第7章  そっと想いを呟くのは、誰?


 ”あの”たけのこ掘りの件から、10年の時が流れていた。
 淡雪はいつも通り、口伝えされたものを諳んじながら、縁側で空を見上げていた。
 ただ、ぼーっと……流れていく雲を見るのが好きだった。
 口伝えの文章は、自分の一部のように、もう考える必要もなく、自然に口から流れ出てくる。

 ”おつるい”の実験と称されるものは至って単純だった。
 文字も何も介さずに、耳で聞き入れたことを暗記していく……。
 ただ、それだけ。

 細かいことはわからない。
 淡雪はただ、家の口減らしのため、7つの時にここに連れてこられ、言われたままのことをこなしているだけだ。

 ただ、霧から聞いた話などを総合すると、『暗誦することで、人の中に眠っている力を目覚めさせることができる』という仮説を実証するために、こんなことをやらされているということがわかった。

 文字を読んでは意味がないらしい。
 そこのところもよくはわからない。
 元々農家の出だから、淡雪は文字などとんと読めない。
 そして、ここに来てからも文字には一切触れさせてもらっていなかった。

 この実験で成果の出ない者たちは、元の家に帰されるか、京の都にそのまま投げ出されるかのどちらかだった。
 淡雪は口減らしのためにここに連れてこられた……。
 だから、帰る場所などどこにもない。
 ここに意地でもしがみつかなければならなかったから、言われたことをきちんとこなしていた。
 実験仲間たちには、
「霧様のお気に入りだから、もし、実験の意に添えなくても、小間使いとしてここにいられるだろ?」
 などとからかわれることも昔はあったけれど、今ではそんな冗談を言ってくれる者もいなかった。


 あれから、10年の時が流れていた……。
 けれど、淡雪の体は、あの時点から成長を止めてしまっていた。
 顔立ちが大人びていくこともなく、伸び盛りだった背もあれから伸びてはいない。
 なにもかも17の時のままで、淡雪は変わり続けていく世界を見つめるだけだった。
 あまりにも何も変わらない『タケル』に周囲の者たちの態度は明らかに一歩引いていた。
 昔は仲の良かった仲間たちも、5年前から話しかけてくることがなくなった。

 そんな中で、2人だけ、そんな周囲とは違う反応を見せた者がいた。
 1人は……”おつるい”家の当主。
 その事実を知った時に、しかめっ面しか見せたことのない顔に喜びの色が見えたのを淡雪はよく覚えている。
 人間ではなくなった……そんな思いを抱いている人間の前で、当主は本当に嬉しそうに目を輝かせた。
 その時、初めて、『この人は狂っている』と淡雪は感じたのだった。

 そして、もう1人は……霧……。

 淡雪がぼーっとしていると、霧が背の低い少年(一応、お供)を連れて、庭に入ってきた。
 どうやら裏戸から入ってきたらしい。
 正門から入ってきた場合、必ず、1人はうるさいのが霧の隣についてきたりするから、すぐにわかるのだ。
 少年は必要以上に近づいてくることはなく、木の柵を背にすると、片膝をついて、待ちの姿勢に入った。
 なにか、刺すような視線を淡雪に向けてくる。
 一応、淡雪は笑いかけたが、少年は不機嫌そうにぷいと顔を逸らして、応えてきた。
 淡雪はあの少年がどうも苦手だった。
 なぜか、3年前に初めて会った時から敵意剥き出しだったからだ。

 霧がそんな2人の様子を見て、おかしそうに笑いながら、淡雪のほうへ歩いてくる。
 この屋敷に出向いてくる時の白拍子の格好は相も変わらず。
 ただ、10年経ったこともあって、顔立ちはすっかり大人び、24という年相応の色気を感じさせる女性になっていた。

「まぁったく、また、こんなところでぼんやりして……」
 たんたんと軽い足音を立てて、霧が淡雪の脇に腰を下ろした。
「やぁ、霧。また来たの?」
「また来ちゃ悪かったかしら?」
 淡雪が困ったようにそう言うと、霧は鼻を鳴らしてそう返してきた。
 淡雪も思わず苦笑を返す。
「別に。来てダメじゃないけど、いい加減、行かず後家がこんなところにいていいのかなって思って」
「…………。全く、嫌なこと言ってくれるわ」
 霧はため息を1つつくと、庭に控えている少年に対して、声をかけた。
「アカツキ、夕方に迎えに来てくれればいいわ。ちゃんとお迎え待ってるから、そんなふうに警戒しないでちょうだい」
 霧の柔らかい笑顔に、アカツキと呼ばれた少年はコクリと頷くと、さっさかと正門に向かって歩いていってしまった。

