのがわかった。
 その時は、手ぬぐいの止血のおかげだろうと高をくくっていたのだが、屋敷に戻って、手当てをしようと手ぬぐいを外した時には、もう傷口は塞がっていた。

 いや、傷口は……はじめからそこになかったかのように、消えてなくなっていた。

 淡雪はそれに気味の悪さを覚えて、何も言えなかった。
 自分自身、訳の分からない不気味さに吐き気がこみ上げてくる。

 一体、自分の体はどうしたというのか?
 あんなに大きな傷口が出来たというのに、痛みも感じず、いざ治療しようと開いてみたら、そこには傷なんてどこにもなくなっていた。
 気のせいだったのか?
 いや、それはない。
 霧も見ている。
 淡雪の腕から血がボタボタと零れているところを、霧も見たのだ。

 戸惑いを隠せない淡雪に、霧が
「このこと……しばらくは2人だけの内緒にしよう?」
 と、気遣うように言ってくれた。

 ”おつるい”の行っていた実験のことを霧は知っていた。
 そのことを、あまり良いこととは受け止めていなかったけれど、この実験は実証されずに終わるに違いないと、前から言っていた。
 けれど……実験の実証となるものを、自分が目の当たりにしてしまった。
 そのことで、かなりの動揺をしていたようだったけれど、それでも、霧は朗らかに淡雪に対して笑いかけてくれた。

 それだけが、その時の淡雪にとって……いや、『タケル』にとって、たった1つの救いだった。



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