第8章 あなたの死を見届けたのは、僕と……風だけ
木の実をカゴいっぱいに詰めて、淡雪は森を歩いていた。 秋も深まって、栗やらなんやらが落ち葉に隠れて、ゴロゴロ転がっていた。 色の変わった木の葉がヒラヒラと舞い、目の前を彩る。 淡雪は頬を緩めた。 「これだけあれば……霧、喜んでくれるな」 淡雪は本当に優しい声でそう呟いた。 ふと、空を見上げると、木々の間から青空が見えた。 まだ、日が高い。 短時間でこれだけのものを集められることはそうはない。 今日は運が良いかもしれない。 淡雪は霧に促されるまま、あれからほどなくして屋敷から逃げ出した。 アカツキが顔をしかめたまま、脱出の手引きをしてくれたのだ。 「俺はアンタが嫌いだ。だけど、霧様が言うから手伝ってやるんだ。誤解すんなよ」 そんな言葉のおまけつきで。 導かれるままに辿り着いたのが、”おつるい”の屋敷より奥まったところにある小屋だった。 急ごしらえだった割にはしっかりとした出来で、淡雪は小屋を見た時、驚いてしまった。 もしかしたら、ずっと前から用意していたのかもしれない。 霧は……前から、『タケル』を助け出そうと考えてくれていたのかもしれない。 そう考えると、また感慨入って、涙が出そうになった。 泣くところを見られたくなくて、その時はぐっと堪えたけれど。 やっぱり、霧の想いは嬉しかったし、嫌いだと言いながらも、こんな手間のかかることをやってくれたアカツキにも感謝の気持ちしか浮かばなかった。 まだ……世界は自分に優しい……。 そう、思えた瞬間だった。 けれど、世界はやはり残酷でしかないのかもしれない。 屋敷を逃げ出して、1年が経とうとしていたある日……霧の体に、異変が起こった。 いや、前から兆候はあったから、目に見える形で、霧の体がおかしくなったと感じたのがその時だったというのが正しいだろうか。 兆候とは、『タケル』に逃げようと言ってくれたあの日に見せた、物忘れだ。 あれからも、何度かそういうことがあった。 もうご飯は食べたのに、お腹が空いたと言ったり、アカツキに用があると言って呼びつけておきながら、その用件を思い出すことができなかったりしていた。 会話の途中で、コロリと表情が変わって、全く別のことを話し出したりすることもしょっちゅうだった。 けれど、些細な物忘れだろうと高をくくって、淡雪もアカツキも気に留めるのはやめていた。 周りが気にすると、本人はそれ以上に気にしてしまうと……思ったからだった。 だが、そんなある日、淡雪が木の実集めから帰ると、アカツキが真っ青な顔をして、霧のことを抱き留めていた。 料理中に派手に手を切ったにも関わらず、その怪我に気が付かずに料理を続けていたのだ。 ちょうど諸用で訪れたアカツキが声を掛け、出血が多かったせいか、霧は青い顔でふらりと倒れたのだそうだ。 とりあえず、手当てをして布団に寝かせておいたのだが、目を覚ました時、霧はぼんやりとして、アカツキにこう言った。 「あら? あなた、誰?」 と。 その瞬間、淡雪は全身の毛が総毛立つのを感じた。 電撃が走ったように、ざわざわと心の中が震えたのがわかった。 聞いていた第三者がそうなのだから、言われた本人はどんなにか衝撃を受けたことか想像も付かない。 淡雪がアカツキを見ると、アカツキは目を見開いた状態で固まってしまっていた。 淡雪の視線に気が付いたアカツキは、いつになく元気のない視線を返すと、俯いた。 黙りこくって、ぐっと拳を握り締めていた姿が印象的だった。 そうしている間に時が流れて、夕暮れ時になると、 「霧様もとりあえず元気になったようですので」 とだけ言って帰っていった。 結局、その間、霧がアカツキのことを思い出すことはなかった。 そして……それから先も、以前のアカツキについて思い出すことはなかった。 ただ……アカツキのことを忘れてしまったことも衝撃だったが、淡雪にとってはそれよりも気がかりなことがあった。 