 思わず、淡雪が安堵のため息を漏らすと、霧がおかしそうに笑った。
「本当に、タケルはあの子が苦手なのね」
 楽しそうな霧に、笑い事じゃないとでも言うように、淡雪は眉をへの字にして言った。
「苦手にもなるよ。睨まれるし、目が合うと顔背けられるし……」
「ふふ……まぁ、あの子もお年頃なの。我慢してちょうだい」
「?」
「本当に……。行かず後家なのは誰のせいなんだか……」
 霧の言葉に首を傾げる淡雪に対して、霧ははぁぁ……と深いため息をついた。  淡雪はそのため息にもう一度首を傾げる。
「でも、珍しいね。あの子を返すなんて……。いつもはずっと待たせてるのに」
「え、あ、ええ……ちょっとね……」
 淡雪の言葉に、霧は誤魔化すように言葉を濁すと、こちらをじっと見つめてきた。
 霧は静かに目を細め、淡雪の顔をシゲシゲと見つめるようにして顔を近づけてきた。
「ある意味、便利な体よねぇ……。私なんて、もうそろそろ、玉のお肌とも言えなくなってくるのに」
「年取らないこと?」
「そう。……まぁ、いいことだらけでもないの知ってるけど。……うりゃ!」
 表情を少し翳らせたかと思うと、いきなり、つんと淡雪の頬を突っついてきた。
 淡雪は不意を突かれたものだから、目を丸くして頬をさすった。
「な、なんだよ、いきなり……」
「あ〜……うらやましい。男のくせにその弾力。よかったわね、にきびだらけとか、少し肥満気味の時に成長止まらなくて」
 淡雪の肌に感動したように目をキラキラさせると、冗談交じりにそんなことを口走る霧。
 淡雪は呆れたように、はぁ……とだけ返す。

 接し方が1つも変わらなかったのは霧だけだった。
 淡雪がこんな体になってしまってから、この屋敷に来る頻度はその前よりも増えた。
 そのことについては気がつかないフリをしていたけど、言葉に出来ないほど嬉しかった。
 気遣ってくれているのがわかったし、淡雪の体の変化が露呈してからも、『タケル』を『タケル』として扱ってくれたのは彼女だけだったから。
 淡雪は霧に、ひたすら感謝していた。

 またもや、つんと頬を突付かれる。
 淡雪は眉をへの字にして口元を引くつかせる。
「あ〜……うらやましい。男のくせにその弾力。よかったわね、にきびだらけとか、少し肥満気味の時に成長止まらなくて」
 霧は先程、言った言葉を一字一句変えることなく言った。
 目がキラキラと輝いている。
 淡雪はため息をついて、霧の手を押さえつける。
「それはもうわかったから……」
 淡雪の困ったような声に、霧が目をパチクリさせて首を傾げた。
 淡雪はその表情に疑問を覚えて、
「どうかした?」
 と尋ねる。すると……
「私……あなたの頬、つんつんしたことあったっけ?」
 と、不思議そうに言った。
 淡雪はまた自分をからかうつもりだな……と感じて、笑いながら答える。
「さっきやっただろう?全く……」
「…………?さっき……?」
「ああ。ついさっき」
 本当に不思議そうな霧の表情に淡雪は不安を覚えて、表情を曇らせる。
 霧はなんとか思い返すように空を見上げたが、思い出せないのか、まぁいいやとでも言うように笑った。
 なので、淡雪もとりあえず気にしないで、霧に笑顔を返す。
 それから、通ってくれる男の人はまだいないのか?とか、おじさんは元気?とか取りとめもない話を振って談笑していたのだが、しばらくすると、霧がキョロキョロと庭を見回し始めた。

 その様子に首を傾げて、
「どうかした?」
 と声をかけてみた。
 すると、霧は不思議そうに言った。
「そういえば、私、アカツキを連れてきてたわよね?あの子、どこに行ったのかしら?」
「え?何言ってるの。アカツキ君なら、霧が帰らせたんじゃないか」
 淡雪は苦笑してそう返す。
 霧は、
「そうだったっけ?」
 と呟くと、う〜んとうなり声を上げる。
 なんとか思い出そうと必死に考え込んでいたかと思ったら、突然、子供のように無邪気な笑顔を浮かべる霧。

「そうだった!今日はたけのこ掘りに行こうと思ってたのよ♪おじ様のために美味しいたけのこを採って来たいの!!タケル、付き合ってちょうだい」
 淡雪の手を取って、ぐいぐい引っ張る。
 引っ張られるままに立ち上がる淡雪。
「え…………?」
 淡雪は、今度こそ顔をしかめた。

 あまりにもいきなりだったからと……その言葉は10年前に淡雪をたけのこ掘りに誘った時の言葉と一字一句同じだったからだった。
 ここ数年、霧は当主のことを『おじ様』とは呼ばなくなっていた。
 それは淡雪の体を調べるために、傷つけたり殴ったりするという人体実験が主立ってきたからだった。
 以前まで慕っていた『おじ様』にあからさまに楯突いてから、霧は当主のことを『あの人』と呼ぶか、絶対に名前を挙げないようにしていた。
 だから、その言葉自体が、今の霧が発するにはおかしい。
 それに……今の霧の表情は、子供の頃の霧の笑顔そのものだった。