『痛みに気が付かずに、料理を続けていたこと』 それは、まるで、たけのこ掘りの時の淡雪のようではないか……。 違うのは、霧の傷は消えることはなく、出血量が多すぎて貧血を起こすまでに至ったこと。 そして、手を切ったにも関わらず、その出血が見えていなかったこと……。 異常なことなのは明らかだった。 けれど……どうして、こんなことになったのか、原因が掴めない。 淡雪の状態に似ているようで似ていない。 だが、似ているのなら、……その原因は……。 それ以上の答えに辿り着くのが嫌で、淡雪は首を振る。 嫌だった。 吐き気がした。 自分だけが時に取り残されていく……。 それだけではいけないのか? どうして……安らぎをくれる人まで、自分のおかしな力に……巻き込まれる……? 淡雪は下唇を強く噛んだ。 その時、霧が困ったようにぽつりと言った。 「ねぇ、タケル?あの子、私の知り合いでしょう?思い出せないなんて、私……おかしいわよね?」 と。 霧には自覚があった。 アカツキを忘れてしまった自覚があった。 淡雪もアカツキも、何も言わなかったのに、霧はしっかり自覚していた。 「なんだか……おかしいの。ここ最近、私、おかしいのよ……」 怪我した部分をじっと見つめて、霧はそう言った。 淡雪は 「何がおかしいの?」 と、出来るだけ動じずに尋ねる。 霧はぼんやりした眼差しを淡雪に向けて、辛そうに表情を歪めた。 「消えていくの……」 「え?」 「たくさんの思い出が……消えてくの。お父様の顔が思い出せない。お父様はわかる。でも、顔が……思い出せない。どんな風に笑うのか、どんな風に叱ってくれたか……思い出せない。10年前に、あなたと桜を見に行ったことは思い出せる……。だけど、その時の桜をどこで見たか、その時の桜がどんなに美しかったか……それが、思い出せない……。前は、考えればすぐに浮かんだのに。全然浮かんでくれないの。それと同じで、あの子が、私の知り合いなのはわかるけど、あの子がどんな経緯で私の知り合いになったのか、私との関係はなんなのかが思い出せない」 ポツリポツリと話しながら、霧は涙を零していた。 思い出せないことが申し訳ないように。 本当なら、吐き気を覚えるくらい、自分のことでいっぱいいっぱいなはずなのに、霧は忘れてしまった思い出全てにごめんなさいと言うように、泣いていた。 淡雪はそっと霧の頭を撫でた。 「疲れてるんだよ。ほら、今日だって、ぼけっとしてて手を切ったんだろ?疲れのせいだよ……きっと。ゆっくりお眠り。休めば、きっと少しずつ思い出せるようになるさ」 気休めにしかならないかもしれない言葉を掛ける。 自信は全くなかった。 霧が思い出せるようになるか、全然自信がなかった。 それでも、自分に言い聞かせたくて、淡雪は霧に優しくそう言った。 霧が不安そうな目で淡雪を見てくる。 淡雪はなんとか笑顔でそれに応える。 けれど、霧の次の言葉で、淡雪の笑顔はすぐに消えた。 「どうしよう……私、あなたのことまで、忘れてしまったら」 その言葉は、貧血で倒れて弱りきった声なのに、妙な重さと現実味を感じさせた。 淡雪は、なんとかもう一度笑顔を作る。 「大丈夫だよ。だって、僕はこんなに近くにいるんだから。それに、忘れないって。疲れてるだけなんだから!休めば思い出せるの!わかった?」 穏やかな淡雪が精一杯明るい声でそう言った。 それを見て、霧もそうねと頷いた。 けれど、霧がその言葉を信じていないのは、付き合いの長い淡雪にはすぐわかった。 淡雪はそれが悲しくって、そっと顔を背けた。 それから、3年の時が流れた。 霧は……淡雪の言った通りにはならなかった。 休んでも、『お父様』のことを思い出さなかったし、『アカツキ』のことも思い出さなかった。 それどころか、『おじ様』のことを忘れ、『家』のことを忘れ、彼女の心の中には、もうほとんどの思い出が残っていなかった。 ただ、『タケル』のことだけは忘れずにいてくれた。 救いは……それだけだった。 「今日は栗ご飯だな。霧は昔からこれが好きだったから、きっと喜ぶ」 淡雪はもう一度、そう呟いて頬を緩めた。 最近、霧は日がな一日中、ぼんやりしていることが多くなっていた。 沈んだ表情で、小屋に篭ってばかりいたから、今日こそは笑顔にしてやろうと、淡雪はむんと気合を入れる。 森を抜けて、小屋までの道のりを急ぐ。 アカツキも今日は来る予定だから、どうせならごちそうしようと考えたのだ。 淡雪にはこれくらいのことしかできないから。 これくらいのことでしか、感謝も何も表わせないから。 「今帰ったよ、霧♪」 淡雪は明るい声で、小屋の戸を開けた。 けれど、小屋に入った瞬間、目に飛び込んできた光景に、淡雪は思わずカゴを落とした。 霧が……床に突っ伏して倒れていた。 慌てて霧に駆け寄ると、そっと抱き起こして呼びかける。 「霧?霧?どうした?」 そう声を掛けると、霧は体をピクリと反応させた。 けれど、意識を揺り起こすまでには至らない。 淡雪は出来るだけ動かさないように声だけで呼びかける。 そして、呼びかけている途中で気が付いた。 霧の口元と、耳から……血が出ていることに……。 淡雪は、自分の心臓が激しくドクンドクン……と気味の悪い音を立てるのを感じた。 頭の中で何かがグルグルと回る。 意識が遠のきそうだった。 必死に頭を振って、遠のく意識を呼び戻す。 吐き気なんて構ってはいられない。 今必要なのは、霧の意識を呼び戻すこと。 「霧?起きて?霧!」 何度も、何度もそう声を掛けた。 そうして、どれくらい呼び掛けたかわからない。 喉が痛くなるくらい呼びかけて、ようやく、霧が静かに目を開けた。 もう、その目に生気は感じられなかった。 嫌な予感が、淡雪の中で色濃くなる。 「あ……タケル」 霧はニコリと笑った。 その笑顔が真っ青になっている顔に不似合いで、淡雪は目を背けたくなった。 けれど、背けずに笑いかける。 「よかった……」 「? 何が?」 霧は不思議そうにそう言った。 霧には……淡雪と同じで、痛みの感覚がない。 だから、口と耳から微かに流れている血に気が付いていないのだ。 霧は目を細めて言った。 「今ね、嫌な夢を見ていたの」 「どんな?」 「あなたまで、私の心からいなくなる夢……」 「……覚えててくれてるじゃない」 「うん……あなたの声がしたから、……一生懸命、走ったの。走って、走って、一生懸命返事しているのに、……あなたは悲しそうにしてるから。すごく……すごく、私、慌てたわ……」 淡雪の服の裾を掴んで、必死に目で訴えてくる。 途絶えそうになる意識をなんとか繋ぎとめて、必死に目で訴えてくる。 「よかった……私、あなたのこと……忘れてないのね」 「もういいよ、疲れてるんだ。霧、休め」 これ以上、喋らせることに不安を覚えて、淡雪は優しくそう言った。 けれど、もう……遅かった。 はじめから……小屋の中で倒れている霧を見つけた時点で、もう……手遅れだったのだ。 霧は淡雪の言葉も聞かずに、震える手で『タケル』の頬に触れた。 「ああ……すべすべ。羨ましい……。私はもう……玉のお肌じゃなくなったから……本当に羨ましいわ。よかった……私、タケルのこと、忘れてない。私の心の中に、タケルだけは……のこ・・っ……・て……・る……」 霧は生気のない目で、ふわりと笑うと、『タケル』の頬に触れていた手がかくりと落ちた。 淡雪は愕然とした。 抱き寄せていた手で、霧の背中に触れる。 霧の心臓は……もう、音を奏でてはいなかった。 頭の中で、先程よりも激しく……何かがグルグル回っていた。 気持ちが悪い……。 吐き気が……本当に、今、喉を圧迫していた。 「霧……嘘だ……」 淡雪はポツリと呟いた。 霧の頬にポトポトと、水滴が落ちる。 