 淡雪は思わず言葉を失くした。
 なんと言えばいいのかがわからない。
 からかっているのだろうか?
 いや、それにしたって、自分が嫌っている相手の名を挙げてまでやる意味なんてない。

「……霧、どうしたの?」
 淡雪はとりあえず、流さずに尋ねてみた。
 話が急激に変わったり、同じことを繰り返したり……なんだか様子がおかしい。
 すると、それまで淡雪の腕を引っ張っていた霧が平然とした表情に戻って、引っ張るのをやめた。
「あら?私、何やってるのかしら?」
「覚えてないの?」
「何が……?」
「今…………。! 霧!?」
 いつも通り、穏やかな霧に戻ったのを確認して、状況を説明しようとした淡雪の目の前で、霧がフラリと足をよろめかせて、体が急激に傾いだ。
 慌てて倒れこんでいく霧の体を受け止める。

 10年前ほど軽くはなかったが、重いとも思わなかった。

「霧?」
 淡雪は優しく呼びかける。
 ……が、返事はない。
 呼吸をしているのは、抱きとめて触れた背中の動きで確認できた。
 どうやら、気を失っているようだ。

 とりあえず、顔色を確認してから、ほぅ……と安堵の息を漏らした。
 顔色は正常だった。
 それだけが今は救いだ。

 ゆっくりと縁側に霧を寝かせる。
 静かに額に触れてみると、少し熱かった。
 淡雪は大急ぎで、水を汲みに井戸へと向かった。



 それから、アカツキが迎えに来るまで、霧はずーっと眠り続けていた。
 熱を出して倒れたことを聞くと、アカツキはすごい形相で淡雪を睨んできたが、すぐに霧に深く頭を下げてこう言った。
「申し訳ありませんが、俺はこの通り、体が小さいので、弱っている霧様を連れて帰るなどという芸当はこなせません。明日、供を連れてまいりますので、本日はこちらでゆっくりお休みください」
 霧はその言葉に柔らかく笑って頷くと、
「ごめんなさいね。あなたも忙しいのに、こんなことになってしまって……」
 とアカツキに対して優しく労いの言葉をかけた。
「いえ、これも務めですから」
 アカツキは淡雪には絶対に見せないであろう、優しい笑みを浮かべると、ぺこりと淡雪に頭を下げて帰っていった。

 それを見送ってから、淡雪は困ったように霧に笑いかけた。
「急に倒れるから、かなりびびったよ。この20年、お前が倒れるところなんて初めて見た……」
「体だけは丈夫なのが自慢だったのに……」
 淡雪の言葉に、霧もため息混じりにそんな言葉を返してきた。
 淡雪はこんなこともあるさと声をかけて、そっと頭を撫でてやる。
 すると、霧がその手を握り締めて真剣な顔をした。

 淡雪は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
 月の光に照らし出された霧の表情が妙に色っぽかったからだ。

 霧が声を細めて言った。
「タケル……今日、私がここに来たのはね」
「……うん」
「一緒に逃げましょうって言いに来たのよ」
「…………」
 淡雪は何も言わずに、霧の目を見た。
 霧は真っ直ぐに淡雪を見つめていた。
「逃げましょう。……もう、ここにいる必要はないわ。こんなところにいても、あなたは苦しいだけ」
 霧の手を優しく離して、淡雪は笑った。
「ダメだよ。当主は、僕が必要なんだから」

 霧は頭をふらつかせながらも起き上がって、淡雪を抱き締めてきた。
 それに驚いたけど、熱で温まっている霧の体が心地よくて、離すことはできなかった。
 ふらついているせいか、寄りかかるようにして淡雪の肩にもたれかかる霧。
「私が一緒にいてあげるから。アカツキに頼んで、もっと山奥に小屋を作ってもらったの。そこで暮らしましょう。もう、実験台になんてならなくていい」
 耳元で囁かれる声は、優しくて穏やかだった。
 淡雪はぎゅっと霧を抱き締めて、目から涙を零した。

 辛くなかったわけじゃない。
 痛みを感じなくても、目の前で溢れる血には吐き気がしたし、殴られる瞬間、背中が総毛立つ恐怖もあった。
 自分が一体何のために生きているのか、全然わからなかった。
 大好きな両親に、口減らしのために切り捨てられ、たった一人で京の都に投げ出されるのが嫌で、当主に嫌われないように頑張った結果、人間離れした体を手に入れてしまった。

 怪我はすぐに治るし、痛覚は全く機能しない。
 もしかしたら、年も取らないかもしれない……。
 自分は変わらないのに、周りがどんどん変わっていく。
 その恐怖感が、ひとしきり、淡雪のことを孤独にしていた。
 だから、こんなことを言ってくれるなんて思いもしなかったからこそ、涙が零れたのだ。


「タケル……私、あなたのこと、ずっと前から好きだったの。だから、同情なんかじゃないから……ね」
 耳元で、霧はそう言った。
 行かず後家の理由はそのせいよ……と付け加えて。



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