それは淡雪の頬を伝った涙だった。 苦しいしゃくりあげもなく、ただ、涙が自然に零れていた。 秋の山は……音が全くなかった。 時折、吹き抜ける風だけが、静かな自己主張をするだけで、その他には世界を感じさせるものは何もなかった。 だから、淡雪は自分も霧と同じように世界から切り離されたのだと錯覚しそうになっていた。 いや、錯覚すればいいんだと思っていた。 ここで、彼女を弔って、来るかもわからない自分の体が朽ちる日を待てばいい……。 待てばいい。 待てばいい。 誰が咎める……? 咎める者など………… その時、ガタリと、後ろで誰かが戸を開ける音がした。 淡雪は、ゆっくりと振り返る。 そこには、肩で息をして、アカツキが立っていた。 この3年で、背もずいぶんと伸びた。 もう、淡雪と同じくらいか……。 いつもと同じ、敵意剥き出しの眼差しを淡雪に向けてくる。 「もう……ここに、霧様を置いておけない。霧様の記憶がなくなったり、痛みを感じなくなったの……アンタが原因なんだってな。当主様が言ってた……。当主様も……アンタと関わってから、痛みを感じなくなったって。だから……」 何を……言っている? ああ…………原因は自分じゃないかと思っていた。 じゃあ、その時に霧を切り離しておけば、こんなことにはならなかったのか? 1人になりたくないなんて、そんな我儘を考えなければ? 一緒に逃げようという、申し出を受けなければ? なんて、自分は罪深いんだろう……。 いなくなってしまいたいのに。 消えてしまいたいのに。 自分は、どこにも……行けない……。 「……?」 アカツキは無反応の淡雪に首を傾げる。 様子がおかしいことに気が付いて、歩み寄ってきた。 淡雪が抱いている霧の顔を覗き込み、ようやく、状況を察したように目を見開いた。 「そんな……遅かったのか?!」 アカツキは霧の体を、淡雪から奪い取った。 「霧様!霧様!」 一応、体を揺することはせずに、声で必死に呼びかける。 霧はぐったりしていて、動きもしない。 腕はだらりと垂れていて、首もカクカクと簡単に動いた。 アカツキは悲しそうに頭を垂れる。 「だから……反対だったんだ。こんな、人間じゃないヤツ、放っておけばよかったのに」 その言葉が、胸にグサリと刺さった。 けれど、反面、その通りだと思う自分がいた。 アカツキは霧を抱き上げて立ち上がると、淡雪をギロリと睨んだ。 「俺は……アンタのこと、許さないからな。霧様の想いに甘えやがって。分も弁えずに……!」 そう吐き捨てると、霧を抱えたまま、小屋を出て行ってしまった。 落ちていた木の実がいくつかグシャグシャと音を立てて踏み潰された。 色々なことが一度に起こりすぎて、淡雪はそれを見送るしか出来なかった。 関わる人全てに……この力は影響を及ぼす……? ああ……そうか……。 もう、誰にも関わらなければ、それでいいのだ……。 淡雪は静かに目を閉じた。 秋の山は音がしない。 ここにいる内は、自分自身が世界から切り離されたように感じられる。 霧と同じ世界に行けるような……錯覚を覚えられた。 涙は止め処なく溢れる。 きっと……もう、誰も、自分を好きだと言ってくれる人など現れないのに。 その大事な人を、自分の中の力が殺してしまった。 自分も、霧のことを愛していた。 時に妹のように、時に姉のように……時に……妻のように。 愛していたのだ。 口にはできなかったけれど。 「好きだったんだ……僕も……。好きだったんだよ、霧……」 風の音が、淡雪の言葉をさらっていった。 どうしようもなく、淡雪はうなだれて、ただ、拳を握り締めて、自分の頭を床に叩きつけた。 痛みはなく……ただ、ゴツリと重い音が響いただけだった。 血が一筋流れて、すぐに傷口は塞がってしまった。 |
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